第46話.ビオ・サバールの法則
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怜莉は手を伸ばし、コンロのつまみを回す。
「りんね」
云うと不意に力が抜けてしまい、其の場に座り込もうとする鏡花。後ろから右腕で抱え込む怜莉。
「怜莉さん。……りんねだよ? 私はりんね……だよ?」
顔を覆い、涙ぐむ鏡花が答える。下がる掌に落ちるフリースの袖。
「……うん」
怜莉は小さな背にあるうさ耳のフードを静かに被せる。前に垂れる白く長い耳が鏡花の顔を隠す。
「ごめんね。りんね。びっくりしたよね?」
兎の片方の耳に触れた後。いつもよりも背の低い『りんね』を怜莉は再び強く抱き締める。
「大丈夫。ずっと一緒にいるから」

白い無地のパーカーに格子柄のスカート。ウォークインクローゼットの鏡に姿を映す、りんね。
寝室と居間の間にある部屋。パーカーの袖口には兎の刺繍。壁や仕切りはあちらこちらが棚で本が並ぶ。
居間に出て、テーブルに食器を置く怜莉に声を掛ける。怜莉も着替え終えている。
両面を焼いた目玉焼き。スライスチーズが溶けたトースト。りんねが作ろうとしたハネムーンサラダはメキシカンシーザーサラダに変わっている。
「大丈夫?」
「……うん」
ローソファに座るりんね。怜莉は手に持っていたコーヒーカップを2つ並べる。りんねの好きなウルサマヨルという名のデカフェ。それから隣に座る。
「ごめん。朝から変な話をして」
「ううん。私が昨日、おかしかったから」
「りんね。其の事なんだけど……とりあえずは朝食にしよう」
手を合わせて「頂きます」という二人。
怜莉を真似、トーストを齧るりんねの様子を眺める怜莉。視線に気が付いて、やや俯くりんね。
「……桜海の話は以前したよね? 職場の同僚で、幼馴染を亡くしてるって」
「うん。譲ってくれたエナメルネイル。ホワイトデーに渡す予定だったんでしょ?」
「そう。桜海の幼馴染はまりかさんって名前なんだ」
トーストを齧る怜莉。考え込む、りんね。
「りんね、少し不思議な話をしても大丈夫?」
「……うん」
りんねが頷くと怜莉は「オレもまだ整理出来ていないんだけど」と前置きをする。
「りんね、前に一年間の記憶が無い時期があるって云っていたけど……まりかさんがりんねの時間を借りていたのかもしれない」
「時間を借りる?」
りんねは首を傾げながら、思い出す。
黄色いカバーを被せたランドセル。迷子の小学生の相手するドラッグストアの店員達。幼稚園児だった自分が気が付いたら小学生になっている事を知った時。そして、まりかという名前。
「……まりかさん。昔、ドラックカメヤで働いていた女の子と一緒の名前」
「カメヤで? 会った事あるの?」
「会ったことは無いの。お店の人が辞めちゃった女の子の話をしていて」
四分の一を食べ終えたトーストを皿に置く。怜莉に取り分けてもらったサラダの器を受け取るりんね。怜莉もチップスとレタス、海老を箸で綺麗に挟んで食べ始める。
「えっとね」
りんねはハッとして怜莉の顔を見る。
「さっき、怜莉さん、まりかさんが私から時間を借りてたって云った?」
「うん。ごめん。意味が分からない事を云っているとは思う」
「えっと。えっと、どういう事だろう? カメヤさんで気が付いたの。時間が経ってるって。カメヤさん……亀? 浦島太郎? あれ? だったら私は竜宮城にでも居たのかな? あれ?」
思い付きを声にして混乱しているりんね。一度、顔を向けて、怜莉は一つの皿に載っている目玉焼きを半分こにする。
「関係があるならウラシマ効果かもしれない。速度における時間の遅れ」
りんねは自分の記憶が無くなった始まりの日が2001年3月8日だと思い出す。
「わたしの髪の毛が灰色になったのは記憶が無くなった後なの。……玉手箱と同じ」
「玉手箱を開けたとしたら梶さんじゃないかな? りんねにはシンデレラの方が似合うよ」
「……梶さん?」
怜莉とりんねは同時にコーヒーカップを持ち上げる。
「ごめんね。今朝見た夢の話を聞いて欲しかったんだ」
「これは全部、怜莉さんの夢の話?」
りんねは不思議そうな顔を怜莉に向ける。
「うん。だから、りんねは何も心配しなくて良いよ。不思議な夢だったから聞いてほしかったんだ」
怜莉が落ち着いた表情を見せると、りんねの表情を緩くなる。

「サラダもトーストも全部美味しかった」
笑顔で云う、りんね。黒いタイツをミュールに滑り込ませると、玄関の内側で振り返る。怜莉は笑いながら、革靴を履いて立ち上がる。
「やっぱりオレも一緒に行こうか?」
「ううん。傘置いてきちゃったの私だし、図書館未だ開いてない時間だから、他にする事ないし」
続けて、りんねは「ごめんなさい」と小さく云う。
「仕事も休みになっちゃったし、昨日はぼんやりしていたんだと思う」
「オレも最近、職場で色々あったから」
玄関の近い距離で話し続けるりんねと、怜莉。
「ね。怜莉さん。もし、私がね」
云い掛けてやめて、りんねは続ける。
「早く行かないとバスに乗り遅れちゃうね」
手を繋いで、マンションのエントランスを出て、アプローチポーチから道路に出る手前。目の前に白い車が止まり、助手席側の窓が開く。
「千景?」
「あれ? え?」
黙り込んで俯き、怜莉のやりとりを相手を少しだけ見るりんね。運転席に居る男性と目が合い、慌てて、隣の怜莉に顔を向ける。
「怜莉の彼女? え? どうやっても会えないって訊いてるんだけど?」
「何の話? 桜海が云ってたの?」
怜莉の手を強く握るりんねの手。震えている手に僅かに落ちる白い袖口。
「大丈夫。職場の人なんだよ」
顔を下に向け続けるりんねの灰色の髪が風が揺れる。
「千景、何かあった?」
「あー。莉恋を学校に送って行ったついで?」
「……学校?」
微かに呟いたりんねの声を、千景は聞き逃さず拾う。シートベルトを外して、後部座席に身を乗り出し、シート下に落ちている校帽を拾う。それから捻った姿勢を戻すと、窓から怜莉に帽子を渡す。
「莉恋、私立の小学校に通って、オレ似で優秀なんだよ。でも忘れ物、多くてさ」
怜莉の持っている校章入りの帽子をちらっと見るりんね。
「知らない学校……何処にあるの?」
市外にある遠い場所の説明をする怜莉と、だんだん顔をあげていくりんね。握る力も表情も少しずつ落ち着いていく。
「とりあえず、二人とも乗ったら?」
「わ……私は大丈夫です」
手を離そうとするりんねの手を今度は怜莉が強く握る。
「折角だけど」
千景はドリンクホルダーから烏龍茶のペットボトルを持ち上げて、蓋を開ける。
「なんて云うか普通のカップルだよね? 二人とも二十歳くらい?」
「オレの歳、知ってるでしょ? 彼女は18歳」
怜莉は苦笑しながら、千景に莉恋の校帽を返す。それからスーツの胸元で逆さまになっている虎のピンバッジを正しい位置に回転させる。
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