第21楽章.オフィーリアに浮かぶ花群れ


 2007年10月16日。火曜日。

 寺院の2階自室。桜海は畳の上で目を覚ます。とりあえず、引っ掛けていたブランケット。昨朝から着たままの法衣。洗面台で顔を洗い終える桜海。タオルで水滴を抑えて、一呼吸を深く吐く。


 そして、静かに開かずの間の前に経つ。


 鍵を丁重に差し込んだ後に桜海は一瞬、強く躊躇い、目を瞑る。けれども勢いのまま、鍵を回して、しかし開く気配も手応えも返らず、鍵は延々と鍵穴の中を回り続ける。瞼を開いて、其の不可思議な様を眺める桜海。


「……え? 何これ?」


 次第にムキになって、今度は左向きに回してみるもやはり鍵は空転を続ける。



「梶さん!」


 螺旋階段の中腹迄、降る桜海。出勤してきたばかりの作務衣姿の梶を見掛けて、大声で出す。


「鍵が違う?」


 梶は桜海の問いに答えを返す。


「桜海さ。流石にオレが嫌な奴でもさ? 此の期に及んで、別の鍵を渡す様な真似は」


「オレだって! 梶さんが適当な鍵を渡して誤魔化した、なんて……思いたく……」


 梶は云い止める桜海の不安そうな顔に目をやる。事務所内に入り、スーツの入ったガーメントバッグを、手前のデスクに置く梶。事務所の外に立ったまま、やや俯く桜海。


「梶さんが……オレとの信頼関係壊滅させてもしたい事って、何? って思うし」


 梶は廊下に戻ると、桜海よりも20cm程、高い背で桜海を見下さない様、腰から斜めに静かに身体を傾けて、表情を窺う。


「まあ。とりあえず、また行ってみる?」と梶は桜海に声を掛ける。


 2階。西側の奥に向かう廊下を裸足で歩く梶。其の後ろを大分離れた位置から着いて行く桜海。


「えっと? 桜海は何でそんなに距離取ってるの?」


 困惑した顔で、振り返る梶と、いつになく神妙な顔をした桜海。東側の窓から朝陽が伸びる廊下。しかし奥に進む程に陽は届かずに暗くなる。


 そして、途中で梶だけが北に続く廊下を曲がる。


 突き当り手前の開かずの間の前に立つ梶。北廊下へ向かう角、2階吹き抜けを覆う柵を背に立ち止まっている桜海。


「梶さん……あのさ」


 梶以外も誰も静まり返る居ない一本道を桜海の声がそっと通る。


「さっきは寝起きの変な勢いがあったの! でも今は……鍵が開くのだけ……確認出来たら良いから」

「まあ、良いけど?」

 梶は溜息を吐きながら、鍵穴に鍵を差して、僅かに回すと、何事もなく、カチリと音がする。


「普通に開くけど?」


 そう云うと、つい、いつもの癖で鍵を抜く梶。左開きの開かずの間はドアを左に大きく開くか、覗き込まければドアの前の梶からは中が見えない。


 しかし、瞬間。隙間に生じる異変に梶が気が付く。


 ドアの上と横の隙間から、薄くて黒い煙が溢れて、靄状になる『何か』が広がり始める。桜海も気が付き、二人は、それぞれ黙り込む。


 細い靄は次第に絡み合い、束なり、幾つもの黒い帯もしくは腕に似た形となり、ドアの隙間から南に向かい、伸びていく。其れは目の前に居る梶を無視し、揺蕩い、曲線を描いて、徐々に動き慣れたと思うと、一気に速度を上げて、一直線に桜海の元へと向かう。


「え? えええええ!?」


 事態が分からず、じっと眺めていた桜海も最低限に避けようと咄嗟に右腕を顔の側に上げる。しかし、其れ以上の身動きを取り損ねる桜海。


「桜海!!」


 梶は傍らに急ごうとして、ドアが揺れながら内側から開き出そうとする事に勘付く。慌てて、ドアを抑えようとするものの、ドアは重く、身体全体、全体重を載せて、必死に押さえ付けても未だ重く、内側から敵いきれない「何か」の力に押され続ける。梶は必死で抑え込み、せめて跳ね返されないだけでも精一杯になった時。


 帯状の黒い靄の塊は、桜海の手前で突然、ぴたりと止まってしまう。


 それから、そのまま勢いよく、引き戻される様に内側に全てが戻り、気配すらも消えてしまう。そして、急に揺れていたドアは、バタンと音を立て、微動だにしなくなる。


 全力で押さえつけていた梶は弾みでよろめくも、直ぐに態勢を立て直す。汗だくの腕から掌、ドアノブに、と視線を落とす。


「……梶さん」


 桜海は青ざめた顔で遠くから、ぽつりと呟く。


「桜海」


 異様に静まり返る廊下。


「ドアが内側から閉まった」


「え?」



 それから。


 内側のドアノブに絡まる細く白い指。 


 生きている者は居ない、誰もは知らない、此処はドアの内側の世界。


 茶色の髪のツインテールが宙に漂う。


 結ぶ高さで横に揺蕩い広がり、舞い上がる髪。濃い緑色のサテン生地に黒のレースが縫い付けられたベビードール。其の短い裾は浮いて、肩紐もまた肩から緩く浮いている。


 閉め終えたドアの内にあるものは、一枚のドアと、まりか。


 其の足元。鏡面に似た床は、夜よりも暗い闇と、一筋の天の川を映しても、なおも暗く、けれども一面に輝いている矛盾。最早、上も下も果てもなくて、まるで其処はただの銀河。


 独りぼっちのまりかは、真っ直ぐにドアをみつめて、睫毛を落とす。


「桜海くんのエッチ。来たら駄目だよ? 聴こえてないだろうけどさ」


 まりかは独り言は続ける。


「……さん。ごめんなさい。あたし、未だ『イブのフリ』は……出来て……怜莉く……」


 しかし、やがて、まりかに白い巻雲の様な物が掛かり始める。そして、まりかの姿を解いて、闇に飲み込む。


 音も無く、銀河は大きな渦を暫し描いたのち、片手程に小さい球体に纏まる。


 誰にも見えずに消える様に、内側は元の『開かずの間』と呼ばれる書庫の姿に戻る。


「まりかちゃん!?」


 悲鳴の如く叫びながら、両手でドアノブを無茶苦茶に回す桜海。乱暴にドアを叩き続けて、何度も「まりかちゃん!?」と叫ぶ。


「梶さん! まりかちゃんなの? 見たの!?」 


「いや……そんな余裕は」


 動きを止めて直ぐに「ドア! 鍵! 開けて!」と叫んで喚く桜海。


 梶は錯乱した様子の桜海を前に「ああもう!」と云いながら、鍵穴に鍵を差し込もうとして、ハッとする。


「梶さん!?」
「……」
「梶さ……」


 二人がドアノブの表面を見る。白い煙を最後にし、鍵穴は跡形も無く消える。



「……鍵穴が消えたんですか?」


 東睡の事務長室。國村に話をする梶。國村は机に向かい、座ったまま腕組みをして考えている。


「そもそも何をやっているのですか」
「何って」
「梶さんじゃなくて、桜海くんに訊いているのです」


 俯いている桜海は何も答えない。


「代表に『開かずの間』には入らない様、云われていたでしょう。今回も」


 一拍置いた後。


「内側から閉まったと云うのなら、お考えの通り、まりかさんが閉めたのでしょう」


 國村の話の途中で顔を上げる桜海。


「拒絶された訳です」


 國村の言葉に、口を開けたまま、固まる桜海。やっとの事で声になる。


「……どうして……そんな酷い事云うの!?」


「違います」


 二人の会話を無言で聴く梶。


「貴方は其れだけ大事にされているのです。代表にも。……まりかさんにも」



 東睡の建物を出て並んで歩いている途中、桜海が足音を止める。


「あの部屋で死んでしまうと出られなくなるって」


 梶が後方にいる桜海を振り返り「此の前、云っていたな」と返す。


「どう思う? 國村さんは書庫の管理者だし、開かずの間の噂以上も知っているとは思うけど……梶さん。まりかちゃんは……あの部屋に居るの?」


 梶は長く無言になる。


「ドアノブがふいに回った感覚はあった」と答える梶。桜海はぼんやりと少し前に進み、梶の隣に立つ。


「……まりかちゃん。寂しがり屋なんだ。子供の時ね。オレの母さんが急に死んでしまって、オレ、縁側でこっそり泣いていたら、捜しにきたまりかちゃんが大泣きしてて。

 『居なくなったらびっくりするよ』って『泣いたら駄目だよ』って。自分の方が泣いているのに」


「……まりかちゃんは、桜海が大好きだったんだな」


「オレだけじゃないよ。まりかちゃん、オレの母さんをハッカちゃんって呼んでて、仲良しだったみたいだけどね。まりかちゃんこそ、いつも隠れて『ハッカちゃん、寂しいよ』って泣い……」


 一粒、それから、ぼたぼたと何度も涙を落として、其の場に蹲る桜海。


「桜海。どうしたの?」


 しゃがみ込む怜莉の声に、桜海は自分が後ろから梶に支えられてる事を理解する。


「怜莉は此処に居ないで」


「……桜海?」


「此処に居たら、大切な人を失うと思う」


「……何の話?」


 訊ねる怜莉。足音に話を止める桜海と、其方を向く梶と怜莉。


「大丈夫ですか」


 真後ろに立った國村の声にますます黙る桜海はどうにかして立ち上がろうとして、やはり動けない。代わりに絞り出して声を出す。


「……國村さん。何しに来たの?」


「分かりませんか。あなたが心配で此処にいるのです」


「……だったら知っている事を全部話して。代表の次に詳しいのは、國村さんの育ての親、東睡の前管理者でしょ?」


 溜め息を吐いて、腕を組む國村。梶は桜海の肩を支えていた手を、様子を見ながら離し、國村に視線を流して、立ち上がる。


「至極当然の話から始めます。印章は祖父母、両親、最低二世代を遡る『血縁の負債』。


 産まれた際の、捩れて隙の空いた処に生じます。生まれた者の背にあり、個人の持ち物。ですが、其れは血縁者の歴史に押された刻印。『罪の相続』です」


「修治。其れは流石に全員知っているから」


「続けてください」


 怜莉は立ち上がり、國村に答えていた梶と目を合わす。桜海は座り込んだ背中越しに、話を訊いている。


「今更、何故、基礎を話しているのかも不満でしょうけれども。梶さん。こないだの計算は間違えています」


「は?」


「貴方が学びたくないのは知っています。しかし、貴方は此処で研究された人達が残した記録に目を通し、必要ならば個人的にも連絡をしている」


 國村に云われて、一段と深い溜息を吐く梶。構わずに話す國村。


「確かに梶さんの考え方は合っています。印章の形は月相に対応し、余りが出る。但し、あの程度の甘い計算をしている様では……間に合いません」


「えっと……オレ、怒られているの?」


 梶が怜莉に助け船を促すも、怜莉は真摯に語る國村と対極の態度の梶に困る風の顔をしてしまう。


「……何が間に合わないの?」


 やっと立ち上がる桜海は、國村としっかり目を合わせ、瞳の奥から鋭さを離さない。


「『干支の巻』の著者。始まりの『於菟』が秀でた宗教家であったのは間違いありません」


「始まりの……於菟?」


 ブラックのスーツと、結んだ長い髪を風に揺らす怜莉。ふいに『りんね』が祖父の名前を『於菟』と教えてくれた日を思い出す。


 「修治」と梶が國村に声を掛ける。「確定で良い訳ね」と云い、國村は頷く。そして、國村は再び話を始める。


「怜莉くんと桜海くんは、サンジェルマン伯爵を知っていますか?」


「誰?」


 桜海に話を振られる怜莉。


「……18世紀ヨーロッパの社交界で魔術師の地位に居た人だよ。教養があって、芸術にも学問にも優れ『人類史上最も貴重な発見』の為に研究室を欲した。


 ありとあらゆる時代を生き、ありとあらゆる時代に現れたとされる人智を超えた存在。錬金術師、不老不死ともタイムトラベラーとも呼ばれている人物」


 怜莉の話の後、再び國村を見る桜海の法衣は袖下と裾が乾いた土に汚れている。


「於菟は今も生きているって云いたいの?」


「可能性はあります。いえ、無いと困ります」


 「修治」と梶が再度、口を挟む。


「多分、於菟は不老不死というよりも、ちゃんと死んで、ちゃんと生きていると思う」


「というと」


「A cat has nine lives. 一度だけ開いた『亥の巻』の最後の頁に唐突に何故か英語で書いてあった。猫には沢山の命があって、殺しても死なない。何度も生き返る」


「何なの? 於菟がどうしたの?」


「捜し出して、話をしなければいけません」


 訊く桜海に対して、國村は躊躇いがちに続ける。


「彼が作り出した物は、人の手に負える物ではなくなってしまった。其れでも『中央』は、於菟の作り出した法術『支配の円』の真下にあり、『支配の円が作られば従い、其の下で自身は過ごす』と於菟自らが述べている」


 僅かに後方を向き、本殿を眺める怜莉。


「桜海くん。外の人間を巻き込むのは、まりかさんで最後にしましょう。どうしますか。梶さん。怜莉くん」


 梶と怜莉が顔を見合わせた後に、國村をみつめる。


「先程、代表が亡くなったとの連絡を受けました。よって私達も選択肢も失いました」


 絶句したままの桜海に目を添えて、それから梶と怜莉を見て、目を閉じ、俯く國村。


「抗いますか。それとも閉鎖と共に『中央』と心中しますか」


 北の位置には桜海。東には國村。南には梶。西には怜莉が立っている。


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