第23話.オフィーリアに浮かぶ花群れ

登場人物・用語紹介


 

「代表の御子息の、桜海さんですか?」


 律は高杯グラスを傾けながら、梶に訊ねる。



 寺院の二階自室。とりあえず掛けただけのブランケットに法衣を着たままの桜海は目を覚まして、洗面台。顔を洗い、水滴をタオルで抑え、一呼吸を吐く。


 開かずの間の前。


 鍵を差し込み、目を瞑って、勢いで鍵を回す。しかし手応えが返らない。
「……」
 桜海は瞼を開けて、ムキになって、何度も左右に回すも鍵は空転を続ける。


「梶さん!」


 降りてきた桜海は螺旋階段の中腹で、出勤してきたばかりの梶に声を掛ける。


「鍵が違う?」


 普段通りの作務衣を着ている梶。


「此の期に及んで、別の鍵を渡す真似は」


「オレも梶さんが適当に渡して誤魔化そうとしたなんて思いたくないし」


 事務所内の机にスーツの入ったガーメントバッグ放る梶を見ながら、桜海は不安そうな顔を続ける。


「此処で信頼関係壊滅させて、それこそ何がしたいのって思うし」


「まあ。とりあえず、二階に行ってみるか」と梶は答える。


「で、桜海は何でそんなに離れてるの?」


 西側の廊下。北突き当り手前の開かずの間の前に立つ梶と、反対の突き当り、二階吹き抜けを覆う柵の位置で止まっている桜海。誰も居ない一本道を若干響く声が通る。


「さっきは寝起きの変な勢いがあったから! 鍵が開くのだけ確認しておきたいの!」


 梶は溜息を吐きながら、鍵穴に鍵を差して回すと、何事もなく、カチリと音がする。


「普通に開くけど?」


 いつもの癖で鍵を抜く梶。左開きの開かずの間はドアを左に大きく開くか、覗き込まければ中は見えない。


 瞬間。


 僅か数mm弱に開いただけの、上と横の隙間から薄くて黒い靄状の何かが広がっていくのに梶も桜海も気が付き、黙り込む。


 靄はでつうっと束なり、幾つものの帯状となり、梶を無視して、曲線を描きながら、徐々に伸びて、桜海の元へと一気に速度を上げる。


「え? えええええ」


「桜海!」


 身動きを取り損ねる桜海。梶は急いでドアを閉めようとするけれども、内側から敵いきれない程の何かに力に押されて重い。慌てて全体重を載せ、必死で抑え込み跳ね返されないだけでも精一杯になった辺り。


 帯状の黒い靄の塊は桜海の手前で突然止まると勢いよく、内側に引き戻されてる。そして急にバタンと音を立て、ドアが閉まる。


 全力で押さえつけていた梶は弾みで一瞬、よろめくも態勢を立て直し、汗だくの腕から掌、ドアノブにと視線を落とす。


「……梶さん!?」


 柵に背を付けたまま、青ざめた表情の桜海が声を出す。


「桜海」


 異様に静まり返る廊下は呟く声さえも通る。


「内側から閉まった」


「え?」


 それから。
 内側のドアノブに絡まる細く白い指。
 生きている者は居ない、誰もは知らない、ドアの内側。


 茶色の髪のツインテールが宙に漂う。
 結ぶ高さで横に揺蕩い広がる髪。濃い緑色のサテン生地に黒のレースが縫い付けられたベビードール。其の短い裾は浮いて、肩紐もまた肩から浮いて、緩く。


 閉め終えた後は何も無い。


 ドアが一枚。そして、まりか。


 鏡面に似た床は、夜よりも暗い闇と、一筋の天の川を映してなおも暗くも、けれども一面に輝き、最早、上も下も果てもない、まるで其処はただの銀河。


 独りぼっちのまりかは、真っ直ぐにドアをみつめて、睫毛を落とす。


「桜海くんのエッチ」


「来たら駄目だよ? 聴こえてないだろうけどさ」


 まりかは独り言は続ける。


「ね。ハッカちゃん? あたしは……ハッカちゃんと同じ位は頑張れるかな? 桜海くんをちゃんと守れ……て……」


 やがて、まりかに白い巻雲の様な物が掛かり始めて、姿を解いて、闇に飲み込む。


 音も無く、銀河は渦を描き、球体の形に纏まり、片手程に小さくなるともう誰にも見えずに消える様に、内側は元の書庫の姿に戻る。


 桜海は開かずの間に駆け寄る。


「まりかちゃん!? まりかちゃんなの!? まりかちゃんが閉めたの!?」


 叫びながら両手でドアノブを無茶苦茶に回す。乱暴にドアを叩きながら「まりかちゃん!?」と叫び続ける。


「梶さん! まりかちゃんなの? 見たの!?」 


「いや……そんな余裕は」


 動きを止めて直ぐに「開かないの! 鍵! 開けて!」と喚く桜海。


 梶は錯乱した様子の桜海を前に「ああもう!」と云いながら、鍵穴に鍵を差し込もうとして、ハッとする。


「梶さん!?」
「……」
「梶さ……」


 二人がドアノブの上を見る。白い煙が最後、鍵穴は跡形も無く消える。



「鍵穴が消えた?」


 東睡の事務室で國村に話をする梶。國村は机に向かい、座ったまま腕組みをして考えている。


「そもそも何をやっているのですか」
「何って」
「梶さんじゃなくて、桜海くんに訊いているのです」


 俯いている桜海は何も答えない。


「代表に入らない様に云われていたでしょう。今回も」


 一拍置いた後。


「内側から閉まったと云うのなら、お考えの通り、まりかさんが閉めたのでしょう」


 顔を上げる桜海。


「拒絶された訳です」


 國村の言葉に、口を開けたまま、固まる桜海。やっとの事で声になる。



「……どうして……そんな酷い事云うの!?」


「違います」


 梶は二人の会話を無言で窺う。


「貴方はそれだけ大事にされているのです。代表にも。まりかさんにも」



 東睡の建物を出て並んで歩いている途中、桜海が足音を止める。


「あの部屋で死んでしまうと出られなくなるって」


 梶が後方にいる桜海を振り返り「此の前、云っていたな」と返す。


「どう思う? 國村さんは書庫の管理者だし、開かずの間の噂以上も知っているとは思うけど……まりかちゃんだけ、あの部屋に居るの? 母さんは?」


 考えながら「ドアノブがふいに回った感覚はあった」と答える梶。桜海はぼんやりと少し前に進み、梶の隣に立つ。


「……まりかちゃん。寂しがり屋なんだ。子供の時ね。母さんが急に死んでしまって、オレ、縁側でこっそり泣いていたら、捜しにきたまりかちゃんが大泣きしてて。

 『居なくなったらびっくりするよ』って『泣いたら駄目だよ』って。自分の方が泣いているのに」


「……まりかちゃんは、桜海が大好きだったんだな」


「僕だけじゃないよ。まりかちゃん、オレの母さんをハッカちゃんって呼ぶんだけど、まりかちゃんこそ、いつも隠れて『ハッカちゃん、寂しいよ』って泣い……」


 一粒、そしてぼたぼたと続けて涙を落として、其の場に蹲る桜海。


「桜海。どうしたの?」


 しゃがみ込む怜莉の声に、桜海は自分が梶に後ろから支えられてる事を理解する。


「怜莉は此処に居ないで」


「……桜海?」


「此処に居たら、大切な人を失うと思う」


「……何の話?」


 近付く足音に話を止める桜海と、其方を向く梶と怜莉。


「大丈夫ですか」


 真後ろに立った國村の声にますます黙る桜海はどうにかして立ち上がろうとして、やはり動けない。代わりに絞り出して声を出す。


「……國村さん。何しに来たの?」


「分かりませんか。あなたが心配で此処にいるのです」


「……だったら知っている事を全部話して。代表の次に詳しいのは東睡の前の管理者。國村さんの育ての親でしょ?」


 溜め息を吐いて、腕を組む國村は中央の建物を見上げる。梶は桜海の肩を支えていた手を、様子を見ながら離し、國村に視線を流して、立ち上がる。


「至極当然の話から始めます。印章は祖父母、両親、最低二世代を遡る血縁の負債。


 産まれた際の、捩れて隙の空いた処に生じます。持って生まれた者の背にあり、個人の持ち物。ですが、其れは血縁者の歴史に押された刻印」


「修治。其れはさすがに全員知っているから」


「続けてください」


 怜莉も立ち上がり、梶と目を合わす。桜海は座り込んだ背中越しに、話を訊いている。


「今更、何故、基礎を話しているのかも不満でしょうけれども。梶さん。こないだの計算は間違えています」


「は?」


「あなたが学びたくないのは知っています。しかし此処で研究された人達が残した記録には目を通している。

 確かに考え方は合っている。印章の形は月相に対応し、余りが出る。但し、あの程度の甘い計算をしている様では……間に合いません」


「えっと……オレ、怒られているの?」


 梶が怜莉に助け船を促すも、怜莉は真摯に語る國村と対極の態度の梶に困る風の顔をしてしまう。


「……何が間に合わないの?」


 やっと立ち上がる桜海は、國村としっかり目を合わせ、瞳の奥から鋭さを離さない。


「『干支の巻』の著者。始まりの『於菟』が秀でた宗教家であったのは間違いありません」


「始まりの……於菟?」


 ブラックのスーツと、結んだ長い髪を風に揺らす怜莉。ふいに『りんね』を思い出している。


「修治」と梶が声を掛ける。

「確定で良い訳ね」國村は頷く。


「怜莉くんと桜海くんは、サンジェルマン伯爵を知っていますか?」


「誰?」


 桜海に話を振られる怜莉。


「……18世紀ヨーロッパの社交界で魔術師の地位に居た人だよ。教養があって、芸術にも学問にも優れ、『人類史上最も貴重な発見』の為に研究室を欲した。


 ありとあらゆる時代を生き、ありとあらゆる時代に現れたとされる人智を超えた存在。錬金術師、不老不死ともタイムトラベラーとも呼ばれている人物」


 怜莉の話の後、再び國村を見る桜海の法衣は袖下と裾が乾いた土に汚れている。


「於菟は今も生きているって事なの?」


「可能性はあります。いえ、無いと困ります」


「修治」と梶が口を挟む。


「多分、於菟は不老不死というよりも、ちゃんと死んで、ちゃんと生きていると思う」


「というと」


「A cat has nine lives. 一度だけ開いた『亥の巻』の最後の頁に唐突に書いてあった。猫には沢山の命があって、殺しても死なない。何度も生き返る」


「何なの? 於菟がどうしたの?」


「捜し出して、話をしなければいけません。彼が作り出した物は」


 國村は躊躇いがちに続ける。


「人の手に負える物ではなくなってしまった。其れでも『中央』は於菟の知恵である『支配の印章』の真下にあり、於菟もまた『支配の印章がある場に籠もる』と自ら述べている」


 僅かに振り向いて本殿を眺める怜莉。


「桜海くん。外の人間を巻き込むのは、まりかさんで最後にしましょう。どうしますか。梶さん。怜莉くん」


 梶と怜莉が顔を見合わせた後に、國村をみつめる。


「先程、代表が亡くなったとの連絡を受けました。よって私達も選択肢も失いました」


 絶句したままの桜海に目を添えて、それから怜莉と梶を見て、辛そうに目を閉じ、俯く國村。


「抗いますか。それとも閉鎖と共に『中央』と心中しますか」


 北の位置には桜海。東には國村。南には梶。西には怜莉が立っている。

 


何度推してもいいボタン

わんわん数: 705