第33話.スタージョンの黙示
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中央の西側の廊下の奥。
「まりかちゃん」
濃いペールブルーのブラウスと黒いスカートを身に纏う松田は、開かずの間のドアに背を預けて床に座り込む。
「代表さ。自分がもうじき死ぬと分かったら、最後の駒を動かすって云ったの。半分は見つからないままだって」
小さな声で話を続ける松田。
「梅雨入り前だったかな。私、代表に平手打ちしてさ。勝手過ぎるでしょ?」
床に突いていた手をひらっと下がる横髪にあて、そのままルビーのピアスが光る耳の縁に掛ける。
「怜莉くんって男の子が居るの。桜海くんと同じ歳。真面目で可愛いんだ。彼を巻き込むのは違うと思う。いざという時は私が動くって云うんだけど、修治は断るの。『貴方には娘がいる』って」
額を宙に向けて、ドアにコツリと頭をくっつける松田。「私の夫ね。千景って云うの」
「単純だし、自信家だし、頼りないし。1歳下。でも正義感は強くって、一人になっても娘を守れる人。だからね。まりかちゃん。しんどくなったら教えてね? 私、代わるからね?」
「りっちゃん、やっぱり格好良いよね」
落花生豆腐のお吸い物を啜って、椀を置く桜海。
「でも体調悪そうだった」
桜海の言葉にハッとして怜莉も椀は置く。
「桜海が云うなら、そうかもしれない」
「えー何、その信頼感? まあ、でもバランス崩している感じに敏感? だから最近、梶さんと一緒に居るの楽かも。梶さん、好い加減取ろうとするし。んー上手く云えないや」
秋色に染め、細工を施されたうずら玉子を一口に食べ終える桜海。
12畳の広さの品の良い造りの部屋の窓は庭に向けて広く、色付き始める樹々を全面に映す。
「行楽弁当って云われたのに、個室で松花堂弁当?」
「折箱に詰め替えるだけじゃないの?」
桜海が百合根饅頭を黙々と食べるのを見て、怜莉は考えながら言葉にしていく。
「この前の続きだけど……彼女に三年後って約束を貰って、梶さんが云う『中央の問題解決の猶予』も三年。だったら三年間は桜海と國村先生の為に出来る事をしたくて」
「どういう結論!?」
「梶さんも含めてさ」
話を聴きながらも松茸御飯を満足気に食べてる桜海と目を合わせる怜莉。
「中央に所属するメンバー、いつ死んでも良いって思っている気がする。でも、オレは最近、事情が変わって……」
「そっか」
富有柿の白和えを口にすると「あ。此れ、一番好きかも!」と云う桜海。そして「あれからさ。純正さんって中央に長く居た仲良しさんに訊いたの」と返す。
「『干支の書』ってね。途中から於菟の日常記録? 雑記? アイデアノート? 空想日記? になって。実行可能なものは『亥の巻』に詳細を書いたみたい。でも於菟自身は次第、倫理観を踏み外して、例えば体内の血液を触れずに沸騰させる方法が見つかったとか?」
ぴたりと怜莉の箸が止まる。
「ごめん。食事中なのに」
「大丈夫。いや、何で、そんな事を考え……」
「んーわかんない。ただね。純正さんが居た研究会ではね。『干支の書』って読み込む人達程、黙り込むし、戌の巻迄読めた人は多くないし、八割方、早めに死んでいる」
顔を上げる怜莉を一瞬だけ見て「大丈夫」と伝える桜海。
「國村さんも酉の巻の半分は読んでいるけど、生きてるし、怜莉も大丈夫」
少し箸を動かして、蒸し鶏の柚子味噌の前で再び止めて、考えてしまう怜莉。
「オレはね。最初の『子の巻』で躓いた。勉強しなくて良いって代表に云われたの。良かったと思う。
『ただいま』を云える相手が居ない人間は於菟の思考に振り回されてる」
「ね? 桜海が基礎で躓くって信じられないんだけど……桜海が行っていた中学の受験問題、解いた事あるけど難しかったし」
「……良いんじゃないかな。梶さんが『亥の巻』を読めて、怜莉と國村さんが『戌の巻』迄が読めて、オレはする事ないし」
やがて桜海も箸を止める。
「母親が急死して、祖父母の家に引き取られる事になって、中央を出ていく時に一度だけ、ぎゅって抱き締められて」
「『ごめんなさい』って云われたの。
『今は貴方に何もしてあげられない』って。春休みと夏休みに特別に勉強に来てた高校生。何となく覚えてる。國村さんだった」
傍らに置かれた重い黒いランドセルと子供には大き過ぎるキャリーバッグ。母親を亡くして間も無い桜海は中央の本殿玄関で祖母の迎えを待っている。急に亡き母と、自分が使っていた部屋に戻りたくなり、二階への階段を登ろうする。
降りてきた誰かに正面から抱き止められる。
「中央で暮らしていた記憶も、母親の記憶も殆ど無いのに、國村さんの事は鮮明に覚えていた。中央に戻って来た時に國村さんが居て嬉しかった。なのに」
「『初めまして』って云われた」
怜莉は初めて、泣くのを堪える桜海を見ている。
東睡の建物に戻った松田は資料室Bと書かれた和室の戸をノックしようとした手を止める。
「桜海が作った?」
梶の声を耳にして、松田は腕を組み、戸にそっと額を当てる。
部屋の畳一面に開いておかれた様々な資料集。閉じられた物の表紙には年度と研究会の名前が書かれて幾つも積み重ねられている。
入り口付近に残した空間に足を崩して座る梶と國村。國村は全ての頁が白紙の『亥の巻』を閉じる。
「子供の遊びですよ」と答える。
「何も書かれていない最終巻。大人の管理不足」
手渡される書物を受け取る作務衣姿の梶。
「読めるから読んだ。おもしろそうだから作った。作れてしまった。
彼にとっては工作や折り紙の本と違いはなかったのです」
口を閉ざしたまま、亥の巻を開く梶。
「桜海は『宇宙』を作った事も覚えていない。ましてや修治が異母兄弟なのも知らない。教えるつもりは今後もない訳?」
反応はしない國村。
「梶さん、何故、印章が12種類なのか。朔望月を12に分けて出る余りの数は1=42です」
「は?」
「全ての印章が少しずつ欠けて、全ての印章から余りのパーツが出る。於菟はそれを組み合わせて『13番目の印章』を作った」
國村に視線をやらず、白紙を凝視する梶。
「産まれる直前の子に背負わせると、5歳を待たずに死んでしまった。人が持つには重過ぎる『人工の印章』。
通称『アダムの印章』」
「アダムとイブのアダムじゃなくて、フランケンシュタインのアダムか……」
答える梶。
「『13番目の印章』は子と共に消滅。ですが、意図せず『13番目の印章』を持つ子が産まれてしまった。此の世界に完全に組み込まれてしまったのです。
持ち主が死ぬと、新たな持ち主が産まれる。それを現在持っているのが桜海くん」
言葉を過去にしないうちに、再び、深刻に黙り込む梶に國村は静かに伝える。
「開かずの間に閉じ込めてある『宇宙を模した物』を作ったのは桜海くん」
「梶さんが手にしている亥の巻に書かれたとされる『人類を終末に導くには十二分の』於菟が考え出した『人類の禍』を、彼はもれなく作れてしまいかねない」
そして、松田が勢いよく戸を開ける。
「國村先生。省吾さん。密談が漏れてますよ?」
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