第38話.嘘つきのパラドックス

 

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 駅前のバス停のべンチ。白いスタンドカラーのブラウスと黒いジャンバースカート。黒いキャップを深く被った鏡花が灰色の横髪を俯くままに風に浮かせて、座っている。


 やがて、隣に通学バッグとクラフト紙の袋が置かれ、学ラン姿の八足もべンチに座る。


「あんた、一時間半も待ってたの? 塾の説明はしたろ? 先に行っとけって」


 硬い制服の袖を上げて、チープカシオの針を確認する八足。気まずそうに「……メールしろよ。何で黙って待ってんだよ」と独り言を呟く。


「……八足くんが此処の駅で降りたのって、自分の親から頼まれ事があったからでしょ? 私の親も頼み事をして、私が受け取らなくて」


「別に。昼に閉める様な、いい加減な店だし。どのタイミングで閉めたかも分かんねえし」


 紙袋の中から透明シートとリボンに包まれた赤いストールを取り出す八足。


 長方形に折り畳まれて、ふわりとした厚みの布には白い蟹と菊の刺繍がしてある。鏡花は無意識に凝視してしまい、八足は鏡花の見やすい場所に無造作に置く。


「あんたさ」と前を向いたまま話し掛ける。
「……弟そっくり」 


 きょとんとして、八足の顔を見る鏡花。


「弟さん? いくつ?」
「今年、小二」
「小学二年生!? 私って、そんなに子供っぽいですか?」


「敬語、遣ってんのか遣ってないのか、よくわかんないし。連絡しろって云っても黙って待ってるし。泣いて面倒かける癖に切り替え早くて訳がわかんねぇし」


 緩く口を結び、視線を逸らす鏡花。「私、泣いてない」と返す。八足は通学バッグのポケットを漁り、折り畳みのケータイを開く。


 待ち受け画面を鏡花に見せる。草を食べている白い羊と、屈んだ姿勢で頭を撫でる青い服の男の子。


「可愛い! 弟さんも羊も凄く可愛い!」
「重陽って云うんだ。うち、親が先に家を出るから、オレが毎朝、学校に行く準備をさせてて」


「八足くんが学校に行きそびれている理由?」


「……遅刻の度、いちいち入室証明を貰うの面倒になっただけだよ」


 ケータイを閉じる八足の手から電子音楽が流れる。外側のディスプレイの [ 着信 夏目先生 ] の表示。電話に出る八足。


「あ。はい。一緒に居ます。今、用事が終わって……」


 八足が顔を向けると、鏡花は遠くを見て、驚いた様子で硬直し、一瞬、動かなくなる。


 鏡花の見ている方向。百メートル程先の横断歩道の手前。


「……橘さ……」 


「……ごめんなさい!」


 大声と共に立ち上がり、被っていたキャップを慌ててトートバッグに仕舞う鏡花。


「ごめんなさい! 塾には行けない!」


 かたんっと音を立てて、電話は繋がったままのケータイが地面に落ちる。


 鏡花の右手首を掴む八足の左掌。掛け直したトートバッグの紐が、弾みで肩を滑る。



 誰も居ない塾の教室。椅子に座って話を終える八足と机を挟み、訊き終える國村。ノックをして、後ろの戸を引く千景。


「……夏目先生」


 八足が横に立つ千景を見上げて、声を掛ける。


「百音に纏めてもらったのですが」
「事務の松田さん……夏目先生の奥さんです。職場では旧姓で呼んでいます」


 数枚の紙を千景から受け取る國村。


「八足くん、よく頼まれ事するって最初に来た時に行ってたじゃん? で、引き受けて良い奴と駄目な奴が分かる様になると良いよねって」


 手元の紙に目を通しながら難しい顔をする國村。対照的に、八足の机に両腕を載せてしゃがみ軽く振る舞う千景。


「特徴があるんだよね」
「夏目先生」
「云っても問題ないと思います」


 秒針の音が響く教室で千景の顔を不安げにみつめる八足。


「八足くんに『頼み事』をする人は『悪い状況に閉じ込められている人』でさ」



「あんた」


 鏡花の手首を握る手に力が入る八足。


「塾の事を教えてほしいって頼んだよな? 見学したいって……」 


 ベンチ側に引っ張られて、振り返り、八足を見下ろす鏡花はもう一度「……ごめんなさい」と泣きそうな声を出す。


 怯える様に微かに震えている鏡花。


 ハッとして、手を離す八足は「……怒ってる訳じゃねぇよ」と掠れて、聞き取りづらい声を出す。


「ごめんなさ……居ないの……臥待鏡花なんて子供は何処にも居な……」 


 もう少しだけ、八足の方に身体を向けて、ぼとぼとと涙を落としていく鏡花。


 ずれ落ちたトートバッグの紐を反対側の手で戻すと、目線の先、一気にバス停から駆けていく。駅前のアスファルトにミュールの底が音を立てる。


「怜莉さん!」


 長い灰色の髪。


 鏡花の背中に浮かぶ『多くの人には見えない円』と、向かった相手の顔を見る八足。足元に落としてしまった自分のケータイを拾う。


「怜莉さん!」


 走っている途中にはもう鏡花は鏡花ではなくて、ある日に名乗った通りの『りんね』『18歳』の姿で、信号を渡り終える怜莉の胸に飛び込む。


「……りんね?」


 怜莉のスーツに皺を寄せて、一気に泣きじゃくるりんねの頭を無意識に片手で抱き寄せる怜莉。


「……りんね。何かあった?」


 背負っているビジネス用のリュックには怜莉の高い位置で一つに結んだ黒髪の束が跳ねる。


 鏡花はりんねの顔のまま、いつまでも泣き続けている。


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