第44話.亀がアキレスに言ったこと


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 2001年10月。


 仕事中のまりかは積み重ねた段ボールを抱え、店の裏口から出る。従業員用の自転車が複数並べてある方向。誰かに名前を呼ばれ、顔を上げる。


「……梶さん」


「どうして、あたしの事、思い出したの?」


 店の裏の低いブロック塀に軽く寄りかかる梶。天壇青の様な色のスーツを着ている。まりかもまたカナリア色のエプロン姿で、塀に寄りかかる。それからスーツの内ポケットからソフトパックの煙草を取り出す梶。


「忘れていったろ?」


 開封されて残り少ない煙草の箱をまりかは受け取る。


「國村はもう吸うのやめたし、第一」
「これがきっかけ?」
 きょとんとするまりか。


「梶さんは最強クラスだから……途中で魔法に気付いちゃうかも? って話は……訊いていたけど」


「魔法?」


「……うん。『中央』に関わった人達が一年間、あたしの事を忘れる、アキレスと亀の魔法」


「また、よく分かんない事してるね?」


「……3月の初めからだから7か月間……保った方かな……」


「思い出したのは7月1日。事務所のカレンダーに自分で誕生日書いてたじゃん?」


「あ」


 二人の正面にはドラックストアの古い壁。立て掛けられた段ボール。


「……捜した」
 梶は、まりかを見ずに、ぽつりと呟く。 


 エプロンから見える月白色のカットソーにネイビーのジーンズ。まりかの視線は流れる様に自分のスニーカーに落ちる。ポニーテールから零れた横髪は風に散らかり、二人の背にある柿の木の葉は揺れ、音が鳴る。


「他の人は?」


「居ない事に気が付いたのも、まりかちゃんを思い出したのも今のところ、オレだけ。ちびっ子には確認していない」


「梶さんだけだね。あたしを見つけられるのは」


 まりかは急に明るく微笑み、梶の顔をじっ眺める。


「一体、何をしたいのか説明してくれる? 普通に仕事辞めて、連絡も絶てば良い話じゃん? こんな記憶を消すみたいな」


「あのね。梶さん。梶さんのケータイ……持って行ったの、あたしなの」


「……そう」


「大丈夫。中は見て……」


 そこまで云うとまりかは急に俯き「ごめん。見た」と呟く。店とブロック塀の間の狭い通りをまた風が抜けていく。


「そう」


 今度は梶が、まりかの顔をゆっくりと眺める。


「じゃあ、怜莉ってのは面倒を見ている男子高校生なんだよ。『曝露』の影響力を持っていて、要するに他人の『心の声』が聴こえる。でも本人は受け入れない選択をして……」


 黙り込む梶。


「オレの方こそごめん。もしかしたら、まりかちゃん、何処かで死んでるんじゃないかって」


「あたし、そんなに死にそう?」


「あのさ。様子おかしかった後、急に居なくなられて」


 まりかを見る梶。


「普通に傷付く」


「梶さん」
 再び下を向くまりか。


「前に……國村さんと話した事があるんだ。親を反面教師にするのは難しいって。結局、親と似るのだから。だったらどうしようって。


 あたしのお母さんは自分で決めても周りに振り回される。お父さんは極端。見事にあたしの親って……感じだよね?


 なのに、あたしは桜海くんちの子供になりたいって云ったから。自分を否定した結果、あたしは誰でもなくなって、誰にでもなれたのかもしれない」


 それからまりかは顔を上げる。


「梶さん。あたし、来年の3月になったらね。こちら側の世界から居なくなるって決めたの。


 ……3月に魔法が溶けて、梶さんも皆もあたしを思い出すと思う。でも、その時はもう居ない」


 梶の影を踏み続けようとして上手くいかないまりか。溜め息を吐きながら、まりかを見る梶。


「ごめんなさい」


「説明になってないんだよね?」


「……わかってる。梶さん。やっぱり、あたし……ずっと寂しい。ね。あたしが居なくなっても、また捜してくれるよね?


 でも……何かに気が付きそうになっても見て見ぬ振りをして過ごしてほしいの。


 せめて3年……3年経ったら……それまで今日を忘れてほしい」


 梶の影にまりかのスニーカーの先が僅かに混ざる。


「あたしの出来る事はないの。桜海くんをいつまでも騙せるとも思えない。あたし、最期に……怜莉くんに会おうと思う」


「最期って……」


 ゆっくりと暗くなっていく周囲。そして影のないまりか。紫かがった色の中を遠く行方のわからない飛行機が飛んでいる。「大丈夫……魔法を掛け直す呪文があるの」


「あの時、助けてもらった鶴です」


 梶が我に返ると其処はドラックストアの裏側らしく、凭れている低いブロック塀の真後ろには一軒分の空き地。柿の木は強い風の流れに沿い、斜め上空へと広がる。しかし実る実は揺れてもなお地面に落ちることは無い。


 従業員入り口の観音開きのドア片方を開けている女性従業員。茶色のポニーテールの向きは変わり、梶に振り返る。


「……今日、誕生日だね。今年は一緒に居てくれてありがとう。此の先だって本当は一緒に……居たかった」



 6年前に販売されていた古いケータイ。充電コードに繋いだまま、開く梶。メールの受信箱を開くと一件の未読マーク。


 紙袋から取り出した、大切にされた形跡のある古い木製のオルゴール。ハッピーバースデーのメロディーが流れる。


 自室2階廊下側に向いた狭い台所の前。外の照明と、ケータイの画面が光る暗いままの梶の部屋。


「ごめん……思い出すのに6年以上かかった」


 時計の表示は2007年10月30日火曜日、00時00分に切り替わる。



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