第37話.燻製ニシンの虚偽
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「……これさ、お金が入ってるんじゃねぇの?」
地面に落ちた香典袋をしゃがんで拾う八足。其の背を定まらない視界の中、追う鏡花。八足は黒と白の水引を直視し、溜息を吐く。
「……葬式で渡すものじゃん」
拒まれた袋を集め終えると立ち上がる八足。鏡花は動きにつられて上を向いて、しかし顔は強張ったまま。
「昔からなんだよ。知らない人に声掛けられたり、頼まれたり」
あからさまに嫌な顔をして、押し付けられる隙を捜す八足。明らかに泣き出しかけている鏡花。昼下がりの駅で、異質な存在感の白い束を八足は掴み続ける。
「あのさ」「……あの」同時に声を出して、先に「は?」と警戒を込めた返しをする八足。鏡花は突然、八足の学ランの刺繍に目を動かして「……オレンジ色って……何年生ですか?」と戸惑いながら訊ねる。
意味が分からず、暫く間を置く八足も自分の学ランの刺繍に気が付く。
「あんた、鴗鳥中?」
「……え」
「うちとそこだけなんだよ。教室以外で一年中、学ラン着せられるの。他の中学なら刺繍の色より先に、何で学ラン? って訊くんだけど?」
混乱して黙り込む鏡花。
「……受け取らないなら、オレが行ってる塾の先生に預けておくから」
八足は強い口調で話しかける。
「警察に持っていくとさ。あんたもオレも平日昼間に中学生が何しているんだって」
鏡花は今更、ハッとして「……何をして……いたのですか?」とぎこちなく訊ねる。
八足は鏡花の問いに唖然として「あんた、意味分かんないな」と逆に冷静になってしまう。
「親はどうしてたとか、なんで香典があるのかとか、他に訊く事あるじゃん」
痺れる手を口元に持ち上げて、考え込む鏡花。涙は溢れる寸前で留まっている。
「……死んじゃったら追加する設定がない」
「は?」
「あの」慌てて俯いて、鏡花は必死に声を出す。
「塾だったら」
しかし言葉に呼吸が絡み込んでしまう。 いつの間にか黒いジャンバースカートの縁と銀色のミュールに涙がはらはらと落ちて、鏡花は両手を目の下を拭う。
「……香典? を預けても、何も訊かれませんか? 其れにうちの中学の生徒が居たり、私の事とか……」
鏡花は絞り出す声に、八足は思わず「あのさ」と大声を被せる。
「今から一緒に塾に行く?」
涙は落としても俯かない鏡花。
「そもそも、鴗鳥中自体、学区内の塾しか認めてないじゃん?」
微かに反応を示し、正面から八足をみつめる。顔に張り付く灰色の横髪に手を掛ける。
「でも、オレの行っているとこ、あんたみたいなのは何とかしてくれる。オレも最近やらかして……温和しくしてるし」
通り過ぎる電車に押し出された風が構内から改札口を抜けて、二人の足元の砂を一気に揺らす。
「一昨年、鴗鳥中の先輩一人居てさ。あんたの学校の先生ら、騒いだけど、その先輩、塾の協力で中学は辞めて、高校は行ったし」
「え?」
髪に触れる鏡花の手と、涙がピタリと止まる。「……中学校を辞めても」
「高校に行けるの?」
きらきらと目を開いて、八足を見つめる鏡花。さっき迄、流暢に話していた八足は、鏡花の言葉と表情に不意を突かれて、急に静かに見つめ返す。
「りんね? うん。りんちゃんはね。本当は、りんねって云うんだよ。お兄ちゃんは……梅ちゃん?」
和室に戻って来た桜海は雨粒を抑えたタオルを肩に掛け、襖を閉める。上座と下座の間。怜莉と律の両方が見える場所に座り込む。
「どうしたの?」
「この前、西の門を見に行ったら、外側に子供……兄妹が居て」
「だったら赤星さんとこの兄弟だと思うよ? あの道、狭いし、ほぼ赤星製麺の私道みたいになっているし」
黙り込む怜莉の前方に流れるポニーテールを眺めた後、「何かあったの?」と桜海は律に訊ねる。律は怜莉の残した花梨のコンポートを食べ終えてから、空の食器にフォークを掛ける。「そうですね」と答える。
「んーんー」
フリーペーパー冊子のKAREN11月号を両手に握り、テーブルに肘を付く桜海。
「ありがちな偽名とも思いましたが、過去の話と類似点は多いんですよね。他は……辻褄って合わせようとすれば都合良く合ってしまうものですし」
律は悩んでいる怜莉の顔を下から覗き込む。
「つまり怜莉さんと一緒に住んでいる女性が『りんね』と名乗って、今月死去したと記載された『水野花』と同じ偽名も使っている。実年齢もわからない。
ペンネームを本名の様に使っている娘本人か、娘のフリをして水野花と名乗った母親か」
「りっちゃん。母親の可能性は薄いと思う」
桜海の声に顔を向ける律。
「ネットでも創作を疑われて、りっちゃんには正体がバレたんでしょ? 尻尾が出ちゃう『秘匿』も居るけど『秘匿』って実はバレたいのにバレなくて、あれ? 説明出来ない? えっと、こうなってこうなって、こうなる感じ?」
冊子を置いて、ぱたぱたと手を動かす桜海。手から頬を浮かせた律は桜海を見て「との事です、怜莉さん」と今度は怜莉の方を見る。
「あとは、そうですね。架空の『水野花』に成りすましている……何の関係無い人の可能性も」
桜海は説明を補いきれずに動かしていた手をぴたりと止め、怜莉も濃い影をテーブルから遠くする。二人は律の言葉に注目する。
「花さんの情報は誌面に何度も書かれています。第三者でも『水野花』のフリは出来ますし、現に掲示板に降臨したり、ブログを開設したり、巧妙な『なりすまし』もそれなりに居ました」
テーブルに肘をついて、組んだ指の爪先を見ている桜海。怜莉が話し掛ける。
「桜海は、オレが桜海の指輪について訊いても答えてくれなかったじゃん? 分かってもらうのは難しいと思ったから?」
「ううん。だって、分かる訳ないじゃん?」
深刻に問う怜莉に対して、唐突にカラッとした口調で答える桜海。
「ずうっと一緒に居たまりかちゃんが何を考えているのか、全然分かんなかったんだよ? 理解って、経験の応用の想像力だと思う。だから理解なんて相手の想像任せ。オレ、初めてコロッケパン食べた時、めっちゃ絶望したの。半年も落ち込んだし」
「どういう事ですか?」
「こんな美味しいパン、どうして今まで知らなかったんだろうって。あの絶望感を理解しろって云われても……困る? よね?」
疑問形で律に首を傾げる桜海。暫しの沈黙の後、律は思わず笑う。
「似た経験はありますが、絶望はしませんでした。理解ではなく想像出来るだけですね」
桜海の左手薬指に光る、まりかが遺してくれたシルバーの細い指輪。目を微かに伏す怜莉は難しい顔を戻さない。
「けど、桜海は、まりかさんに大事な事を訊かなくて後悔しているって」
「うん。理由を話してほしい訳じゃなくて、いつでも話を訊くよ、いつでも何処にでも付き合うよ、って伝えられなかった」
二人のやりとりを訊きながら、食器をテーブルの端に寄せる律。
「怜莉、あのね。『印章』って、わりと小さい時にね、保身しようとして使い方に癖が付いちゃうんだよね?
怜莉レベルの影響力なら本当は暗黙知も分かっちゃってたと思うんだよ。
でも情報量が多過ぎるから、形式知の表面? 表層? ブレーキを踏んで、情報を選んできたと思うの」
「ああ。本来なら相手の脳内の映像にBGM、味覚、嗅覚、触覚の『曝露』も出来ちゃうんですね?」
「そうそう。りっちゃん、話、早―い! もっと五感以上の、重さとか温度とか、湿度とかも。
でもね、怜莉は相手が『言語化出来ている』ところだけを拾っちゃうの」
「そこまで万能じゃないと思うけど……ね。律。花さんの誕生日は公表されて」
怜莉が話している最中、律は身を乗り出すと、親指で弾みをつけた人差し指で怜莉の額を思いっきり弾く。
「痛っ。はあ?」
「!?」
思わず額を抑える怜莉。桜海は驚いて固まっている。
「怜莉さんと同じ1984年。梅雨生まれだそうです」
「……冬じゃなくて?」
「桜海さん。怜莉さんって、職場でもこんな感じですか?」
「え? う? いや? あ、でも最近は情緒不安定?」
元の位置に身を戻す律。庭の濡れた樹々に光が当たり始めて、窓に届く。畳に映る影は形を変える。
「単刀直入に訊きます。怜莉さん。彼女の正体が狐でも狸でも、幼女でも老婆でも、女でも男でも」
怜莉の目をじっと見て、
「貴方は引き止めるつもりですか?」
と訊ね終える。
律に玄関迄送られて、赤い車での帰り道。怜莉と桜海は市内に入ってからも幾つかの話をして、やがて桜海が亀を助けた話も終わる。
桜海はハンドルを回しながら「りっちゃん、やっぱり恰好良いし、優しかったね」と云い、次の信号を確認して、ブレーキをゆっくりと踏む。
「オレは会う度に怒られている気がするんだけど」
「うん。りっちゃんは怜莉のママって感じ。本当は、今日は夜勤って云…」
停止しようとした車を点滅する寸前の青に勢いよく突っ込ませる桜海。
「え? 何?」
「え? いや、気のせいだと思うけど……思……灰色の」
「灰色の髪?」
「う、うん。……怜莉の彼女が駅前に居た様な」
「停めて!」
慌てて、助手席のシートから背を浮かせると、怜莉は走行中の車内でもうシートベルトに手をかける。
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