第22話.10ルクス
「ただいま」
夕方。怜莉が帰宅すると「おかえりなさい」とりんねが居間に飛び出してくる。
「兎のルームウェア、着てないの?」
りんねは怜莉の側に来ると「……午前中、洗濯して乾燥機にかけたら、ふかふかになって、一人でふかふかしてるの恥ずかしくなって」と下向き加減に答える。
怜莉は靴も脱がず、笑いながら、りんねを抱き寄せる。
「仕事……疲れた」と云うと、りんねの肩に顔を埋める怜莉。少し赤い顔をしたりんねが腕の隙間から心配そうにする。
「当日予約なんて珍しいですね」
花浅葱色の着物に灰白色の羽織。和服を着た律は客室の玄関を過ぎ、襖の開いた部屋で、ハンガーを手に取る梶に訊ねる。
「手伝う事ありますか」
梶はスーツのジャケットと吉原柄のネクタイを洋服入れのポールに掛ける。
「いいよ。いつも通り、適当で」と返すと、律は腕を組んで「怜莉さん、何かありました?」 と訊ねる。
「怜莉は関係なくて、単純にオレがやらかしたの」
梶は気不味い顔をしてと答える。
律が珍しそうな顔をし、洋服入れの扉を閉める梶の背を見るものの「あ。別に珍しくないですね」と思い直した様に口にする。
「……りっちゃん。深夜でも良いから話せる?」
「今日は21時上がりなので、半頃なら。其れ迄、温泉なり、寝るなり、寛いでいてください」
笑顔で返す律。
梶は旅館の客室で、一人になると、和室の隅に座る。多種多様の樹々と夕暮れが広縁の向こうを赤く染め、やがて紫色に沈みゆく様を眺める。
夜9時半を過ぎた頃、作務衣を着た律が「お待たせしました」と部屋に戻ってくる。
「頼んでいない船盛を持って来られたんだけど……しかも、さっき」
ワイシャツ姿のまま、座椅子で缶ビールを飲んでいる梶。
「僕の夕食も兼ねていますから良かったら食べてください。日本酒も頼みましたので」
反対側の座椅子に座る律。
「相変わらず、自由な若旦那だねぇ」
「失礼ですね。梶さんを客にカウントしてないだけですよ」
「……随分な云われようだな」
「梶さんは浴衣に着替えないんですか?」
「失礼します」との声で部屋の襖が開いて、若い仲居が二種類の四合瓶とガラス高杯を四脚、座卓上に置く。部屋を下がる仲居に手を振る律。
「怜莉も顔立ち整っているけど、りっちゃんレベルの美形の親友が居たら、自分は雰囲気って言い張りたくもなるよねぇ」
「え? 何ですか? ケンカを売りに来たんですか?」
「待て。何でそうなる?」
笑顔で物騒な事を云う律を静止する梶。一息吐く律。
「怜莉さんは最近、幸せそうですけどね」
云いながら、金属蓋を開けて、日本酒を高杯に注ぎ、梶の前に出す。
「で。梶さんは何をやらかしたんですか?」
「いきなり本題?」
「それなりに忙しいんですよ? 梶さん、時々、怜莉さんの相談で宿を取ってくれますけど、休憩時間に話せる程度ですし」
律は高杯を持ち上げる。
「でも、今日は気にしないでください。本当はゆっくりしたいので」
表情を影に落としながら話す。
桜の季節を迎え始めて、もう春の時期。学ラン姿で長い髪を下ろした怜莉が旅館を訪ねてきた日を思い出す律。
「これからどうするのですか?」
旅館の数奇屋門の前で、着物を着た律が怜莉に訊ねる。
「梶さんの職場で働かせてもらえる事になって」
ふいに吹く風が微笑んでいる怜莉の表情を僅かに隠す。
「怜莉さん、高校卒業だって頃に『もう他人の心の声は聴こえなくなった』って。『これからは普通に暮らせると思う』って、わざわざ直接伝えに来たのに」
梶が口をつけていた高杯から顔を上げる。
「……梶さんに付いて行っちゃったんですよ? 『普通になった』って云うのに結局、不安なまま。
懐いているのも仕方ないですよ? でも。
『普通』だったら一般職とは程遠い『中央』に就職なんて考えないと思います」
「……まあ、そうだね」
「だから、心配していますが、梶さんを見ていると愛情掛けて植物を枯らすって、こういうタイプだなって思って、参考にしています」
「……其の通りなんだけど。りっちゃんは以前から『中央』自体は知っていた訳よね?」
「離れているとはいえ、同じ県内で旅館業に就いていますし、実家はタクシー会社ですから。
だけど『中央』に関しては、宗派関係なく全国の僧侶が訪ねてくる場所……以上の情報は聞きませんね。特に大きなお寺でもないし、参拝出来る所もないでしょ?」
「寺に似せた研究施設だからね」
梶は日本酒を半分程飲むと、座卓隅に置いていた手帳を開き、メモの頁に大まかな配置を描いていく。
縦に長い長方形の壁。南門。東門。北門。そして真ん中に本殿。北寄りの東側に蔵と縦長い講堂。鐘楼。同じく北寄りの西側に僧房と食堂(じきどう)。
本殿の中の、南から東に線を引いて、廊下と記入し、南玄関と東玄関。そして廊下に事務室と応接間を描き足す。
「講堂と書いたけども、此処が『東睡』と呼ばれて、小中学生の塾も兼ねている。
僧房は正直、管轄外。昔程、人が居なくて行き届かないから、近隣の宿所を使ってもらっている。で、本殿なのだけども」
自分に向けられる手帳を見遣る律。
「中は代表が改装して、和室多め二階建ての大きな公民館と思ってもらっていい」
「そもそも本堂じゃなくて本殿なんですよね? 礼拝スペースの様な物は?」
「無い。本尊もないし、本当にただの集会所」
考えながら、律は高杯を傾ける。
「それから東側の廊下に螺旋階段があって、二階半分は吹き抜け。もう半分は一階と同じ様な研修室や書庫が数室。で、一部が代表の住居」
「西には門は無いんですか?」
「封鎖されていて、山吹の木で埋め尽くされている。あと枯れた池も」
「西側がおかしいですね。外から見ると屋根が六角形程度の情報しか見えていませんでした」
「中に居ても、さっぱり分からない。だから考えるのも辞めていたし、其れで構わなかった。ただ、最近になって、思った以上に『中央』の存在は不味い気がして」
律は手帳を眺めながら、小皿に刺身醤油を落とし、船盛の刺身に目をやる。
「梶さんも遠慮なく」と声を掛ける。
「怜莉さん。其処に居て大丈夫なんですか?」
「問題にしたいのは怜莉じゃない」
律と自身の高杯に日本酒を継ぎ足す梶。
首を傾げた後、「今日。梶さんが来たのは」と律は続ける。
「りんねさんの話だと思っていました」
「何かあった訳?」
「簡単な話です」
「梶さんは先日の中華料理屋で、強力な『秘匿』は見た目さえ変える。
『お伽話』の元ネタと思っていいと話していました。流石に鶴や狐は誇張が過ぎるけれども、って。それって」
摺り下ろしの生姜を鯖の刺身の上に載せて、醤油を漬ける律。
「最終的に正体……バレていますよね?
大概、相手は立ち去ってしまって、あの人は鶴か狐か、そう思わないとやっていけないくらいに傷付いて誰かしらに話すから物語として残る」
梶も小皿に醤油を落としながら「確かにそういやそうだな」と返す。
「え? 分かっていて云ったのでは?」
笑顔で訊ねる律。
「りんねさんの件なら放っておいても良いと思っていたので」と律が続ける。
「怜莉さん、すっかり怖がりになって、成人式も同窓会も行かないし、俗世の人間と関わる事を避けてしまって。だから、一度、死にたくなる程、ちゃんと傷付けば良いんですよ」
「……りっちゃん。言い方」
「別に云い直すない気ですよ」
律は目の前の酒に口を付ける。
「そのうち、りんねさんは居なくなってしまうでしょうけれど」
「例えば、貧乏な家に産まれた男が貧乏な家で死ぬ事が決まっていても、間は自由。
好きにしたら良いんですよ。
大統領になっても、世界一の富豪になっても、独裁者として悪事の限りを尽しても。
だけど、最後は貧乏な家で死んでしまう。
こんなに頑張っても、幸せになっても、やっぱり駄目だったって、やりきって満足して、笑顔でエンディングを迎えれば良いじゃないですか」
梶は、律の笑む真顔を暫く眺めてから「りっちゃんに頼みたい事がある」と伝える。
「何ですか?」
「会ってほしいんだ。怜莉と同い歳の」
ドット状に白い星が散りばめられている紺のパジャマに着替えて、ウーパールーパーのぬいぐるみを抱えるりんね。寝室の隅。光っているトートバッグの中のケータイに気が付く。
慌てて、並んだ番号を確認する。
「……セリさん?」と呟く間に電話が切れる。
何度推してもいいボタン
わんわん数: 710