第45話.シミュレーション仮説


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 警察署内の廊下を歩く梶と刑事の小松。


「朝から訪ねてきて、一体何なんですか?」


「警察って24時間いつでも来て良いんじゃないの?」
「大体、何ですか? あの時の部屋って」


 立ち止まる梶を振り返る小松。


「小松が協力的なのは分かるよ? 結果的に怜莉を傷付けたの気にしてるんだろ? 他はどうよ?」


「他? 民間人に協力してもらえる範囲なんて限られています」


「そうじゃなくてさ。


 同じ場所に同じ人が居て、毎回決まった話を繰り返している。何処に行っても基本は変わらない。でも時折、重要な話をする人も居る」


「RPGみたいな事、云いますね」


「警察には世界観を守っている人間も居るんじゃないかって思ってさ。


 例えば世界五分前仮説みたいなのも面白いけど、初めから何かの理由で作られた地区があって、チェックインは簡易、チェックアウトも可能。だけどもオレは戻ってしまう」


「だから何の話をしているんですか? 今度はホテルカルフォルニアですか?」


「そういう感じなんだろうね。オレも出られない。其れで部屋は此の先だっけ?」


 暫く歩いて、一枚のドアの前で梶と小松は再び立ち止まる。


「何の用事か知りませんけど、気が済んだら呼んでください」


 云って、場を去る小松とは対照的にドアを向いたままの梶。ドアを開けて、後ろ手にドアをぱたりと閉める。



 椅子に座り、此方に背を向けて小さく身体を丸めて座っている、高校生の怜莉。白い半袖Tシャツにオリーブグリーンのズボン。


「困ったな。オレの事、わかる?」


 首を横に振る怜莉。ドアに凭れながら、梶はずるずると床に座り込む。


「机も椅子も片付けてあるし、何なの此の部屋」


 反応を示さない怜莉。襟足が僅かに伸びて、雰囲気は未だ稚い。


「此の世界にさ。自分にしか読みない本があって、ある時、其れを読める誰か一人が現れて、そしたら物凄く楽しいと思うんだよね。だけど、きっと、そいつらはろくでもない」


「……どうしてですか?」


 やっと背中越しに返事をする怜莉。安堵して溜め息を吐く梶。窓一つもない薄暗い部屋で、右手で目にかかる髪を持ち上げる様に自分の額を抑える。


「ミーンワールド症候群って分かる?」


「……暴力的なメディアに晒された視聴者は恐怖や不安、警戒心が強くなって……実際よりも世界は危険だと思い込む認知バイアス、ですか?」


「そうだね。


 此の世界で起こっている話なんて『騙り手』ひとつで変わる。


 『イブの印章』は本来、歴史のインプット用だったんだろう。市井の他者を見続けて、彼女は十分なペシミストだ」


 立ち上がり、椅子を持ち上げて、梶に向け、座り直す怜莉。


「もう片方。『アダムの印章』は『イブの印章』のデータを参考にし、アウトプットするプログラム。


 二人でどれだけ考えても新しいアイデアなんて思い付かない。


 どちらもただの蓄積されたデータの擬人化でしかないからね。


 ミーンワールド症候群、ペシミスト、未だ足らないな。で、其処に来て、世界を終わらせるに十分な方法が書かれた本、が御丁寧にも用意されている。さて、どうするか、だよね」


 怜莉を見ずに古い傷の残る床に視線を落とす梶。


「要はイブの見聞きした話に、アダムがどう反応して、対応して、行動するかって話なんだけど。オレは二人にしか読めない本をどうかして解読しようとしている」


 梶は顔を上げる。懐かしい怜莉の顔を瞬きもせず、じっと見つめる。部屋全体を飲み込む様に静かに淡い光。光源を確かめれば、其れは怜莉の背後にある9分割の『曝露』の印章で光を見れば、目の前の表情すら見失う。 


「怜莉。君と一緒に暮らしている相手が居ると思う。彼女の信頼される語り手になって、教えてあげてほしい。此の世界はどんな世界か」


 梶の動きに合わせて、怜莉の視線が高くなる。


「どうしてですか」


 立ちきった梶はドアノブに手を掛ける。


「君もオレも、世界を背負っている訳じゃない。選んだ奴は居るだろうけども、別に特殊能力が備わっている訳でもない。だから、ただ、伝えたかっただけだよ」


 梶はもう一度、怜莉に身体を向ける。


「影響を受けやすい人間は居る。『秘匿』に影響されやすいのは自分が無い人間なんだ」


 それから怜莉を残して、ドアは閉まる。



 フライパンの真上で、慎重に卵を割るりんね。熱した面にぼとっと白身と丸い黄身が落ちる。


 両耳の間の位置でひとつに結んだりんねの灰色の髪。物音に気が付いて、後ろを振り返る。


「おはよう。怜莉さん」
「おはよう」


 ジャージを着た怜莉は下ろした長い髪を片手で軽く手で束ねながら、りんねの顔を見る。


「あのね。昨日、夕食も食べないまま、また寝ちゃったし……今朝は怜莉さん、ずっと寝ていたから」


 こじんまりと広がる生卵に火が通って、白身の色が変わり始める。


「えっと、それでね。あ。えっと」


 計量カップに入った水をフライパンに入れようとして、りんねはキッチンの調理台に転がっているもうひとつの卵に気が付く。


「あ。卵。えっと」


 慌てたりんねの手がスタンドハンドルのついた蓋に当たり、音を立てて、シンクに落ちる。瞬間、怜莉が真後ろから抱き締めて、りんねの頬にはらはらと長い黒い髪が散らばる。


「……大丈夫。落ち着いて」
「……うん」
「一個を半分に分けて食べよう」


 フリースのルームウェアから覗く、りんねの手。計量カップの中で揺れる水。表面の一部が半円に膨らみ、茶色になる縁が少し浮いていく目玉焼き。


 りんねはカップをフライ返しに持ち換えて、慎重にひっくり返し、成功すると「……良かった」と呟く。「上手、上手」と褒める怜莉。


「……りんね。あのさ」


 怜莉は左手で額からそっと灰色の髪を撫でて抑える。


「昨日、桜海と間違えたでしょ?」


 硬直するりんね。


「りんねは記憶が無い時期があったって云ってたでしょ?」


 頷くりんねの結んだ髪が前方に一度跳ねる。


「……このままで良いんだと思う。だから一度だけ、オレも間違えていい?」


「……なあに?」


 りんねの心臓が立てる音が怜莉の身体に響く。


「まりかちゃん。一年分の時間がこの子からの借り物だって何処で気が付いたの? 


 今朝の夢。データを差し込むスペースを、まりかちゃんが梶さんに遺していたって事でいいの?」


 りんねは急に目に溜まっていく涙を雑に一粒落とす。


「……怜莉さん。何、云っている? まりかちゃんって誰?」
「……桜海の幼馴染だよ」


 フライ返しを調理台に置いて、視野が簿やる目元を拭うりんね。もう一度、りんねの灰色の髪を撫でる怜莉。


「朝食にしよう。大丈夫。夢の続きだから。だから」


「今日は最初の日だよ」


 両手で目を抑えるりんねの顔はいつの間にか12歳の鏡花になっている。涙が止まらずにいる。


「夢? 最初? ……何の最初?」


 りんねの顔に戻れない鏡花の前。ちりちりと鳴るテフロン加工のフライパン。


「ね。もう一度だけ名前を教えてほしい」



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