第49話.認知的不協和


 シートベルトを外す怜莉。


「ありがとう。國村先生も梶さんも居ないみたいだから、明日、話してみる」


「梶さんも昨日初めて知った事、多そうだったけどね」


「ね。千景。どうして國村先生は梶さんにすら云わなかったんだろう?」


「代表が居たからじゃん。寧ろ、國村先生に気遣って、信頼してもらえる努力してきた?」


「……少なくともオレは出来ていないと思う」


 怜莉の静かに内省する風の表情をじっと見る千景。


「逃げてみる? 彼女と一緒に」

「え?」


「國村先生の母親も、桜海の幼馴染も『中央』に巻き込まれて死んだ様な物だろ? オレ、いざとなったら百音連れて逃げる。引き返すなら全て知る前」


 黙り込む怜莉。


「気になっている事があって」


「何?」


「彼女の亡くなった祖父、『干支の書』の作者『於菟』と同じ名前なんだ」


 顔を上げる怜莉に、一度は何かしらを考える顔をする千景。


「ああああああもう! 悩むだろうけど考えろって! 彼女の祖父が仮に『中央』と関係あっても『於菟』だとしても、死んでるんだろ? 今、於菟が居るなら別人だよ!」


 片手でハンドルを握ったまま、声を荒げる千景。バックルカバーを掴んだままの怜莉。


「……ごめん。千景、実際、どのくらい時間、余裕あると思う?」


「知らない。オレは今年度末で塾講師は辞めるし、誘われてる監査は給料良いけど、人に『死ね』とか云う奴が代表やってた様な所。無理」


 怜莉を南の門の前で降ろした後、千景は東側の駐車場に車を止める。


「千景」


 運転席側の窓に千景の妻、松田が触れ、ウィンドーを下げる。


「怜莉くん、迎えに行ったの? 大丈夫? 余計な事、話してない?」 


「あ。國村先生と桜海が異母兄弟だって、うっかり」


「うっかりって! 念を押されてたでしょ!?」


「梶さんも怜莉も、桜海には云わないって。隠す必要あった?」


「國村先生は秋さんと似てるのよ。自分の隠し事一つでも話せば、どんどん自分を保てなくなっちゃう」


「そう? 男ならストッパー効くと思うんだけど?」


 松田は千景の言葉に突発的にムッとなる。カタンっと音を立て、車窓の前にラーメン鉢が二つ入ったビニール袋を持ち上げる。


「……千景。これ! 駿来軒の前に置いてきて!」


「はあ?」



 西側の狭い路地に静かに鳴り響くケータイの電子音。微かに温い風に流れる灰色の髪。肩に掛けたトートバッグの中を漁る鏡花。


「え? ちょっと待って」


 真後ろを通りがかった人影に千景は声を掛ける。


 鏡花が驚いて、直ぐにりんねの顔をしようとしている間に駿来軒の店先にラーメン鉢を置く千景。


「図書館から歩いて来たの?」
「あ……えっと……歩いていたら……迷子になって……」
「仕事場近い?」


 テンポ良く話し掛ける千景につい応答してしまうりんね。


「ラットっていう画材店に行けたら後は分かるんですけど……」


「いやいや。完全に逆方向だって」


 目を逸らしながら話していたりんねは、ちらっと千景の茶色の髪を見上げる。


「怜莉、呼ぼうか?」


「え? ……あ。あの。えっと……」   


 戸惑うりんねは「さっきから、この辺りおかしくて」と咄嗟に話し掛ける。


 りんねが歩いて来た細く長い通りを振り返る二人。静かで何もなくて、邸宅の塀からは白樫の木がはみ出し、路地裏をまるで覆い隠す。


「赤星さんの家。声はするのに、住人を見かけた事ってないんだよね。子供達の怪談話になるくらい」


「……おばけ?」


「『現在は誰も居ない家』ってマザーグースみたい話。単に音が響きやすくて、出入り口も逆なだけだろうけど」


 樹々の隙間からも何も見えない家。壁を眺めていたりんねは急に泣きそうになる。


「袖の刺繍、兎?」 


「え? え?」


 白いパーカーの袖口に慌てて視線を落とすりんね。


「あ……はい。去年、親戚に服とか財布とか、色々お下がりを貰って。トートバッグも」


 千景はりんねが提げているトートバッグの左端に[ BMK&KIDSch 2006 ]と書かれた文字列を見つける。


「いや待て。これどういう状況なんだ。 桜海、呼んだ方が良いのかな。いや、でも先に避難……ちょっと待って。被害範囲どうなって……そもそも全員は流石に」


 りんねを放って、早い独り言を口にする千景。


「あの」


 横を向いて、独り言を続けていた千景にりんねが声を掛ける。


「……ごめんなさい。最近よく分からなくなってて……今もどうして」


 場に崩れる様にしゃがみ込むりんね。


「……私、なんで、こんなに喋って」


  俯くにつれて前に流れる灰色の髪。千景はグレーのテーパードパンツベからケータイを取り出す。


「てか、此処、怜莉の職場なんだけど?訊ねてきたんじゃなくて?」


 驚いて一気に顔をあげるりんね。


「え? もしかして此処なんですか?」

「迷子になってくる様なルートじゃないし。何か他に理由あった?」


 千景はりんねに訊ねながら、怜莉のケータイを鳴らすものの応答は無い。


「怜莉さんの傘が見つからなくて……」


 一旦、呼び出しを終了させる千景とまた少し顔を下げるりんね。


「私も今日はもう仕事に行かなきゃ」



 人の居ない職員室の椅子に座ると頬杖をつき、ぼんやりとする千景。ドアを開けて入ってくる松田。


「百音。桜海と怜莉って似てないよな?」


「何かあったの?」


「桜海のデータを上書きしたのが今の怜莉じゃん? だとしたら桜海の癖に暗過ぎる」


「そう? 真面目な部分とか、根は変わらないのかも?」 


「あ。設定が定まらなくて安定していないのか。


 まりかちゃんは『幼馴染の頼りになるお姉さん』ってシナリオ組まれてたし。


 じゃあ早く彼女をイブだと断定させて『守ってくれる頼りになる彼』に落ち着かせないと」


「ね。断定って出来るの? 1ヶ月近く見張ってる警察ですら、一度も彼女を見かけていないのに。このままじゃ接触なんて到底無理でしょう?」


「だから、其れがおかしいんだって。灰色の髪って分かりやすい特徴あるじゃん」


 松田は隣の空いた席に座り、キャスターを動かし、千景の方を向く。


「國村先生、後悔しているの。


 まりかちゃんに、桜海くんをこの先も梶さんと一緒に見て行ってほしいと云ってしまって。


 辛いよね。


 『自分がいつも完璧でいなければいけない』って、まりかちゃんには、そう伝わってしまったのかもしれないって」


 頬に当てていた手を降ろす千景。


「梶さんの性格、見誤ったの後悔してんじゃないの?」 


 今度は百音が宙を見つめる。


「千景とこういう話をする日が来るなんて思わなかった。本当はこういうの、ずっと期待してたんだと思う」


「百音。あのさ。やっぱり変なんだよね」


「何?」


 千景の顔を見る松田。千景は机の上のメモ用紙にロバと兎の絵をさらさらと描いていく。

「莉恋の好きなキャラクター。子供服とのコラボで去年と今年、福袋出してたじゃん?


 怜莉の彼女が着てた。


 キッズチャンネル予約限定のバッグも持ってた」


「どういう事?」


 松田はがたんと大きな音を立てて、千景の前で立ち上がる。


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