第30話.世界五分前仮説
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「桜海くんも魔法を使えるの?」
桜海はきょとんとして、まりかの顔を見る。タイマーが5分後に鳴る。
「ハッカちゃんが昔、『中央』は魔法を勉強する処だって云っていたの」
「母さんが? 魔法とは違うと思うけど」
二人同時にインスタントヌードルの蓋を剥ぐ。揃って「頂きます」と云い、揃って、割り箸を割る。
テーブルの向かい合わせ。
1978年。冬。
「名前、決めてくれた?」
二十歳前の二人の少女が小さな木造アパートの一室で話をしている。パーマをかけたロングヘアの初佳が白い革のハンドバッグから、封筒を取り出す。
渡された便箋を開くと、ハーフアップをお団子にした『姫』は「達筆だね」と感心する。
「あ。内容は読まなくて良いから。最後のだけ」
慌てて渡す一枚には、筆で『茉莉花』と書かれている。
「なんて読むの?」
「まりか」
「いいね。気に入った。これにしよう。平仮名で、まりか」
「平仮名!? せっかく綺麗な漢字なのに!?」
「まりかもアタシも一生書き続けるんだよ? 書きやすい方が良いじゃん」
溜め息を吐いて、足を崩す初佳。ミントグリーンの生地の硬い、Aラインのワンピ―ス。幾何学模様に濃い緑、柔らかい生地、マタニティドレスの、通称、姫。
「二人で決めなくて良かったの?」
「お寺さんにお願いしようって。だから、ハッカの彼氏に」
「……お寺といえば、お寺だけど、彼は魔法の勉強みたいな事をしているの。今は魔法使いについて勉強してるって」
「へえ?」
「ね、姫、私も結婚するかもしれない。デビューの話ポシャっちゃったの。始めから『姫ありきの企画』だったし。先生の教室からもアイドルユニット出そうって。私と洋子ちゃんはついでに声が掛かっただけで」
「アタシ抜きでもデビューしたいって交渉しないの?」
「……洋子ちゃんは直談判しているけど、わかっていないの。姫は初めから選ばれた人間で他とは違う。確かに洋子ちゃんも私も容姿も良いし、歌も上手い。でも」
初佳は便箋を持った姫の目を見て「ただの平均点以上。ただの優等生」と呟く。
「姫はずば抜けているの。容姿も歌唱力も。私は安定した『優』を保てるだけ」
突然、姫の傍に身を乗り出す初佳。
「姫、子供堕して、一緒にデビューしよう? 子供はまた作れるよ? 彼、公務員でしょう? 来週、入籍でしょう? 出産したら計算が合わないって噂になるよ? 姫だったら相手はいくらでも」
「帰って」
冷たい静かな言葉に急にボロボロ泣き出す初佳を冷ややかに眺める姫。
「私は『特別』になれないから、『特別な姫』の侍従を任されたみたいに嬉しかったの」
今度は姫が溜息を吐く。
「ハッカもハッカの親も誰かの世話をしてないと死ぬ病気なの?」
「……そうかもしれない」
「勝手にしたら? 私は夏には『まりかちゃんのお母さん』になるって決めたの」
2001年3月。早めの夕食。
「母さんがまりかちゃんに何を云ったのか、よくわからないけど」
インスタントのワンタン麺を啜る、まりかと桜海。
「オレはね、『中央』は『反応の歴史』の勉強する処だって思うの」
食べながら桜海は話し続ける。
「生まれた時代とか過ごした土地とか、周囲の環境でさ。善悪や常識って変わるでしょ?
それから、身内、友達、関わる人達。後はね、出来事、報道、ありとあらゆる情報。
いろいろなものに反応して、その反応に、また誰かしらが反応して。この繰り返し。反応が連鎖して、ずうっと昔から続いて」
容器を持ち上げ、スープを数口飲む桜海。まりかは時折、顔を上げ、桜海の表情を見、再び静かに俯いて、麺を啜る。
「誰が何に反応したのかって、ずうっと昔から調べていかなきゃ、わかんなくて。例えば親の言動だって、所詮、反応の積み重ねで。過去の連鎖の『反応の歴史』から『印章』が生まれて」
「だったら、桜海くんとあたしが一緒にワンタン麺を食べているのも」
桜海をみつめ、薄いワンタンを箸で摘む、まりかはぽつりと続ける。
「いつかの歴史になるの?」
やがて空になった容器の内側に箸を斜めに立て掛けるまりか。
「桜海くんのお父さんも云っていたの」
「え? 何?」
「桜海くんは魔法が使えるって」
「えー?」
まりかは立ち上がり、二人分の容器を重ね、割り箸と共に、キッチンのゴミ箱に捨てる。
「……魔法? 魔法? 例え話?」
宙を向いて、困惑している桜海。身に付けている白いパーカーとデニムのワイドパンは、まりかがくれた、一昨日の誕生日プレゼント。
「例えばね」
声をかけて、ツインテールを揺らして、まりかは目の前の椅子に座る。
「一年だけ、あたしを忘れてほしいの」
まりかの言葉にハッとする桜海。
「桜海くんがあたしを、じゃなくて」
一瞬、慌てるまりかは、ゆっくりと考えを声にしていく。
「『中央』のね。『中央』に関わった人達、全員」
「……どうしたの? 何かあったの? 何か言われたの!?」
血相を変えて訊ねる桜海に、まりかは「違うの」と答え、落ち着かせようとする。
「ゆっくり考えたい事があって。時間が欲しくて。ごめんね。変な話をして」
「えっとね。まりかちゃんを『中央』の皆が忘れても、オレは覚えてるし、このままルームシェアもしたいからさ」
視線を上げるまりか。
「この部屋は『中央』の直ぐ近くだけど」
「えっとね。魔法? もよくわからないんだけど、多分こういう事だと思う」
両手をぱたぱたと動かして、頭の中のイメージを説明しようとするものの追いつかない桜海。
「つまり、まりかちゃんを5分前の存在にするの。5分前の存在だから誰も『思い出せない』の」
今度はまりかがはきょとんとする。
「梶さんっているでしょ?」
両手を降ろし「えっと」と続ける。
「あの人が最強クラスで、未来が視える『印章』を持っているから、梶さんの真上に線を引いて、えっと、こうして? ああして?」
独り言を云いながら、右手の人差し指をくるくると回す桜海。
やがて、かたんっと爪に何かがぶつかり、突然現れた銀色の小さな円が螺旋状に指を滑り、付け根で止まる。
人差し指に落ちた緩い指輪を右掌に載せて、まりかに見せる。
「……出来た」
指輪を覗き込むまりか。
「亀の絵が彫ってある」
「えっと多分? アキレスと亀だから?」
「……なんていうか、ダサい?」
指輪を眺めていた桜海が硬直するのを見て、まりかは「違うの。桜海くんじゃなくて」と訂正して、指輪に触れる。
「桜海くん。……ありがとう?」
「うん。よくわかんないけど、これからの一年間、まりかちゃんは、ゆっくり考え事したら良いと思うよ?」
云うと桜海は、まりかのマリーゴールド色のニットワンピースに目をやる。「まりかちゃん、昔と服の趣味、変わったよね?」と訊ねる。
「……何が、あたしらしいのか分からなくなって」
桜海は心配そうに、指輪を持ち上げるまりかに声を掛ける。
「指輪、一年で消えちゃうけど、オレが持っておくから」
「サイズ、どうなっているの?」
左手薬指を差し出した桜海。明らかにサイズの大きい指輪を、まりかが指の奥まで通した瞬間。指輪はきゅっと縮まり、手を振っても、引っ張っても抜けなくなる。
「……凄いね」
まりかは桜海を見ながら、ふっと微笑む。
「あたしね。死ぬ時は緑と黒のドレスが良いって思っているの」と話す。
「桜海くんはそういうのって無い?」
「刺されて死にたいかな? あ。でも包丁だと、まりかちゃん、ダサいって云うよね? ナイフ? かっこいいナイフを準備しておかないと?」
「用意してどうするの? これで刺してくださいって云うの?」
「あれ?」
考えている桜海に、まりかは「桜海くん」と云う。
「今更なんだけど、こういう魔法って対価とか、代償とかどうなっているの?」
ドラックストアカメヤの赤い看板の前で立ち止まる幼い鏡花。
握った革の肩紐の色に気が付き、不器用にランドセルを降ろすと、歩道の隅に置いて座り込む。黄色のカバーを剥がすとピンク色が見える。
「ランドセル。赤じゃない」
カバーを戻して、不器用に背負い直して立ち上がり、カメヤの中に入り、辺りを見回す。
「今日は何年何月何日ですか」
鏡花に訊かれた店員は答える。
「2002年3月8日よ?」
状況が分からない鏡花。
鏡花は卒園式が近づいても未だランドセルを持っていなかった。幼稚園の友達数人が「きっと職人さんがこだわって作っているんだよ」と慰めてくれたのを思い出す。
買ってくれようとした親戚とおばあちゃんがまたケンカしたのだろうと呟く。
だけど、卒園式までには赤いランドセルが届くと良いと続ける。
肩紐を掴んで、見慣れないスニーカーに視線を落とす。
今朝の新聞には確かに[ 2001年3月8日 木曜日 ]と書いてあった。
もし誰も間違えていないのなら知らない間に一年が経っている。
「迷子? 外国人?」「黄色のカバーは一年生よね?」「この辺、何処の小学校だっけ?」
店員同士のやりとりが終わる。
「名前は何て言うのかな? 何処の小学校かな?」
小学生になった記憶はなくて、答えられない鏡花。
「学校のお友達や先生には、なんて呼ばれているのかな?」
混乱している鏡花は、灰色の髪を揺らし、顔を上げて、一言だけ返す。
「まりかちゃん!」
桜海が中央二階の和室に駆け込もうして、梶に止められる。
あれから一年間。
左手薬指の指輪は、予定通り、一年後の今日。一時間前に消えてしまい、今、布団に寝かされたまりかの顔に白い布が掛けられている。
隙間から僅かに見える首に残るロープの痕。
2002年3月8日。
誰も間違えていないとしても、間違えていたとしても、その日。
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