第25話.前後即因果の誤謬


▶第24話迄のまとめ


寝室。ベッドの上。



 いつもは怜莉が寝ているスペースで
横になっているりんね。ネイビーの生地にドットに広がる星柄のパジャマ。半回転させて蟹の状態にしたウーパールーパーのぬいぐるみ。

 タオルに包んだ冷却枕に載せた頭。持ち上げたりんねの髪を高い位置でお団子に結ぶ怜莉。


「大丈夫?」「うん」


 心配そうに顔を見る怜莉は「病院に行こう」と話す。嫌がるりんね。


「だったら、りんね。二日は様子を見たいんだ」
「怜莉さん、仕事は?」
「……ほら、今、勉強中で……短期集中は効率良い……し。さっき、暫く休みにするって話になっていたから」

 思い付いた理由を告げる怜莉。


 「缶コーラの人と?」りんねは居間のテーブルに置いたあった缶を思い出す。



「……うん。あと、りんねのストラップの蟹。色塗りの相談をしたら、参考にマニキュアを貰って。其れを使っても良いと思うけど」


 怜莉が桜海から渡されたエナメルネイルに纏わる話を簡易に伝えて、りんねは「大事な物なのに良いの?」と訊ねる。


「ちゃんと確認した」と頷く怜莉。


「……お願いしても良い?」


 体を起こそうとするりんねを止めて、ベッド下のトートバッグを持ち上げる怜莉はまた長く顔を窺う。


 怜莉の知っている、りんねの顔。


 りんねはバッグの中を漁って二本の鍵が下がった蟹のストラップを取り出す。


「怜莉さん。私は明日、仕事に行きたい。土曜日の午後は祝日がある週だけなの」


 手元の鍵を交差させてVの形にして持っている左手と、右手の中のシオマネキに視線を落とす。


「尚更、今のうちに病院に」「それだけは嫌」


 隣で困った様子で「りんね」と口にする怜莉。


「なら、職場まで送って、帰りは迎えに行く。真屋先生にも事情を話す」


「……怜莉さん。過保護」
「うん。自覚している」


 口元だけ微笑む怜莉を見上げて、りんねも少しだけ口元を緩ませると「……わかった」と仕方がなさそうに、しかし何処かしら嬉しそうな反応をする。


 怜莉は一人、居間に戻ると、リュックから手帳に挟んでいる真屋の名刺を取り出す。


 『りんね』は本名ではないのなら、病院に行く必要性が出た場合、『水野 花』を名乗るしかない。けれども『水野 花』もまた彼女の本名では無い。


 もしかしたら真屋なら『彼女が誰』と緊急事態ならば教えてくれるかもしれない。


 考えるものの、りんねが頭の中で履歴書を確認していた時の、怜莉にしか聴こえない『心の中の声』を思い出す。


 (水野花の履歴書……住所……書いている時に緊張して間違えたまま)


 知る事の出来る情報を『正しい』として良いのだろうか。悩み始めると不安にされるがままの怜莉。


 ふと、頭に浮かぶ、知り合ったばかりの頃の律の云う


「心の声が聴こえた所で、受け取り方は『片手落ち』だね」


との感想。 


「りんね」


 寝室に戻ると、ぼんやりと横たわっているりんねに声を掛ける。


「もし手足に力が入らなくなったり、痺れが出たり、頭痛が酷い時は」


 枕元の怜莉と目を合わす、りんね。


「『橘 りんね』の名前で病院に行こう」


 反応しきれないりんね。


「目の前の人物を確認する方法は、公的な証明と照らし合わす事。もう一つは相手の云う情報を信用する事」


 怜莉は続ける。


「此処の住所を書いて、誕生日もオレの…」
「12月8日……怜莉さんと同じ12月生まれ」


 被せて、しかし穏やかに話すりんねの真後ろに急に印章が浮かび上がる。


 二重円の合間に【 19 .12.08 】という数字が表れて、19の後の下2桁はスロットの様に回転し、【 1988 】で固定されると、りんねは「1988年12月8日生まれ」と伝える。


「……今、18歳で、誕生日が来たら19歳なんだね」


 ハッとして、りんねは「私、夜、働いていた時は19歳って」と慌てて、傍に転がっていた蟹の状態のぬいぐるみで顔を隠す。


「構わないよ。オレも未だ22歳だし」
「4歳上?」とぬいぐるみ越しにりんねが訊ねる。


「うん。4つ違いだね」と云う怜莉はりんねの印章から目を逸らしながら、複雑な心境を表情に出してしまう。


 ベッドサイドのテーブルにはりんねの食べた夕食の食器が載ったトレイ。


 安静にしてもらう代わりに好きな物を用意すると云われて、りんねは我儘を云ってみた。


「月見うどんとプリン」


 空っぽになった多用丼とココット。箸。レンゲ。スプーン。


「怜莉さん。プリンも作れるんだ」
「今度、一緒に作る?」
「うん」


 壁に凭れて、『卯の巻』の写本を読んでいる怜莉。


「怜莉さん。恰好良い椅子と机があるのに此処で勉強するの?」
「今日は読み返すだけだから」


 りんねは壁に凭れている怜莉を見て、幼い『鏡花』が壁に凭れ、絵本を開いている様を思い出す。


「私。弟が居たの」と云うりんねを見上げる怜莉。



「おじいちゃんが亡くなる半年位前。夜にいつもの様にお留守番していたの。弟は生まれてから殆ど病院に居て、時々、十日とか二週間とかだけ帰ってきて。


 私は怜莉さんみたいに壁に凭れて、弟の絵本を読んで。時々、吸引しなきゃいけなくて。でも、上手く出来なくて」


 りんねは『鏡花の昔話』を続ける。


「あの日は特に嫌がって、何も出来なくて。お母さんが出掛けた先に電話をして、取り次いでもらったの」


 コードレスの電話機を持つ5歳の鏡花は介護用のベッドを振り返って、掛け布団を退けて、弟の様子を窺う。


「……息……してないよ?」


 怜莉が思わず本を閉じる。


「りんね。其れは、りんねのせいじゃないよ」
「うん。分かる」


 怜莉は思わず、壁から離れて、りんねが横になっているベッドの傍ら、顔を合わせる位置のマットレスに両腕を置き、片膝を立て座る。


「言い訳は聞きたくないって。私の事情や理由は全部、自己保身の言い訳だって。もう何も話せなくなったの」


「だって、おじいちゃんが亡くなる前って、5歳位でしょ?」


「仕様が無いよ? 其れに未だ、弟は生きているの」


「え?」


「そういう『設定』なの。『設定』は守らなきゃ矛盾が生まれちゃうの」


「……りんね」


 りんねは目線より少し上の食器を僅かに見ると「怜莉さん」と目の前の怜莉に呼び掛ける。


「『りんね』は良いね。沢山、心配してもらえて。甘やかしてもらえて」


 違うよ、と云おうとして、言葉を飲み込む怜莉。


 自分が心配しているのも、好きだって云いたいのも、目の前に居る『知らない誰か』。『りんね』としてしか呼べないから、『りんね』と呼ぶだけ。しかし、其れさえも伝える事が出来ない。


 怜莉は目の前に居る相手を知らない。


「いつか」と怜莉が云う。
「いつか?」訊ね返すりんね。


「結婚しよう」


 りんねの向こうに居る『誰か』に怜莉は伝える。



「國村先生」


 東睡の事務所で書類記入をしている國村の隣の席に、松田が座る。首の左側で結んだ黒いボウタイのブラウスと千鳥柄の膝丈スカート。前に長いショートヘアを耳に掛ける。


「どうして、皆と仲良く出来ないのかな」


「何の話ですか」


 國村が手を止めて、松田を見る。


「また通じない話でもして、周りから嫌われても当然って感じ」


「聞いていたのですか」


「いいえ。四人で話しているのを見ただけ」


 松田は机の上のカレンダーを指で確認しながら、「今度の木曜日と金曜日。初花さんの御両親に会いに行きます」と話す。


「泊まりですか」
「私のスケジュールの都合です。千景と莉恋の事、宜しくお願いしますね。千景、東睡の塾講師、辞めちゃうかもしれないので止めてくださいね?」


「初耳ですが」


「三月閉鎖で此処の敷地入れなくなるし。受験生以外は冬休みに他のビルに移動してもらうし。その後は國村先生、名義貸して他人任せでしょ? しかも来春からは高校生の受け入れ。千景は、専門学校卒の自分には無理って云い出したの」


 肘を付いて、松田とは反対向きに考え込む國村。


「まあ、兎も角。省吾さんや怜莉くんとは仲良くしておかないと。書庫ではない『開かずの間』は私の管理下であるし? 國村先生、このままなら話し相手、居なくなっちゃうよ?」


 松田は笑顔で警告すると、静かに席を立つ。


 一瞬だけ、かたんと音がして、椅子の背凭れがデスクに当たる。


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