第36話.シダー・アップル・ラスト

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 目の前に置かれた花梨のコンポートの入った器と和珈琲の淹れられたカップ。冊子を開く怜莉。表紙には【KAREN】【11月号】と赤い字で書かれている。


「水野花さんは、創刊時からのメンバー兼ライターです」


 話を続ける律の顔を見る怜莉。


「元はシダーウッドというNPO法人内の会報。フリーペーパーとして、近隣の医療機関、公共施設に置かれる様になったのが……5年前?」


 考えながら話す律。此方を見る怜莉に気が付き、畳に目を逸らす。


「コンセプトは『不幸を癒しに変える』というものですが、内容を見る限り」


 視線を怜莉に戻す律。二人の間。奥にある広いガラス窓には大きな雨粒が打ち付けられ始める。


「僕には『不幸でいる事に価値を見出す人達』の集まりに見えました」


 平等に雨が降り、しかし水は不均等に溜まり始め、一葉の葉が其処に落ちる。


「律は関わりがあるの?」


「今年と昨年、対談の打診を頂きました。怜莉さんこそ、【KAREN】も知らないのに、花さんは知っているんですか?」


 答えを返せずに冊子を閉じて、表紙の文字を眺める怜莉。


「花さん、昨年、ネットで炎上したんです」


「……何があったの?」


 律は溜め息を吐く。持ってきてもらった珈琲のおかわりに口をつける。


「創刊号の特集は『トラウマ』でした。当時、花さんは18歳。『留守番中、何も出来ず、病気の弟を死なせてしまった話』を寄せました」


 怜莉は、約二週間前のりんねを思い出す。


「私。弟が居たの」とぽつりと云うりんねを見上げる怜莉。


「弟は生まれてから殆ど病院に居て、時々、十日とか二週間とかだけ帰ってきて。私は怜莉さんみたいに壁に凭れて、弟の絵本を読んで。時々、吸引しなきゃいけなくて。でも、上手く出来なくて」


「多くの反響があった様で不定期連載になったのですが、間もなく、ネットで問題点を指摘され……全国に知られました」


 律の言葉で、急に回想から戻る怜莉。テーブルに置いていた右手に力が入っている。それでも、ゆっくりと浮かせた手を、冊子の片端に添える。


「責められるべきとしたら親じゃないの?」「親ですよ」


 即答する律。「食べないんですか?」と羽織の袖を抑え、テーブルに乗り出し、花梨のコンポートをフォークで刺す。


「はい。どうぞ」
「え? あ。はい」冊子を置き、フォークを受け取ると温和しく口に入れる怜莉。


「桜海さんは林檎寒天を選んでいました」と律は話を区切り、改まる。


「中卒の社会人もいますが、事が起きた3年前は花さんも未だ子供。難病の家族を任せて、連日夜に出掛ける両親に対する疑問」


 花梨を飲み込んでからも、フォークの柄に定まらない視線を落とす怜莉。律は身を乗り出したまま、怜莉の様子を上目遣いで観察している。


「以降、花さんは『両親は病気の勉強会に行っていた話』『普段の夜、母は弟の病院に泊まっていた話』『留守番は慣れている話』と次々に家庭の事情を誌面に載せました。けれど疑問は生まれます。『お父さんは一緒に居てくれないの?』


 花さんは直ぐに『別居の祖母がお金の管理している話』『父は祖母の言いなりで夜は実家に居る話』『祖母の手伝いと弟の世話で誰よりも大変な母の話』を書いて、更に事情を足しました。


 当時のネットの反応は『本人が見ている前提で』面白がっている風だったものの『両親がおかしいと早く気付いて』といった熱心な書き込みも増えていきました」


「……弟を亡くしたのは15歳の時?」


 怜莉は徐々に視点を律の目に定め落とし、律は「そうです」と返す。


 律はテーブルの半身を戻し、座り直す。頬杖をついて「喫茶室とは別ブレンドですので」と怜莉の手元を指差す。


「それから、その後はどうなったの?」


「それから……母親を庇う記事ばかりになりました。例えば『危ないのでキッチンを使わずに済む様に、母が』の文章が添えられた、大量のレトルト食品の写真。『家族皆で協力する約束を破った私がいけない』と繰り返される強調。


花さんが母親を庇えば庇う程、母親を責める声は大きくなっていきました」


「……それから?」


「なんでそんなに興味があるんですか?」


 怜莉は迷いつつ、珈琲カップの取っ手に落ち着かない指を絡ませる。


「りんねが……使っている偽名が……水野花」


「そうでしたか。多分、水野花もペンネームです」


 一瞬、雨が弱まる庭。視線を逃がし、再び正面を見て、頬杖を深くする律。


「……ごめん。何でさっき、律が『思っている声』が聴こえたんだろう。ごめん……気を付けるから」


「今更、気にしませんよ。仕事に支障が出るなら云ってください。うちで雇っても良いですし」


 律は頬を支えていた手をひらりと自分のカップの縁に掛ける。


「花さんは『母親と話した結果』をまとめて報告。『ネットで提案され賛同の多い意見』を集めた様な結論。


 『母と父は離婚する』『父は祖母と実家で暮らす』『花さんは母親と部屋を借りて二人で暮らす』『花さんは高校進学に向け、勉強をする』『心療内科に行く』『将来の為にもバイトをする』


 そして連載は、花さんが重いボストンバッグを持って、マンションの鍵を不動産屋に受け取りに行く日の朝、で終わります」


「……律には、向こうから直接、対談したいって連絡が来たの?」


「対談と言っても要は『水野花の母親を褒める方向』とのお願いでした」


 律は急に声のトーンと表情を明るくし「全国誌掲載経験のある、人脈、知名度、好感度も十分な僕を頼った形です」といつも通りの仕事用の笑顔を怜莉に向ける。


 しかし反応は返って来ない。カップの取っ手は握っているのにも、一口も減らない怜莉の珈琲。あからさまな不安げな顔でテーブルを挟み、律の前に、とても重く座っている。


「正式に断りました」


 声を選び、再び語り掛ける律。


「無難に断りたかったんです。でも花さんから『創作だって、嘘だって、思いましたか?』と訊かれ、つい正直に答えてしまいました」


「……なんて?」


 怜莉はやっと律の顔を見る。珈琲カップを一気に傾け飲み終える律。


「本当の話でしょ? でも、どうして、娘視点で話を書いたのですか? 『娘のせいで息子を亡くした母親の貴方』は辛くなかったですか? 


娘に成りすまして『母は悪くない』と書く度『悪い母親』と叩かれる。


『娘のせいで』との思いが更に強くなるだけだったのでは? と云いました」


「……え」


「『思い込みじゃありません』と電話を切られました」


「今年の夏。再度、対談の話が来て。


水野花名義で【自殺未遂から意識を取り戻した花が、弟は生きていると思い込んでいる設定】の連載を考えている。


市村さんが話を訊いて『花』の私が答える形式にしたいとの事で……流石に悪趣味が過ぎて断りました」


 律が空の珈琲カップをテーブルに置く音の余韻。怜莉は律の顔をしっかりと見たまま。


「今朝、来月号が唐突に送られてきました。水野花さんが今月始めに亡くなった事、遺作すら出せなくなった事が書かれていました」



 図書館カウンターに『アップルパイの午後』と『第七官界彷徨』を返し終えた後。鏡花は二階の端の人気の無い『宗教・哲学』の棚の前で小さく丸まって座り込んで、時折、時間を気にしている。


 1時半になり、階段を降り、飲食コーナーの中。帽子をより深く被ると壁際のパンフレットスタンドに並び終えられた【KAREN】11月号の冊子を手に取る。


 ―――投稿者 ウレナ


 誠意を見せなきゃダメッて思った。私のお父さんはお客さんにゴメンナサイと言ったので本社から飛ばされた。でも全然後悔してない。お母さんはパートの時間が増えたけど文句言わない。クラスメイトAは協調性がないし、挨拶も出来ない。友達もいない。先生にしょっちゅう怒鳴られてる。先生はしょっちゅう親に電話している。うちの小学校は公立だけど全員同じ中学にあがる。先生達はみんないい子で卒業して、いい子の中学生になってほしいのだ。だからAみたいなのは困る。ある日、Aは掃除をサボろうと逃げている途中で階段から落ちて怪我をした。私は落ちる時に、手を差し出したけどAは振り払った。私はお父さんとお母さんに泣いて話したら、一緒にAとAのお母さんに謝ろうと言われた。Aは一晩入院で居なかったけどAのお母さんはウレナちゃんはエライねって泣いてくれた。Aのお母さんもAの素行の悪さに悩んでるみたいで


「……お母さん」と鏡花が呟く。「今度は比奈ちゃんのフリしてる」


 鏡花の冊子を持つ手は動揺しつつ、急ぐ様に頁を捲る。そして、息が止まる様に手が止まる。  


 ―――訃報


 当誌にて2002年7月号から2006年9月号までの約4年間に渡り『花の後悔』を不定期連載していた水野花が療養の末、2007年10月1日未明、23歳の若さで永眠しました。ここに謹んでお知らせします。
 葬儀は近親者及び編集部メンバーにて執り行われましたので併せてご報告申し上げます。
 本人も意欲的であった新連載『花の弟は生きている』の執筆に一度も取り掛かれる状態になかった事は無念でなりません。生前は水野花への応援ありがとうございました。


 冊子をスタンドに戻して、口を堅く結んだまま、立ちつくす鏡花。キャンバス地のトートバッグの中で振動するケータイを手の感覚だけで探り当てる。光る画面に11桁の番号。


「……お母さん」



 鏡花は二十数分程、バスに揺られて、約束の駅で降りる。


 改札の傍の柱の陰で帽子を脱ぐと、トートバッグに仕舞う。電車が到着した案内と改札口から疎らに出てくる人達。人が過ぎる時の風圧が鏡花を揺らす。床ばかりを見ている時、近付いてくる足音に顔を上げかけた矢先。


 立ち止まった学ランの人物と目が合う。慌てて、俯くが、鏡花の下に向けた視野の内で白いスニーカーが止まる。 


「臥待鏡花ってあんた?」
「……ど……なたですか」


 上擦る声で訊ね、学ランのボタンで中学生だと確認し、胸ポケットの刺繍で学年と名前を知る為に何とか視線を上げる。


 オレンジ色の刺繍。[ 八足 ]の文字。


「知らない人に声掛けられて、頼まれたんだよ。駅に灰色の髪の中学生が居るからって。多分、あんたの母親」


 鏡花はハッとして、思わず、目の前にいる男子中学生の顔を見る。


「なんかよくわかんないんだけど、通帳は解約出来たから適当に処分してって。あと」


 八足は通学バッグの外ポケットから白い封筒の束の様な物を掴むと、鏡花の前に差し出す。顔色が変わっていく鏡花。


「要らない!」


 反射的に出してしまった両手が、上を向いた黒と白の水引のある白い袋の束に当たる。


 鏡花と八足の間に散って、十数枚の香典袋が落ちていく。


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