第20楽章.10ルクス

 


「ただいま」


 夕方になり、怜莉が帰宅すると「おかえりなさい」とりんねが居間から飛び出してくる。


「今日は兎のルームウェア、着てないの?」


 怜莉の直ぐ傍に来るりんね。


「……午前中、洗濯して乾燥機にかけたら、ふかふかになって、一人でふかふかしてるの恥ずかしくなって」


 顔を赤くして顔を下向き加減にして答えるりんね。怜莉は笑いながら、靴も脱がず、りんねを抱き寄せる。


「仕事……疲れた」と云うと、りんねの肩に顔を埋める怜莉。赤い顔をしたりんねは腕の隙間から、心配げに怜莉を見つめる。



「当日予約なんて珍しいですね」


 花浅葱色の着物に灰白色の羽織。和服を着た律は、外引き戸を開き、宿泊客室「金木犀」の間に入ってくる。室内玄関で草履を脱ぎ、廊下を過ぎて、襖の開いた和室に声を掛ける。


「手伝う事ありますか」


 ハンガーを手に取っていた梶はチャコールグレーのスーツジャケットと、吉原柄のネクタイを洋服入れのポールに仕舞う。


「いいよ。いつも通り、適当で」


 返すと、律は腕を組んで「怜莉さんに何かあったんですか?」 と訊ねる。


「怜莉は関係なくて、単純にオレがやらかしたの」

 梶は気不味い顔をしてと答える。


 律が珍しそうな顔をし、洋服入れの扉を閉める梶の背を見るものの「別に珍しくないですね」と思い直した様に口にする。


「……りっちゃん。深夜でも良いから話せる?」
「今日は21時上がりなので、半頃からなら。其れ迄、温泉なり、寝るなり、寛いでいてください」


 律は笑顔のまま答える。


 梶は旅館の客室で、一人になると、和室の隅、窓の見える位置に座る。多種多様の樹々と夕暮れが広縁の向こうを赤く染め、やがて紫色に沈みゆく様を眺める。


 2007年10月15日。月曜日。夜。


 夜9時半を過ぎた頃、作務衣に着替えた律が「お待たせしました」と部屋に戻ってくる。


「りっちゃん。頼んでいない船盛を持って来られたんだけど……しかも、さっき」


 ワイシャツ姿のまま、座椅子で缶ビールを飲んでいる梶。


「僕の夕食も兼ねていますから良かったら食べてください。日本酒も頼みましたので」
 律はそう答えると、梶の反対側の座椅子に座る。


「相変わらず、自由な若旦那だねぇ」
「失礼ですね。梶さんを客にカウントしてないだけですよ」


 「失礼します」との声で部屋の襖が開いて、若い女性の仲居が二種類の四合瓶とガラス高杯を四脚、座卓上に置く。部屋を下がる仲居に、手を振って挨拶をする律。


「怜莉も顔立ち整っているけど……りっちゃんレベルで美形の親友が居たら、自分は雰囲気って言い張りたくもなるよね?」
「え? 何ですか? ケンカを売りに来たんですか?」
「待て。何でそうなる?」


 笑顔で物騒な事を云う律を静止する梶。それから一息吐く。


「怜莉さんは最近、幸せそうですけどね」



 律はそう云うと、金属蓋を開けて、日本酒を高杯に注ぎ、梶の前に出す。 


「で。梶さんは何をやらかしたんですか?」


「いきなり本題?」


「それなりに忙しいんですよ? 梶さん、時々、怜莉さんの相談で宿を取ってくれますけど……休憩時間に話すので精一杯ですし」


 律は高杯を持ち上げる。


「でも、今日は何も気にしないでください。僕もゆっくりしたいので」


 律は話しながら、表情を影に落とす。


 桜の季節を迎え始めて、もう春の時期。学ラン姿で長い髪を下ろした怜莉が旅館を訪ねてきた日を思い出す律。


「これからどうするのですか?」


 旅館の数奇屋門の前で、着物を着た律が怜莉に訊ねる。


「梶さんの職場で働かせてもらえる事になった」


 ふいに吹く風が微笑んでいる怜莉の表情を僅かに隠す。


「怜莉さん、高校卒業だって頃に『もう他人の心の声は聴こえなくなった』って。『これからは普通に暮らせると思う』って、わざわざ直接伝えに来たのに」


 梶は口を付けていた高杯から顔を上げる。


「……梶さんに付いて行っちゃったんですよ? 『普通になった』って云うのに結局、不安なまま。
 梶さんに懐いているのも仕方ないですよ? でも。
 『普通』だったら、一般職にしては異質な『中央』に就職なんて考えないと思います」


「まあ、そうだね?」


「だから、僕も心配していますし。梶さんを見て、愛情掛けて植物を枯らすって、こういうタイプだなって思って、参考にもしています」


「……其の通りなんだけど。りっちゃんは以前から『中央』自体は知っていた訳よね?」


「場所は離れているとはいえ、同じ県内で、僕は旅館業ですし、実家はタクシー会社ですから。
 だけど『中央』に関しては、宗派関係なく全国の僧侶が訪ねてくる場所……以上の情報は聞きませんね。参拝出来る所もないし、観光資源もないお寺でしょ?」


「文献研究の施設だからね」


 梶は日本酒を半分程飲むと、座卓隅に置いていた手帳を開き、メモの頁に大まかな配置を描いていく。


 縦に長い長方形の壁。其の真ん中に本殿を描くと、南と東の玄関の場所を足す。それから、外枠になる壁に南門(正門)。東門。北門。北寄りに鐘楼と蔵。東門側に縦長い講堂を描いていく。


「講堂と書いたけども、此処の名前が『東睡』で、小中学生の塾も兼ねている。で、半分が旧い学校に似た造り。本殿は」


 自分に向けられる手帳を見遣る律。 


「本堂じゃなくて本殿なんですよね? 礼拝スペースの様な物は?」
「無い。本尊もないし、一見、集会所。二階の一部が代表の住居」


 梶の返事を聞きながら、律は高杯を傾ける。


「西には門は無いんですか?」


 律に問われて一瞬黙る梶。


「……封鎖されてる。門の周りも山吹の木で埋め尽くされて、すぐ脇には枯れた人工池も」


 律は、梶が西に、門と池を描いて直ぐに✕印をつけるペン先を丁寧に追う。


「西側がおかしいですね」


 梶と目が合った律は、更に梶に訊ねる。


「西門を閉じて、人の出入りと管理が途絶え、池が枯れたのだと思います。山吹は放置に強いので、問題はないでしょう。その上で、池と山吹は日本庭園の定番。元は見てもらう場所だった可能性が高い。なら、どうして、其の門を封鎖したのですか?」


「其れがさ。『中央』にずっと居るしているのって、代表くらいでさ? 登録期間しか出入り出来ないから、事情を訊こうにも誰も詳しくない訳。でも、お陰で、オレが考えるのも止める理由にもなるし」


 律は手帳を眺めながら、小皿に刺身醤油を落とし、船盛の刺身に目をやる。
 「梶さんも遠慮なく」と声を掛けて、梶を見ずに、呟く。


「怜莉さん。其処に居て大丈夫なんですか?」


「問題にしたいのは怜莉じゃない」


 梶は云いながら、律と自身の高杯に日本酒を継ぎ足す。


 首を傾げる律。「今日。梶さんが来たのは」と続ける。


「りんねさんの話だと思っていました」
「何かあった訳?」

「簡単な話です」


 訊ねる梶に、答える律。

「梶さんは先日の中華料理屋で云っていましたよね? 

 りんねさんは『秘匿』の影響力の持ち主。強力な『秘匿』は見た目さえ変えられる。つまり、『お伽話の元ネタ』と思っていいって。其れって」


 摺り下ろしの生姜を鯖の刺身の上に載せて、醤油を漬ける律。


「最終的に正体……バレていますよね?


 相手が立ち去って、あの人は鶴か狐か、そう思わないとやっていけないくらいに傷付いて、誰かしらに話すから、物語、御伽話として残る」


 梶も小皿に醤油を落としながら「確かにそういやそうだな」と返す。


「え? 分かっていて云ったのでは?」


 笑顔で訊ねる律。


「りんねさんの件なら放っておいても良いと思っていたので」と律が続ける。


「怜莉さん、すっかり怖がりになって、成人式も同窓会も行かないし、俗世の人間と関わる事を避ける様になって。だから、一度、死にたくなる程、ちゃんと傷付けば良いんですよ」


「……りっちゃん。言い方」


「別に云い直すない気ですよ」


 律は目の前の酒に口を付ける。


「そのうち、りんねさんは怜莉さんの元から居なくなってしまうでしょうけれど」


 話を続ける律。


「例えば、貧乏な家に産まれた男が貧乏な家で死ぬ事が決まっていても、間は自由。


 好きにしたら良いんですよ。


 大統領になっても、世界一の富豪になっても、独裁者として悪事の限りを尽しても。


 だけど、最後は貧乏な家で死んでしまう。


 こんなに頑張っても、幸せになっても、やっぱり駄目だったって、やりきって満足して、笑顔でエンディングを迎えれば良いじゃないですか」


 梶は、律の笑む真顔を暫く眺めてから「りっちゃんに頼みたい事がある」と伝える。


「何ですか?」



「会ってほしいんだ」


 暫くの間。梶の話を黙って聞き続ける律は、やがて「回りくどいですね」と笑う。


「代表の御子息の、桜海さんですか?」


 溜息を吐く梶と、考え込む律。二人は、タイミングをずらして、それぞれ高杯グラスを傾ける。



 22時。先にお風呂から上がったりんねはドット状に白い星が散りばめられている紺のパジャマに着替えている。

 交代で、怜莉が浴室に行っている間。りんねはウーパールーパーのぬいぐるみを抱えて、もう寝室で横になっている。そして、部屋の隅で光っているトートバッグの中のケータイに気が付く。


 慌てて、身体を起こして、ケータイを取り出しているうちに電話が切れる。


 並んだ番号を隠して「セリさん」と呟くりんね。


 「お店が閉店した後さ。一度、看護師に戻る事にしたの。落ち着いたら、また連絡するね」と云うセリの言葉を思い出す。


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