第35話.インバウンドトラフィック


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「極楽浄土は西。ルクソール西岸も死者の町。西に『死』は属している」



 左手指の爪を頬に当て、梶は考えを言葉にしていく。



「イブが尋ねてくるのは西の門。


 死者、もしくは此の世に属しない方角から尋ねてくる者。


 西を任されたのは門番は怜莉。其の怜莉に夕暮れは影が無い……」


 それから梶は顔を上げ、國村と松田を見る。



 戸を叩く音で振り返る怜莉と桜海。


 和服姿の律に呼ばれるスーツ姿の怜莉。「お父様の後援会の方が此方の県に来られて。喫茶室で談笑されていますので」「ええ……」


 話し掛けていた律に被さって響く明らかに面倒そうな怜莉の小声。


「桜海、挨拶してくる」
 湯呑を持つ桜海に声を掛ける怜莉。食べ終えた食事が片付けられた座卓。

「律。其の話、詳しく聞きたい…」


 律は一瞬、ハッとして顔色を変えたものの、直ぐに立ち上がる。横を過ぎる怜莉にひらひらと掌を振る。


「りっちゃん。疲れてる? 休んで行く?」


「……ありがとうございます。折角なので」


 戸を閉めて、座布団を避けるとテーブルを挟んで桜海の前に座る律。空の怜莉の湯呑に触れる。


「……要る? 新しい湯呑、頼む?」


 急須を死守する様に抱えている桜海。律は自然と笑ってしまいながら、湯呑を差し出す。継がれたほうじ茶を二口飲む。


「料理、バランス良くて、どれも美味しかった! 後で詳しくアンケートに書くね!」

「お願いします」
「りっちゃんは……あ。りっちゃんって云ってる……6歳? 7歳上だっけ?」
「構いませんよ。皆、そう呼びますから。窓、開けても良いですか?」


 律は目を休ませながら、ほうじ茶を一気に飲み干す。カタッとテーブルに置くと、もう桜海が窓を開いている。


「桜海さん、気を遣わなくて大丈夫ですよ?」


 薄い雨の混じりかけた風に吹かれる桜海。律は「もしかして」と訊ねる。


「緊張していますか?」


「え? え?」


「落ち着かないと反動で頑張っちゃう人も多いので」


「あー。そうかも」


 広い窓の傍、畳に座り込む桜海。


「文芸誌に載ってた、りっちゃんの手記、昔、何度も読んだ」


 律は、ほうじ茶のおかわりを半分ずつ足した湯呑を持つと、窓際に移動する。手渡されて「ありがとう」と云う桜海と、広い窓に寄りかかる律。


「なんて書いてありました?」


「え? え? どう思ったか、じゃなくて? えっと、りっちゃんがどれだけ奥さん……禾乃さんが好きだったか、とか、どういう処が好きだったとか、沢山……書いてあった」


 自然に解ける様に柔らかな表情して、傾いて俯く律。


「桜海さんは何の『印章』を持っているんですか?」


「『安定』の印章。だけど今は出してないよ?」


 吹く風に当たる二人。桜海が湯呑を持ち上げる左手薬指に光る細い指輪。


「桜海さんの奥さんって、どういう人だったんですか?」


「あー。やっぱり梶さん?」


 突然、大声を出す桜海。


「りっちゃん、梶さんに頼まれた? 梶さんとも仲良いよね?」「頼まれましたが断りました」


 きょとんとしたままの桜海。真上を向いて、窓ガラスに額を付けて、汗を冷やす律。


「今年はずっと暑かったですね」


「其れが怜莉は寒がりなの。一緒に仕事していると大変」


 律はまた笑みを零し「桜海さんと会いたかったのは」と云い、


「個人的な興味です。怜莉さんから職場に同じ歳の先輩が居る、とは訊いていました。先日のメールに初めて名前が書いてあったんです」と続ける。


 桜海の視線の位置に顔を下げる律。桜海は静かに指輪を眺めている。


「オレの指輪はね、奥さんでも彼女でもなくて、幼馴染なの。訳があって、使っていた指輪の期限が切れちゃって、誕生日に普通の指輪を貰って……」


 此処迄云うと桜海は「どうして、最期にああいう事になっちゃったんだろう」とふいに寂しげにしていく。


「……無不躾にすみませんでした」


「ううん。急に思い出したの」



 3月7日。桜海の誕生日の翌日。2002年。零時になる直前。 


 寝ようとしていた桜海は、襖を開ける音で身体を起こす。真っ白いパジャマ姿のまりかが部屋の入り口に立っている。


「まりかちゃん?」


「どうして皆、ドアの外に出るのに、またドアの中に入っちゃうんだろうね」


 意味を考えていると、まりかが部屋に入ってきて、布団の上に膝をつける。おろした髪がさらっと前下がりに舞う中、まりかは桜海にキスをしようとして、慌てて、桜海は躱してしまう。


「はい!? まりかちゃん? どうしたの? 誰かと間違えているの?」


 躱したままの態勢で答える桜海に「間違えてないよ」と答えるまりか。



「桜海くんはこれからもずっとあたしだけを見ていて」 


「辛くなったら云ってくださいね。此の部屋、特に引き摺られますから」


 我に返る桜海の状相を窺う律。


「緊張しているだけだから。一応、ガードしているし。 りっちゃんこそ大丈夫? 毎日、いろんな人のいろんな辛い話、訊くのがお仕事でしょ?」


 逆に心配そうにされ、つい「そうですね」と返す律。


「禾乃は『此の世界には、未来の人も過去の人も同時に存在している。


 私達はあくまでもの【現在】を【数値化】して【共有】しているだけ』と云っていました。


 『旅館には未来の人も過去の人も来る。同じ時間を様々に使っていく』と」


 一息吐く律。


「旅館を継ぐと決めた禾乃を事故で亡くした後。禾乃が遺そうとした場を『辛い気持を分かってくれる場』に変えてしまったのは、あくまでも僕です」


「りっちゃんの手記を読んだ時にね。思ったの。禾乃さんは死後に影響力が出るタイプだなって。


此の感じだと『導引』の印章の持ち主だったよね? 


あと、りっちゃんは男女問わず、変なファンが付きそうだなって」


「……変な」


 律は笑ってから「怜莉さんのせいなんですよ」とまた笑って答える。


「あれだけ大きな事故でしたし、息子も僕の実家に預けたまま。禾乃の両親も泣きっぱなしで立ち直れない。事故を起こした相手は迷惑だと言い出して」


 窓に沿い、羽織の皺に構わず、姿勢を斜めに落とす律。


「生まれて初めて、本気で他人に怒ったんです。怜莉さんに怒ってしまいました」


「何で怜莉に!?」


「怜莉さんが『おかしいんだ。あの人は本当の事しか云っていない』と申し訳なさそうに伝えてきたので。


 車内に何本もの空き缶が転がって、明らかな飲酒運転と判断された状況。なのに『酒は一滴も飲めない』と言い張る相手に頭を抱えていました。


 未だ高校生だった怜莉さんにキレるだけキレて」


「律。ごめん。律」
 背を向けて立ち去ろうとした律のシャツを引っ張って泣きそうになっている怜莉。肩に触れる長さの髪がぐちゃぐちゃになっている。
「ごめん。参考になれば、って思っただけな……お願い。律」
 冷静になれないままの律がそれでも僅かに振り返る。どれだけ大人びていても幼さが残る顔立ちは隠せない高校生の怜莉が、ぼとぼとと涙を落としてもなお、真っ直ぐに律を見つめている。
「ごめん。律。お願い。置いていか……」


「怒る相手が違うと思いました。どうして怜莉さんを悲しませているんだろうって。


 事故を起こした相手とは冷静に話す事が儘ならなかった。此方が怒る事で初めて、次に進めたんです。喜怒哀楽しか理解出来ない人間って居るのですね」


 次第に大粒になる雨が部屋に入り込み始め、離れる律と、窓を閉める桜海。


「裁判が終わって随分経ってから、認知症って分かったんだよね?」


「……怜莉さんがあの時に『聴いた本人の話』は本人の中では『本当の話』でした」


「うん。でも怜莉も悪くないけど、りっちゃんも悪くないよね?」


「判断力や事情なんて、個人で違うものですからね。


 仮に相手に判断力がなかったとしても、巻き込まれた側の分が悪くなるのは違うと思います。


 同じ経緯を説明しても言い訳と捉えるか、理由と捉えるかは、振る舞いや関係性で変わる。


 此方には話も背景も訊ねる姿勢はありました。


 しかし加害者も加害者家族も、此方の問いを苦情と批判と撥ね付けるだけ」


「家族も弁護士? も誰かが、真面目に話を訊いていたらさ。


 そしたら怜莉以外も『何かしらおかしい』ってわかったかもしれないよね?


 ね。りっちゃんは、怜莉が『心で思っている事』が聴こえるって知って、怖くなかったの?」


 外側の庭園が濡れていく窓ガラスに再び凭れる律。


「怜莉さんは聴こえるだけなんです。歳も環境も違うし、僕は怜莉さんの想像の範囲の外に居たので」


「例えば?」


「チョコレートケーキが食べたいって思っても、怜莉さんは種類を当てられなかった。ザッハトルテ? オペラ? って。僕が食べたかったのは、たぬきのケーキです」


「たぬき!?」


「美味しいですよ。僕の地元ですが、夜も開けているケーキ屋にイートインスペースがあって」


「一緒に行く? 迎えに行くよ? 律ちゃん、ちゃんと休めてる?」


 ちょこんと座って答える桜海を見つめる律。


「桜海さんと一緒なら、遠出しても心配を掛けないかもしれません」


「? 心配されるの?」


「此処から出して貰えなくて。せいぜい徒歩の距離。実家に居る息子と会う時は送迎を用意されて」


「オレは大丈夫なの?」


「怜莉さんの友人なら特別です。怜莉さん、未だ『心の声』が聴こえていた頃だったのもあって、禾乃の両親のケアに熱心になってくれて。信頼されているんです」


「梶さんは?」


「梶さんと僕は約束があるんです。


 梶さん、特定の相手を心配すると大体良くない方向に傾いてしまうらしくて。


 だったら怜莉さんを心配し過ぎそうになったら、僕に相談してください、代わりに息子の面倒を見られる方を紹介してくださいと」


「息子さんの?」


「息子が『支配』の印章を持っているので」


「超激レア! しかもめっちゃ使いにくい奴!」


「まあ。そういう理由で、梶さんとも一応親しいと思います」


 律は桜海の正面に向いて、姿勢と、藤色の羽織を正す。


「桜海さん、僕と友達になってくれませんか?」


「あ。えっと、オレの方こそ宜しくお願いします!」


 慌てて、向かい合い、深々と頭を下げる桜海。「えっと」


「りっちゃん。オレ、全然友達居なくて……怜莉も遊んでくれないし、夜は大体、一人でご飯食べに行ったり、映画を観たり、ゲームしたり、ドライブしたり。だから、一緒に遊んでくれるととても嬉しいです!」


「僕も友達が居ないので」


「え? 怜莉は?」


 律は微笑んだまま答えを返さない。



「あれ。桜海は?」


 戻って来た怜莉が律に声を掛ける。珈琲カップを傾けて、座っている律。


「庭に居る亀がバスケットボールと一緒に池の外に流されていたので」


 怜莉は首を傾げながら、元に居た席、律の隣に座る。


「桜海さん、亀を助けに行ってくるって」


「どういう状況……」


「あと怜莉さんが遅いので、食後のデザートは桜海さんと食べました」


「ええ……」
「珈琲なら出しますよ?」
 普段通りの営業スマイルを見せる律に、不服そうにしながらも「さっき飲んできたから」と怜莉は答える。


「ね。律」


「なんでしょう?」


 カップを片手にした律は話しにくそうな様子の怜莉の顔を、しげしげと覗き込む。


「律は『水野 花』と会った事があるの?」


 暫く黙ったまま、それから律は「やっぱり」と呟く。


「僕は彼女の名前を一度も口に話していません。考えていただけです」


「え?」


 混乱して立ち上がる怜莉を、律は座卓の上座に座る様、促す。


「僕は『水野 花』なんて一言も『口に出して』云ってませんよ?」


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