第40話.割れ窓の寓話
▶物語の流れや登場人物の関係性を確認したい方は、こちらをご覧ください
ケータイを切ると、立ったまま、雨が打ち付けた後の窓を眺める松田。
梶と國村が座る和室の入り口前に戻ってきて、腰を下ろす。
「桜海、何の用だって?」
「怜莉くんが早退したって」
「なんで?」
國村は傍らに資料を積み終えると、梶を見る。
「修治の電話はなんだったの?」
「元警部さんです。梶さんと一緒に怜莉くんの面倒を見ている、小松刑事の元上司です」
「何が何だか分からないな」
20センチ程の高さになった資料の山に、國村は手を置く。
「多くの登録者が、仮定、推測を元に研究をしてきました。貴方の役に立ちそうなのは此の辺りでしょう」
云うと立ち上がる國村に、松田が勢いよく声を掛ける。
「待って! 何処に行くの!」
「千景くんが早退しましたから、夕方以降の授業は引き受けます」
「一日中、開けている塾ってのも大変だね」
襖の丸い引手に指を掛けている國村と、和綴じにまとめられた束を手元で閉く梶。
「此の期に及んで、未だ二人とも話する気も無いの!?」
呼び止める松田の方を向く梶と國村。
「……足並みは揃えない方が良いのです。
於菟を研究していけば見たい物しか見えなる。正体は鏡。
同じ考えになれば、同じミラーハウスに閉じ込められます」
「でも省吾さんはいつまでも勉強しないし!」
「えー」
「また適当な返事! 修治も動かないで!」
松田は其の場で電話を掛け始めて、スピーカーにした通話口から呼び出し音が長い間、響く。
「千景? 何処? 莉恋は私が面倒見るから。戻ってきて! 授業して!」
云うだけ云うと、電話を切る松田に溜め息を吐く國村。
「千景くん、返事していませんよ?」
「そういえば、オレを名前で呼ぶのって百音ちゃんだけよね?」
「だから! 省吾さんは何で話を逸らすの!」
「ちょっと不味いなって思って」
作務衣を着た梶は持っていた資料集を床に置く。それから壁際額縁の12種類の印章の図を指差して、松田だけが先を見る。
「そもそも印章なんて面倒な名前が付けただけで、正体は単なる『人よりも大きい影響力』なんだよね。
でも影響力の強さが可視化、数値化されると万人が知るなれば、大抵は余計に面倒。光輪や光背が罪人にあっちゃ不味い。
聖人以外の影響力を認めたなら、パワーバランスが崩れる。
偶然に辻褄の合う理由が成り立ったのが仏教。けれども一過性であり、『於菟の下』にしか残らなかった。
そもそも宗教が人の思想を反映させる以上、天文を必要とした於菟の研究は相性が問われる。と、まあ、百音ちゃん、こういう風に一通りは勉強してきたけど?」
松田を見る梶の話に、國村は諦める様に再び畳の上に座る。
「大人同士の話なんて、聞き手と話し手に分かれなければ、互いに好き勝手を云うだけになりますよ」
今度は國村が松田を見る。
「先日も梶さんに話しました。あらゆる疑問には宗教的回答が用意されている。納得が行かないのならば他を当たれば良い。ありとあらゆる学問すら行き着く先は神の域です」
「で、オレさ。中央に来て思った事があるのよ。日本各地から赴いて、宗教施設だか研究施設だか、よく分からない此処に来ている僧侶達。少なくともオレが此処で見た限りじゃ、風変わりな事を学んだ満足感もしくは箔をつける為に来てた」
二人から話掛けられる松田の握り締めるケータイの、ストラップの鈴の音が鳴る。
和室の入り口前片隅で梶と修治は、お互いに気遣いながら丁寧に思う事を口にしていく。
「中央に来る為だけに僧籍を貰う者も居ますからね。通信講座もありますし、短期間での得度は出来る。現に小松刑事も資格は持っている」
「まあ、但しよ? 過去の一時、配られていた虎の絵を渡された登録者は印章持ち者が多い。修治の母親の遺した、良いも悪いもあらゆる秘密を守ってくれる『虎の絵』が配られなくなったから、としても。中央の方針や意味が何処かのタイミングで変わってる? よね?」
國村はもう一度、大きな溜め息を吐く。
「修治さ。代表の息子、桜海が『13番目の印章』を持って生まれたのは『印章のジンクス』が発生したからじゃないの?」
「捉え方によってはそうなるかもしれませんし、私にも思うところはあります。しかし認める訳にはいかない」
「でさ。修治の始めた無料塾の生徒はどうよ? 県外からも、印章を持った子供だけを受け入れて、分かった事あるの?」
考えながら黙り込む國村をじっと見た後、松田は梶と目を合わせる。
「少なくとも『イブ』は来ていません」
今度は梶が意味を捜したまま、黙り込む。
「桜海くんはあくまでも『13番目の印章』の半分である『アダム』の印章。
過去の記録によれば、後発である『イブ』の印章を持った者は追って12年以内に産まれる。
『アダム』は『イブ』を捜そうとし、『イブ』は『アダム』を捜す様に作られている。
しかし『彼女』を桜海くんと会わせる訳には行きません」
「オレはさ。日本でも『印章のジンクス』は発生するし、オレ自身も発生させたと思うのよ?」
「どういう事?」
松田は視線を投げ、ケータイを握る指に力を入れる。
「オレの『印章のジンクス』は、オレが心配している人間に起こるらしくてね。
インドに滞在中。友人の助けと思い、『背後にある円』の記録をし出して間もなく、彼は無理心中に巻き込まれた。
中央に所属して、印章の概念を知って、ジンクスとの関連を疑う様になった。そして、まりかちゃんを亡くした。更に当時は、怜莉の面倒を見ていた」
梶は松田を見て、「ね?」と云う。
「修治。桜海が『イブ』と会ったら、何の問題がある訳?」
國村は躊躇いつつ、答えを返す。
「桜海くんには善悪を求められません。
『アダム』の行動決定は『イブ』にあり、『イブ』の意思決定は『他者』にある。
『イブ』が禍を招こうとするならば、残念ですが、桜海くんは手を貸してしまうでしょう。
更に質が悪い事に歴史が繰り返すうちに『アダム』に出来る事は近代の『イブ』も出来ると推測されている」
「じゃあ何? 桜海がまりかちゃんに懐いたのって『イブ役』だから? しかも、まりかちゃんには何も教えず、子供の時から『イブ役』を押し付けてきたの?」
「そうなります」
梶は、一気に話していた流れを止める如く、深い息を吐く。國村と松田、どちらの顔も見、話を続け始める。
「だったらさ。怜莉は『アダム役』を押し付けられていたりしない?」
「ちょっと待って! なんで私の可愛い怜莉くんまで、どうして!」
松田が梶の前に身を乗り出した瞬間。梶の真後ろで襖が開き、梶が振り返る。
「えー?」
「あれ? 本当に入って来たら駄目な奴……でした?」
千景がまとまって集まっている三人と、和室に散らばっている多くの冊子に目をやる。敷居を跨ぐのを辞める。
「百音と國村先生のどちらにも用が合って、梶さんにも」
「え? オレ?」
梶が素直に訊ねて、國村は千景から梶に目を移す。松田だけは開いた口が塞がらず、千景をじっと見ている。
何度推してもいいボタン
わんわん数: 705