第11話.ハーロウの絶望の淵

 


 ケータイの通話応答キーを押して、黙ったままの鏡花。



「りんね?」



 一瞬の間。それから「怜莉さん?」と問う鏡花の声。



 公衆電話ボックスの中で安堵の溜息を吐く怜莉。電話機の上には開いたままのケータイと、積まれた百円玉が載っている。



「今、話せる? 顔が見たいんだ」



 一筋だけ入っていた夕陽が退いてフローリングは部屋ごと暗くなる。玄関ドアを向いて、キッチンの前に座り込む姿勢の鏡花。



「……今日はいい」


「具合……悪い?」
「……うん」
「動けない?」
「……うん」



「迎えに行ってもいい?」



 僅かに動かしていた口を少し開けたまま、止まってしまう鏡花。一つ結びにしているヘアゴムを引っ張って、髪を下ろすと、指に絡める。


「……迎えに、って」


「りんね、車も自転車も使わないって云っていたよね? 

市内にあるドラックストアカメヤは二軒。一軒は最近、バイパスに出来た二階建ての大きい店。

それから今朝、一旦、部屋に帰らなきゃいけないって走って出て行ったよね? 

それに待ち合わせした公園。もう一軒のカメヤは昔からある小さな店で、――駅の」


「怜莉さん!」


 鏡花はヘアゴムを握った手を床に付いて、大きな声を出す。


「私は公園に居るから! 私を捜すなら公園を捜して!」


 雑におろした髪が俯いた顔を隠す程に前に流れる。
 動揺して強く握り締めた勢いで通話終了キーを押してしまった事に気が付く。 


「……なんで?」 


 鏡花は思い当たり、立ち上がり、電灯のスイッチを押して、部屋の中央にある赤いテーブルにあるチョコレイトの大袋を持ち上げる。


 赤い大袋の目立つ場所に描かれてある犬の顔の真下に[ カメリアベストライフセレクト ]の文字。鏡花が後ろのキッチンを向くと、食器洗い用の洗剤にも同じ犬の顔のイラスト。


「……カメヤさんのプライベートブランド。どうして犬なのに亀なの……」



 そして鏡花が幼稚園だった頃。


 祖父と待ち合わせをした駅。今いる此の部屋から10分弱の場所にある、現在の最寄り駅。


 鏡花の通った小学校、通っている中学校、鏡花が両親と暮らしていた一軒家の側の駅からは一つ先の駅。もう一つ進めば主要駅。そちらにはデパートが一軒と四階建ての駅ビル。


 当時の生活圏と主要駅の間の現在の最寄り駅。


 待ち合わせをした駅から、二車線の道路を渡ると、表通りに小さい写真館。


 和服姿の祖父は「鏡花が小学校に入学する時は此処で写真を撮ってもらおう」と話す。

 祖父の手を握ったまま、見上げた隣のドラックストアカメヤは、看板を新しい物に掛け変えている作業の途中で、それは鮮血の様に綺麗な赤い色。


 鏡花の髪の毛が未だ黒かった頃。


「ランドセルは赤が良い」と祖父に語り掛ける。しかし気が付くと鏡花のランドセルはピンク色で、小学一年生も後少しで終わる時期を迎える。


 あの日、出掛けた翌月に祖父は亡くなり、暫く幼稚園を休んだ事も保育園に変わる話になった事も覚えている。けれども園バスで遠い幼稚園に通い続けた。


 しかし卒園式も小学校の入学式も、記憶には無い。

 新しい環境で出来たらしい友達は、鏡花の名前と顔は知っていたのに、鏡花からすれば誰一人をも知らない。


 だから鏡花は周りの子供達に「臥待鏡花ってどういう子なの?」と訊いてみる。皆は揃えて「よくわからない」と答える。


 鏡花は一年間の時間を何処かで失ったまま、流れるまま、時間に押し出され続ける。打ち上げられるごとく叩きつけられて、今が現在。辿り着いて、見渡す此の部屋の全て。絶望の井戸に似た世界。


 鏡花の全て。



 コンビニの灯りが遠くに見える公園の奥。ベンチ裏からフェンスに向かって上に向く斜面。木と木の間にある隠れた場所。いつまでかはオブジェだったと思われる古びた三日月型の石の上にポツリと腰かける鏡花。おろして梳いた髪が時折、吹く風に揺れる。


 建物裏のコンビニには時折、側にあるビジネスホテルの宿泊客らしき人達が出入りする。


「りんね」


 急に声を掛けられて驚く。


「……怜莉さん、何処から入ってきたの?」


 鏡花は焦りながらも、ゆっくりとりんねの顔をして、怜莉を見上げる。


「西側にも入り口があるから」


 白いフーディに白いデニムスカートのりんねとライトブラウンのスーツにアウターを羽織っている怜莉。


「大丈夫?」「……うん」
「ごめん。少し離れた所に居たから遅くなった。寒くない?」


 首を振るりんね。


「……もう良いのかもって」
「え」


「もう全部どうでも良いのかもって。もう疲れちゃったの。だから……怜莉さんに会ったら泣いちゃいそうで、だから」


 下を向くと同時にりんねはぼとぼとと涙を落とし始める。傍らに座り込む怜莉。怜莉の長いポニーテールは地面に届かず、宙に揺れる。


「りんね?」


「……怜莉さん、あのね。私ね。土曜日は朝から夕方迄ね。休まずに頑張ったよ。日曜日は十時間。

 月曜日の祝日はお昼過ぎから四時間だったけど、今迄も仕事の時以外はずっと……ずっと……足らないって分かっていたけど」


 泣き顔のまま、鼻から口元にかけ、顔を半分を曲げた手で抑えるりんねにハンカチを渡す怜莉。軽く頷いて受けると、目元の涙を拭うりんね。


「何も悪い事はしないなんて、はっきりは云えない。でも、ああいう事は絶対にしない、出来ない……でも信じてもらえないのも、わかっているの。もう何も意味がなかったの」


「ね。何があったの、りんね」


 伏し目がちで敢えて目を合わさずに問い掛ける怜莉。


「……図々しいって云われたの。空いてもいない席に座ろうとして……図々しいって」


 りんねは涙が落ちる目をハンカチでは抑えきれなくなって、耐えきれずに怜莉に倒れ込んでしまう。それから堰を切った様に咽び泣きそうになるものの、必死に声を押し殺し、微かな泣き声をもらし続ける。


 怜莉はりんねを精一杯、静かに抱き留める。


「もう……ずっと、ずっと、頑張ってきたのに……初めから無理だったの……ずっと」


「りんね。一緒に帰ろう? りんねの居る場所なら、うちにあるよ?」


 怜莉の胸に額を当てていたりんねの顔は一瞬、泣き顔のまま、鏡花の顔に戻り「……部屋」とぽつりと云うと、隙間僅かに怜莉から身体を離す。


「……もう良いのかな。部屋ももう」


 ハンカチを縦にして、顔を強く抑える鏡花。


「もうすぐ一年。


此処から通えるのに田舎に越した方が良いって言われるからって、私を連れていける様な所じゃないから、田舎に行くのだって嫌だって。


だから、今迄、寂しい思いさせてきたからって。離婚もちゃんとするからって。


これからは私とちゃんと向き合うからって。部屋は借りているからって。


でも、もう一年も……経つのに」


 怜莉はりんねの話の途中で、りんねを抱き寄せていた手に無意識に、力が入ってしまった事に気が付く。


「此の一年、一度も顔を見ていないの。居ない時に訪ねてくれた気配もないの。


春になって、家賃が滞納しているって請求書が来て、住んでいるのは私だから私が払わないといけないって。


……知らなかったの。何も。私は待っていただけだったの。本当はもう……いつからだろう……わかっていたと思うのに。もうね。もうね。疲れたの……悲しい事しか起きないの……」


「……それって」
 言葉に戸惑う怜莉がりんねの顔を見た時、灰色の髪を靡かせ、涙を溜めた目の、『りんね』が、三日月型の石の上、怜莉の前に居る。


「……怜莉さん。『りんね』は居て良いの? 『りんね』の居場所はあるの?」

「……りんね。一緒に帰りたくて迎えに来たんだよ?」


 怜莉は思わずりんねを抱き締め、りんねも縋りつく様に抱きしめ返す様に似て、しがみつく。


「……助けて」と聞き取れない小声が風に紛れる。



 長い年月。その土地に立ち続ける、夜は人気のないオフィスビル。それから単身者向けのアパート。寺と個人医院。唐突に明るいレストランバー。


 男物のコートを羽織って、りんねは怜莉に手を引かれ、街灯に灰色の髪を照らされて、落ち着きを取り戻しながら後ろを歩く。


「りんね。マンションの先の大通りにもコンビニがあるんだ。今日はお弁当でも良い?」


 怜莉のマンションを通り過ぎて、2分弱。りんねはトートバッグから出した財布を覗いて、2切れ入りの玉子サンドを手に持つ。ふと見たスイーツコーナーの前で、立ち止まる。名前も味も知らないプリンや四角い小さなケーキが透明なカップに収まって、幾つも並ぶ棚。


 男物のアウターを羽織って、夢中になって眺めている横顔を、少し離れた場所にいる中年の男性が物珍しそうに窺っている。


「決めた?」
 りんねの後ろに立つ怜莉。「サンドイッチ」


「足りる? ケーキも買う?」

「……あまりお金がなくて」

「良いよ。寄ろうって云ったのオレだし。どれがいい?」

「……え……どうしよう。よくわからない」

「じゃあ、チーズスフレとマンゴープリン」

「……良いの?」

「あと食べ物じゃないけど、りんねが喜んでくれそうなものが家にあるよ」


 怜莉は、唐揚げ弁当と発泡酒が2缶入った買い物かごにスフレと果肉の載ったプリンを入れると、りんねからサンドイッチを受け取ろうとする。


「怜莉さん、大丈夫。これくらいは払えるから」


 レジに向かう途中、隣を通ったりんねを見て、様子を窺っていた中年男性が胸を撫でおろしている。

 結局、サンドイッチも買ってもらったりんねは怜莉に握られる手をしっかりと握り返して、コンビニの外に出る。


 入れ違いに別の男性が店に入ってきて、りんねを眺めていた中年男性に声を掛ける。
「部長? 先に会場に行ったんじゃ?」「ああ。支店の連中が未だらしくて、連絡待ちなんだけど、さっき、長女と同じ年頃の女の子が居てさ。でもよく見たら、大学生位だった」

「長女さんって来年、中学生でしょう? 今回の出張長いのにしっかりしてくださいよ?」



 男性は不思議そうな顔をする。



「あのね。あのね、怜莉さん」


 来た道を戻りながら、りんねは怜莉と繋いだ手を心無しに強く握る。


「……私と一緒に居て、恥ずかしくない?」
 レジ袋を持った怜莉が立ち止まって振り返る。


「どうして?」
「……だって、私、髪も灰色だし」
「だったら髪伸ばして結んでいるオレも目立っているよ?」


「……私ね。ずっとずっと恥ずかしいって、いつも、いつも言われていたの。私と一緒に居ると恥ずかしいって。

……何も出来ないし、迷惑しかかけないし、知らない事ばかりだし……だからね。たくさん本を読んで、勉強もして、いつかね、学校にも行って、そしたら頑張った分だけでも恥ずかしい子じゃないって、隠れていてほしいって……云われなくなるのかもしれないって、思っていたの」


 怜莉が少しずつ震えが強くなるりんねの掌を力いっぱい握り直す。


「もういいの。……もうこのままが好い。戻りたくない」


 玄関の内側でりんねがミュールを脱ぐ。


「今朝、りんねのパジャマ洗って乾燥機に掛けたから、着替える?」
「あ。ごめんなさい。私が石の上に座っていたから」
「……そうじゃなくて。じゃあ、一緒にお風呂に入る?」
「え。え? え?」
 驚いて、段差にタイツを滑らせ後ろに倒れそうになるりんねを怜莉は慌てて前から背に手を回して抱き留める。


「ご、ごめん。大丈夫?」
「う、うん。それはちょっと恥ずかしい……」


 りんねは奥の寝室でパジャマに着替え、ウエストクリップで腰回りのサイズを詰める。間にある四畳半の小部屋の入り口から球体のウーパールーパーのぬいぐるみを抱えたまま、居間を覗く。


 既にジャージに着替え終えている怜莉がローソファに座り、黒いポニーテールを揺らして、りんねを見上げる。手と足の生地をロールアップした白いパジャマを着たりんねは傍らにウーパールーパーを置いて、怜莉の横に静かに座る。


 渡される二本の鍵を両手で受け取るりんね。


「今朝、置いて行ったから」
「本当に私が持っていていいの?」
「うん。りんねのだよ。それでね」
 纏めていた気持をゆっくりと言葉にする怜莉。


「りんねが何に困っているか分からないけど、お金が足らないって云っていたでしょう。それで三回目に会った時に、りんね、泣いていたから、どうしようって。お金の事じゃなくても、お金で解決出来る事って沢山あるから」


「……うん」


「でも、また、りんねが何処かで泣いているかもしれない、一人で泣いているかもしれないって考えると辛くなって、だから、此の部屋の鍵を持っていてほしかった。此処でならまた絶対に会えるから」


 鍵を大事に両手で包み込むりんね。


「それでね。りんね。違ったら、違う、でいいんだ」


 怜莉は鍵を持ったりんねの細い両手首を、自分の右手と左手で掴む。


「……りんね。りんねの本当の名前、『水野花』なの?」


 りんねは掴まれた両手首に視線を落とし、少しだけ開いた口と大きく開いた目で怜莉を見る。しかし怜莉は硬く目を閉じて、視線を合わさない。


 どちらの音かも分からない脈打つ音が重なった手首同士に伝わる。



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