第29話.助けを求めるシグナル
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「玄関に飾ってあるヒスイカズラの水墨画。描いたの修治の母親?」
問い掛ける梶。
「そういえば貴方には色が着いて見えるんでしたね」
答える國村。
梶が中央に来て、一年経った五月。本殿の事務所。机に置いてある二枚の虎の絵の一枚を梶は手に取る。
「『秘匿』の持ち主が描いたんだってね?」
窓際の壁に凭れ、ファイルを開いていた國村は顔を上げる。「其の話は誰から」「岩手の。『倒錯』の印章の」「『防遏派』道賢副住職ですか。物から過去視の出来る……」
「付き合いにくいんだよね。『秘匿』って」
梶の言葉にファイルを閉じる國村。
「あまり好かれる『印章』ではありませんよね」
「じゃなくて」絵を持ったまま隣の席に座る梶。「自ら隠す癖に無意識下では知られたいと望んでる」
「大概の団体や集団には『秘匿』が居る。いや『秘匿』を都合よく飼っている」
國村を向いて、梶は「この絵、『助けて』と描いてあるそうだ」と告げる。
「二回目の登録者に描いて渡して、誰かは気付いてくれると待っていた。
それに気付きもしないで、額縁に入れ、自慢げに飾っている連中は未だ良い。大層なお墨付きを貰った様に客寄せ、商売道具に使われて」
ファイルを置いて、もう一枚の水墨画の虎に視線を落とす國村。
「修治。登録者全員に会うんだろ? どうせなら虎の絵も回収しよう」
國村は梶に視線を向ける。
「日本中に張った結界の点の様な物ですよ? そんな事したら『中央』の隠し事が露見します」
「別に良いんじゃないの? このままは『秘匿』が可哀相だ」
昔話を思い出す國村は、スコッチウイスキーの瓶を氷の上に傾ける梶に空になった自分のグラスを差し出す。「グラス、このままで良いの?」「構いません」
「オレが代表を継ぐ話に周りが温和しいのはオレが知ろうともせず、学ぶ気が無いから。要は適当に無害なんだ」
呆れ気味に微笑んだまま、鍋の中のポトフを深皿に盛る國村。
「虎の絵を描いた『秘匿』は修治の母親だった訳ね」
「……そうですね」
「助けようもあったかもしれないって思う相手が身内なら余計引き摺りたくもなるよな」
國村の掌の合図に気付き、食べ終えて空の深皿を渡す梶。
「其れでも、修治が中央から離れられていたら、結婚して、子供の一人か二人が居て、かみさんに『春休みはお義母さんの墓参りを兼ねて旅行に行きたいね』って云われたりしてさ」
二杯目をよそわれた深皿を受け取り、梶は付け加える様に「オレは考えるも面倒だし、『支配』の下に居るくらいで丁度良いんだけどね」と云う。
「梶さん。三年後もまりかさんが居てくれたとして、書庫の壁三面をコーティングした方達の魄が保たなくなってきています」
人参を持ち上げていたフォークを止める梶。
「廊下の端の小さな部屋に以後、『宇宙』を閉じ込めた。あまりにもこじんまりとしすぎて、事の重大性も理解し難い」
「そもそもさ。何で、そんなものがあんの?」
「『亥の巻』を視た者が無自覚に作ってしまったのです」
「無自覚に『宇宙』を、ねぇ……」
再び人参を持ち上げて口にする梶。
「作り方自体は於菟の遺した『亥の巻』に書いてあります」
話しながら手元に寄せられたグラスを手にする國村。
「於菟は様々な時代の寺に現れては様々な情報、門外不出の術の類、禁忌に当たる物さえ持ち出し続けてきた様です」
「つまり知らなくても良い事、或いは知られては不味い事を参照に、案を生み出し『干支の書』、正確には『虎の巻』以降に書き残し続けている、と」
「貴方の、於菟が生まれ変わっているとの仮説はしっくりきました」
「身体を使い終えては、膨大な情報を持ったまま、新しい基体となる身体を手に入れ、常に情報を取り入れ、また引き継いでは次の一生を送って、此の繰り返しって奴ね」
「結果、現在の状況。於菟は誰よりも賢くとも不思議はなくなります。更には危険視される存在かもしれません。少なくとも『亥の巻』は災いをもたらす書と認識された以上、於菟を止めたい『防遏派』と、此れも流れゆく先とする『受容派』に分かれた」
「で、今まで誰も読めなかった『亥の巻』をさ。実際、読めて、ヤバイ物を作れちゃった人、どうなった訳?」
グラスを揺らして黙る國村に「別にいいけどさ」と答える梶。
「オレが読めない前提で任せるって云ったろ? 多分、オレも読めるよ。『亥の巻』の最後に書いてある英文が暗号の法則性のヒント」
考え込む國村。
「……梶さんは於菟の作った『印章のジンクス』を心配していますか」
そして続ける。
「日本以外で『印章』の研究をした者は『身内』に不幸が起こる。研究を続けられない程に確実に人の心を折る不幸」
「オレはやらかしてるからさ。おかげで、もう日本から出るのも嫌。其れどころか安全と言い張る日本での研究も本当はもう二度と嫌」
持ちかけたフォークを置いて、梶を見る國村。
「身内と云えど、恋人や親友も含まれて、定義は曖昧。オレの場合は気に掛けている相手が該当するらしい。となれば、今は修治、怜莉、桜海の三人」
「『亥の巻』に書かれていた地球上に宇宙を作る方法。
死者は星になる。
幸い、命を狩る仕組みは作り損じていました。しかし、人が産まれてから死ぬ迄に得る情報を抜いて、それを星にし続けている」
「つまり悪趣味なコレクションボックスって事?」
「有象無象のデータバンクになるでしょう。
提供が止まれば、書庫を出て、誰構わずと情報を抜き始める。故に敢えて、箱の中に入らせ、常に多くの人間の情報を差し出し、一応の満足させる必要が出ました。
名の通り、膨張し続ける故に『宇宙』」
國村は玉葱やキャベツを静かに口に運ぶ。
「今はまりかさんが内側からドアを閉じてくれる。しかし書庫が壊れれば、本殿の壁が最後の砦」
「閉鎖の儀をして、六十年後の人間に託すって考え。未来の人間は困るだろうな」
「代表も万策尽きたのでしょう。……今更ですが、私は梶さんが警察の紹介で来たと訊いて、警戒していました」
食事を続ける二人。
「警察内部は『防遏派』らしいね」
「梶さんが怜莉くんと出会う前、怜莉くんは別件で出頭に付き合っています。その時は直ぐに帰った様ですが。二度目に彼が訪れた際」
梶のグラスの内側で氷が解けて、小さく音が鳴る。
「……この話。いつから始まってんの?」
街灯が照らす暗い公園のブランコに座る怜莉とりんね。りんねは自分のブランコを緩く漕ぐ。
「ごめんなさい。折角、誘ってくれたのに……私が夕食を作っていたから」「ううん。外食はいつでも出来るし」
頷くりんね。
「りんね、今日出掛けたの?」「……セリさんと午前中に会って」「うん。今朝、訊いた」
「……あのね。怜莉さん。ほら、本を貸してくれてたお客さんが居たって云ったでしょう。その人が渡してほしいってセリさんに本を預けていて」
「……うん」
「怜莉さんの部屋に置いても良いのかなって。一旦、持って帰ってきて。いつもの服に着替えて、仕事に行ったけど……数えたら文庫本五十二冊とハードカバー三冊あって」
ミュールの先で地面の土を削り、ブランコを止めるりんね。
「自分の部屋に置きに行った方が良いのかもって悩んでいたの」
「……良いよ? ウォーキングクローゼットの棚に置いて。いつまでに返すの?」
「えっと。終活? で部屋を片付けているからあげるって」「そっか」
チャコールグレーのスーツを着た怜莉はブランコの鎖を強く握ると、りんねの顔を覗く。
「ごめんね。今週ずっと机に向かって勉強してて。あまり、りんねと話せなくて」
首を振るりんね。
「大人になっても、いっぱい勉強するんだなって思ったの」
怜莉は僅かに視線を落とし、「実はさ」と続ける。「りんねにいきなり結婚しようって云ったの……困らせている気がして」
動きを止めるりんね。
「怜莉さん」
それから「その話」と静かに話を続ける。
國村はテーブルに肘を付き、頬に手を当てる。
「……いつから。ひとつは怜莉くんが自分の『印章』を否定した時からでしょうね」
「オレ、協力したんだけど……」
「私も当時は気にしませんでした」
ウィスキーを一気に飲むと梶は「怜莉にやめろって云えば良い訳?」と訊ねる。
「もう遅いです」
食べ終えて空の深皿の中に倒したフォークを右手で触る國村。腕時計の文字盤の中に居る蛙。
「八足くんが怜莉くんを怖がっていました」
「何で?」
訊ね返す梶に、國村は「彼は過敏ですから」と付け足し、「私は云われて、初めて気付きました」と答える。
「八足くん。怜莉くんを刺そうとした直後、しかも大人に囲まれている状況で、あまりにも整理された理由を話したでしょう」
梶は國村の顔を眺める。
「訊かれたら答える理由を事前に決めていた風でした。桜海くんも同じ感想だったから、彼の両親から探ろうと会いに行った。
彼も彼の両親にも最適解の場所がある。しかし八足くんの親は『東睡』を居場所として認めていない」
國村もまた梶の目を見て話す。
「彼は都合良くも納得のいく理由をみつけてしまったのです」
昨年。12月の黄昏時。
八足は庭に居る怜莉をみつける。
怜莉は何処からか入って来た白い猫を撫で、白い猫は数分もすると怜莉の傍から離れる。そして気が付いてしまえば、仕方が無い。白い猫から伸びる影と、影のない怜莉。
「怜莉くんには影がない。だから」
梶が記憶を確認する間に腕時計を外して、國村は、梶と自分の間に、かたんと置く。
「全てあるいは1/4、もしくは0なのです」
時計は七時二十一分を指し、秒針は閉じ込められた蛙の上を過ぎていく。
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