第42話.ロッシュ限界

 


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 水を含む緩い土に桜海の草履が沈む。黙り込む桜海。


 千景は玄関ポーチから庭全体に広がる薄い水溜りに目を移す。梶はまた玄関前のコンクリートにしゃがみ込み、大きな溜息を吐く。


「千景はどうする? 話を訊き続けたら、いよいよ巻き込まれると思うけど? 乗り掛かった舟としても、沈む舟なのに?」


 返事をしない千景と、其の場に影を作る梶。


「何の話? まりかちゃんを隠したって云われても」


 桜海は二人の様子を交互に窺い、やっと答える。


「2001年の3月初旬から2002年3月初旬まで。まりかちゃんに関する記憶が無い」


「別に隠してた訳じゃ……」


「桜海。大事な事だから話してほしい」


 視線を合わさず、膝に額を載せる梶。再び沈黙してしまいそうになりながらも桜海は
「上手く説明出来ないと思う」
と返す。


「一年間、中央に関わる人達から忘れられたいって云われたんだ」


 梶は微かに顔を浮かせて、未だ桜海を見ない。


「願い事を叶えたくて……方法も何となくわかったし……」


「……記憶を操作した訳?」


「えっと。そうじゃなくて。まりかちゃんを5分前の存在にしたの」


 庭の樹々が水滴を振り落としながら、風に揺れる。頭を抱えたまま「そう」と云い、

「ほんと。何処から話せば良いの……これ……」と一人呟く。


「梶さん? 何かあったの?」


 色彩は西の空へと落ちて呑まれる。桜海の問いに梶は立ち上がる。


「桜海。明日、怜莉が来たら、今迄の話をお互いに話そう」


「今迄?」


「それから、まりかちゃんの部屋をそのまま残しているなら、オレの昔のケータイがあるかもしれない。捜してほしい」


 桜海の足許を汚す泥を庭園灯が急に灯す。



「未だ、残っていたんですか?」


 壁に寄り掛かって畳に座る國村。敷居を踏んでいる松田に問う。


「結局、一人で抱え込む人って高尚そうに振舞って、教えないだけでしょ?」


「梶さんも私も自分に正直なだけです。彼は無難な選択を続けたい。私は理解を求めない」


 腕時計を外し、畳縁に置くと「千景くんには」と続ける。


「大分、話しているみたいですね」
「意味分からないところで正義感出してくるの。まともに話が出来ない。無神経」


 國村は僅かに笑うと松田の顔を見る。


「巻き込まれるのは私で最後……と思っていたのに、もう無理でしょうね」


 國村は浅く回想していく。



「國村さん」


 西側の庭でまりかが声を出す。


「ごめんなさい。松田さんに連絡先教えちゃって」
「いえ。助かりました」


 レトログレーのステンカラーコートを羽織った國村は、まりかの傍に立つ。まりかは、グリーンのコートを手に掛けている。


「先程、代表と話してきました。一番辛いのは貴方じゃないでしょうか」


 俯いて、首を振るまりか。


「松田さんは今日、此処に来る迄は普通に暮らしていたんでしょ? これからもそうでしょ? ……私は違う」


「何がですか」


「子供の時に桜海くんのお父さんに影の踏み方を教えてもらったの。桜海くんが迷子にならない魔法だって」


 落葉低木の細い枝が二人を囲む。東側に出来た國村の影を踏むまりか。アドニスブルーのハイネックワンピースは裾だけが揺れる。


「成程。動けませんね」


「あたしね。桜海くんのおうちの子になりたかったの。でも……どうしたら良いのか分からなかった」


 まりかの目をじっと見る國村。


「貴方は私に同意してほしいと云う事でしょうか。でしたらお断りします」
「桜海くんの……お兄さんらしい答えだ」


 伏し目がちになると共に、左斜めに下がるツインテール。


「昨日、國村さんと桜海くんが異母兄弟だって訊いて、安心したの。あたしが居なくなっても、独りぼっちじゃないって」
「伝える気はありませんよ」
「だったら國村さんとあたしは、同じ気持だって思うの」


 見上げるまりか。


「桜海くんにはこれからも普通に生きてほしい」


 まりかの言葉に、口元を一時、静かに結ぶ國村。


「まりかさん。代表は桜海くんが魔法を使えると説明したのですね。確かに、彼が『宇宙』を作った時に、私は『中央』に居ました」


 國村はコートのポケットから、腕時計を取り出して、まりかに渡す。


「高2になる前の春休み。『東睡』の前任管理者を頼り、此処で過ごしていました。私は、事故が起こったと教えられただけ。桜海くんが無事と知り、良かったと思いました」


 表情を曇らせながら、文字盤に描かれた蛙の絵に視線を落とす、まりか。


「桜海くんの作った黒い球体。


 本殿二階の書庫に三人がかりで押し込んで、ドアを閉めたって訊いたの。

 数時間後、ハッカちゃんが開けた時。中には誰も居なかった。


 ね。國村さん。全くイメージが出来ないの。宇宙を閉じ込めたって……云われても……其れに桜海くんの『印章』って……」


「『13番目の印章』は足許に現れて、近くの者には見えない。


 彼が初めて亥の巻を開いた6歳の時。関東以北より『13番目の印章』を確認したとの報告がありました。


 此処『中央』を起点に波紋の様に大きく広がっていったそうです」


 シャツのネクタイを軽く締め直す國村。


「影響範囲は阿蘇山破局噴火の火砕流域を超えている。印章の影響範囲は記録上、過去最大」


 まりかは秒針が文字盤を回り続ける時計を、きゅっと握り締める。


「私は貴方がイブ役で良かったと思っています」


「あたしは桜海くんの手本になる様な生き方なんてしていないし、出来ない」


「貴方には友達が多いと訊いています。慕ってくれる人も心配してくれる人も大勢居る。暗い顔しても華やかなのは、母親譲りと訊きました。


 まりかさん。貴方の親は初佳さんでも代表でもありません。桜海くんの祖父母にも振り回される必要も無い」


「でも」


 袖の内側に浅く残る何本のリストカットの痕。


「私も死にたいと思った事もあります。誰かに死んでほしいと思う事も、学校や職場が無くなれば良いとも思った事もあります。


 でも普通に生きている。


 貴方も私も十分に『正しい側』な筈です」


 まりかは手を伸ばし、國村に腕時計を返す。


「國村さん。お願いがあるの」と声に出す。


「桜海くんは、イブの云う事なら何でも聞いちゃうんでしょ? イブが此の世界は要らないって云ったら叶えちゃうんでしょ? そういう風に『作られて』いるんでしょ?」


 確かに頷く國村は、薄らぐまりかの掌から腕時計を受け取る。


「本物のイブは未だ子供なんでしょ? だったら……教えてあげてほしいの。世界は意外と悪くないだって。自分の事を好きになってくれる人も……居るんだって……」


「……準備はしています。意外だったのは、梶さんが」


 まりかは、名を聞くと直ぐに顔を上げる。


「中央を自ら訪ねてきたのではなく、彼もまた呼ばれて来た人間だった。


 開かずの間の中には宇宙を模しかけた物がある。箱の中には情報がある。


 何人かの過去未来現在を辿れば、

 必要な人間を見つけて、また何人かを経由すれば、

 まるで自分の意思で此処に来た様に招いてしまえる。


 最早、貴方も私も自分で選択したのかも疑わしい」


 國村は腕時計を巻くと「梶さんも桜海くんの助けになってくれる筈です」と伝える。


「それから梶さんが面倒を見ている高校生の男の子もいずれ協力してくれるかもしれません」


 まりかの茶髪のツインテールと、國村のステンカラーコートが南向きの風に吹かれる。


「まりかさん、死なないでくださいね。内緒話の相手が居なくなってしまいます」



「怜莉も大変ですね」


 土に残った桜海の足跡に目を落とす千景。


「探偵か警察か、よく分からないけど見張られてるんですよね?」


 梶は状況に平然としている千景を見て

「頑丈だよね。百音ちゃんがバッグ投げたくなるのも分かる」と口元を緩ませる。


「結局、先延ばしにしたんですね? 今、云えば良かったのに」


「意外とね。オレもいっぱいいっぱいなのよ。それにまた修治と話さないと」


「百音が引き止めておくって云ってました」


 梶は腕組みをしながら「夫婦揃って、強いよね」と云う。


「オレは百音には直ぐ負けます」


 千景の言葉に梶は苦笑している。


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わんわん数: 2007