第10話.六次の隔たり
「それで用件はどちらかな?」
真屋に声を掛けられて、怜莉は記憶から現実に戻される。
「スーツのピンバッジ、『中央』の職員って事で良いんだよね」
怜莉のスーツのフラワーホールには、虎の顔が彫られた丸い銀のピンバッジが留めてある。虎の上には小さく肆という数字。
「中央、を知ってらっしゃるんですか?」
「昨年末に独立してね。以前の勤め先で少しね」
「……あの、先程の女性二人に『彼氏』って云われたのですが」
怜莉は停めてあった車二台分が開いた駐車スペースを振り返る。
「ああ。此処で手伝ってもらってる女の子で……僕は迎えに来たのかなって思ったんだけど」
玄関から少し出て、様子を窺うサンダルと紺色のスクラブの真屋。
「あの髪の毛が灰色で、肩甲骨の下ぐらいの長さで」
「そうそう」
「花ちゃんって呼ばれてるんですか?」
真屋が怜莉を見ると「中で話す?」と促す。
「一時間程時間が空いたから」
「……お邪魔します」
怜莉は中に入り、木製の和風モダン風のガラス引き戸を内側から閉める。応接室の上座にしかないソファに案内されて座っていると、真屋が珈琲を運んでくる。
「ありがとうございます」「見ての通り、此処で治療院をしている真屋と云います」
「橘 怜莉です」
真屋の名刺を両手で受け取ると怜莉は内ポケットから名刺ケースを出し、上に載せ、テーブルに置く。
「すみません。ケースは携帯しているのですが、名刺自体を持てなくて」
「らしいね。それで今日は花ちゃんの事を訊きに来たのかな」
真屋が怜莉と反対側で正座をして座る。
「あ。畏まった話じゃないし、足、崩してください」
怜莉はそういうと暫く黙り込んだ後に「彼女、体調崩したんですか?」と訊ねる。
「最近、調子は良くなさそうだったけど、今日は来た時からずっとね。
確認しておきたいんだけど、中央と関係があって彼女の話を訊きに来たの? それとも?」
「中央は関係ありません。個人的に訊きたい事があって」
「それだったら何も話せないね」
「え」
真屋は片足を立て、両指を組むと足首を抑える。
「彼女は僕の手伝いをする為に情報を渡している。目的外の使用はするべきではないと思うけど?」
「……そうですね」
下を向く怜莉に「例えば」と真屋が話し掛ける。
「何を訊こうと思っていたの?」
「……何を……上手く云えないのですが、 何かあったのだろうと思っても『何でもない』って返されたら、其れで『会話』は終わりになってしまうんです。
でも其れが『普通』の事なら仕方がないって。
だけど今の状態の自分にも出来る事がある筈って、いつも考えてしまって。メサイアコンプレックスを起こしている自覚はあるんです」
「メサイアコンプレックスって、自分の不幸を捏ねて生まれてくる心理でしょう。自分は価値がある人間だから他人を助けてあげようって思い込む」
「……価値はもうないと思っていて、もしかしたら、単純に昔の自分に嫉妬しているのかもしれません……昔の自分には出来る事も多かったのにって。
だけど、りんねには昔の自分でも何も出来ないのだろうって」
怜莉は玄関ドアの前で微笑む、りんねの背後の[ SECRET ]の印章を思い出す。それから直前に現れた[ DELETE ][ NO DATA ]のオレンジの文字。
「本当に仕事と関係なく訪ねてきたんだね」と真屋に云われて、怜莉は自分が『りんね』と云ってしまった事に気が付く。
「昔、働いていた治療院。引き継いだ相手が『中央』の関連施設と名乗って事業を拡大しようとしたんだ。そしたら中央の職員が訪ねてきて、一年半前だったかな」
顔を上げる怜莉。
「元は高齢の先生と、師事した僕と二人で二十年程、切り盛りしていた小さな治療院だった。先生と呼ばれるのを嫌って、引き出しに虎の顔の上に三本の線が描かれた水墨画が無造作に入れてあってた。でも大事そうに、時々、見せてくれた」
「……線が三本だったら登録4回ですね」
俯いて顔を上げないまま、答える怜莉。
「らしいね。1度目の登録は一年間必死に勉強させられる。後の登録は適当で良いって。真面目に四年間勉強して分かったのは何故学ぼうとする度に虎に線を引かれるのか、其の程度だって」
「治療院を継いだのは他業種の経営をされていた御子息でしたよね。報告書しか見てないのですが、古くから居た先生は独立されたと訊いています。確か、真屋……現保(ありやす)先生」
手前の名刺に一瞬、視線をやる怜莉。
「直ぐに読めない名前だよね」
真屋は足首の前で組んでいた両手を支えに背を真っ直ぐに伸ばす。
「二人目が産まれて、住む家も考えていたタイミングでの騒動だったから、自宅兼治療院を建てたんだよ。県外に出たから、お客さんが付いてきてくれるかもわからなかったのに、有難い事に忙しくなって。
そしたら『表に貼ってある求人を見た』って花ちゃんに声を掛けられて」
「……不注意でした。せめてバッジは外してくるべきでした」
「昔、先生に云われていたからね。僧侶でもない僕に『中央』という寺を敢えて教えるのは、縁が続くからだって。
橘さんが来たのも、出していない求人を見て花ちゃんが訪ねてきたのも」
「求人自体をしていなかったのですか?」
「驚く事じゃないよ。僕も以前の治療院で同じ事をしたから」
怜莉は真屋の背後に印章があると確認する。
「珈琲、花ちゃんが来た時に淹れていった分だから、折角なら飲んでいったらどうかな。彼女が一番美味しいって云っているデカフェ」
「……頂きます」
「カメリアコンプレックスだとしても立ち入り過ぎだよね?」
カップを持つ怜莉の手が止まる。
「今日、此処に来たって彼女に伝えるべきだと思うよ」
それからの帰り支度をして、真屋が応接室を出た後、怜莉はソファの足元に転がっているネームプレートを見つける。
[ 水野 花 ]
怜莉は名前の面を伏せた格好でソファの座面の隅に置く。
コンクリートブロックで四角い囲いを作ったスペースに落ち葉と枯れ木を積んだ焚火。風上に作務衣姿の梶が座り込む。
「何してんの?」
「見ての通りです」
「説明が雑だね」
竹箒を持った國村が梶を見下ろす。
「あまり近付くと燃えますよ?」
「桜海に薩摩芋を買ってきてもらおう」
「桜海くんに? 怜莉くんじゃなくて?」
「桜海から『怜莉、仕事サボって帰った』って」
「桜海くんじゃなくて? 怜莉くんが?」
「そう。怜莉」
「まあ……桜海くんは間の説明がないだけで結論としては合っていますし」
ワイシャツにカーキ色のコットンパーカーを羽織った國村は梶と一緒に黙ってしまう。
「怜莉の話なんだけど」
パチパチと音がして、枯れ枝の中で薄く揺れる火を見る梶。
「他人の心の声が聞こえない、って状態にするのは思ったよりは難しくなかったんだよ。
『曝露』の印章の使い方を他人の印章を見る方向に使わせたからさ」
「要は視えてるのではなくて、印章を持ってるか持っていないか、持っているなら何の印章を持っているか、
空間に『曝露』させているだけですからね」
「問題はその後。相手の表情や動作から何かを察する事が殆ど出来なかった。
此れまでなら必要なかったから仕方がない、じゃなくて、あれじゃ危なかった訳」
「私から云わせると『印章』を持っている人間は、関係者も一般人ももれなく鈍感なんですけどね」
「修治から見たら、オレも鈍感な訳?」
「相当」
竹箒を地面に置いて、國村は梶の隣に座り込み、焚火の外に出ている枯れ枝で落ち葉を混ぜ、中に空気を入れる。
一瞬膨らんだ火を避けながら「だったら修治も鈍感じゃん」と梶が返す。
國村は立ち上がりながら「だから此処で温和しく働いているでしょう」と答える。
「そもそも『印章』の持ち主当人に『印章』を告知するべきかは難しい課題で、そもそも相手に告知する程、はっきりと分かる人間が少ない。
当て推量なのに、警察が告知してしまった形になって……怜莉は傷付いているんだよ」
「怜莉は気付かない方が良かったって、梶さんよく云ってましたね」
「『曝露』を人に向けなくとも、違和感は慣れで分かるんだよ。
事情が事情なだけに警察から協力を申し出てくれて『こういう人を此の辺りで捜している』って情報をくれたら、犯人逮捕の協力で感謝もされる。
でも考えたら、怜莉は幼少期から悪い事をする相手の事情も聴こえていたからさ。……根からの正義の味方にはなれないんだよ」
「私の様に『中央』に籠るしかないでしょうね」
「其の『中央』に出入りしている人間に嫌われているのもさ」
「嫌われているのは皆一緒ですよ。梶さんは自分を嫌う人達に無頓着ですし、
桜海くんは追い出してしまうし、
私は気に掛けてくれた人とだけ付き合っています」
梶は黒い煙を燻ぶらせる焚火を見て「確かにオレも鈍感だわ」と云う。
「落ち葉掃除手伝う? このままじゃ火が消えるよ」
「梶さん! 國村さん!」
裏庭に入ってきた桜海が大きな声で呼びかける。
「仕事してきた」
「お疲れ様です」「お疲れ様」
「今日は『家に行くのと、帰って父に泣きつくの、どちらが良いか訊いて』って云ったら、飛んできてサインしてくれたよ」
「脅迫なんじゃ」
「どうでしよう……桜海くんが代表の息子って知らない人もいますし」
「箱に入ったお菓子も貰ったよ。二人とも休憩して、お茶にしよう? あと怜莉にもおやつ買ってもらった」
「怜莉からおやつって何だそれ」
國村はくすくすと笑いながら地面に寝かせた竹箒を拾う。
「火の始末を終えますから、先に事務所に行っておいてください」
國村は本殿の『中央』の東奥にある、自分が任されている『東睡』と呼ばれる二階建ての建物に目をやる。
ワンルームの部屋の中。フローリングに鏡花は横たわる。
トートバッグから振動音が聴こえて慌てて身体を起こし、取り出したケータイの画面。
[ 公衆電話 ]の表示が光る。
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