第9楽章.ハーロウの絶望の淵
「今、話せる? 顔が見たいんだ」
一筋だけ入っていた夕陽が退き、フローリングの部屋は暗くなる。玄関ドアを向いて、キッチンの前に座り込む鏡花。
「……今日はいい」
「具合……悪い? 動けない?」
鏡花は電話越しの怜莉に対して、音も無く、頷く。
「迎えに行ってもいい?」
僅かに口を開いたまま、止まってしまう鏡花。一つ結びにしているヘアゴムを引っ張って、髪を下ろし、指に絡める。
「……迎えに、って……何処に……」
「りんね、車も自転車も使わないって云ってたよね?」
訊ねて、一呼吸を置き、話を続ける怜莉。
「……ドラックストアカメヤは市内に二軒だけなんだ。うちのマンションから徒歩でも行けるカメヤは、伽羅児駅側で……昔からある小さな店」
「怜莉さん!」
鏡花はヘアゴムを握った手を床に付いて、大きな声を出す。
「私は公園に居るから! 私を捜すなら公園を捜して!」
雑におろした髪が俯いた顔を隠す程に前に流れる。動揺して強く握り締めた勢いで通話終了キーを押してしまった事に気が付く鏡花。
「……なんで?」
鏡花は思い当たり、立ち上がり、電灯のスイッチを押す。部屋の中央にある赤いテーブルにあるチョコレイトの大袋を持ち上げる。
「……そっか。怜莉さんにチョコレイトをあげたから」と鏡花は呟く。
赤い大袋の目立つ場所に描かれてある犬の顔。真下に[ カメリアベストライフセレクト ]の文字。キッチンを振り返る鏡花。食器洗い用の洗剤にも同じ犬の顔のイラストがある。
「……カメヤさんのプライベートブランド。どうして犬なのに亀なの……」

鏡花が一人暮らす部屋から出て徒歩10分。2階建ての最寄り駅。
去年まで通っていた小学校。今朝、登校した中学校。一年前まで両親と暮らしていた、今は誰も居ない一軒家。あの辺り。あの地区の駅からひとつ先に進んだ、今の居場所。
そして鏡花が幼稚園に通っていた頃。鏡花の髪の毛が未だ黒かった頃。
2000年8月2日。
待ち合わせをした伽羅児駅を出て、二車線の道路を渡る祖父と鏡花。表通りにある写真館。和服姿の祖父は「鏡花が小学校入学の時は此処で写真を撮ってもらおう」と優しく語る。
鏡花はしっかり祖父の手を握ったまま、隣のドラックストアカメヤを見上げる。古い看板を新しい物に換える作業の途中。新しい看板は鮮血の様に綺麗な赤い色をしている。
「ランドセルは赤が良い」
鏡花は無邪気に祖父に伝える。
あの日。出掛けた翌月、1ヶ月後に祖父は亡くなり、鏡花は暫く幼稚園を休んだ。両親や祖母は保育園に通わせようとしたけれども、結局は園バスのルートを変えてもらい、幼稚園に通い続けた。卒園まで残り半年。
しかし鏡花には卒園式の記憶が無い。小学校の入学式も記憶に無い。
気が付くと鏡花はピンク色のランドセルを背負っていた。小学校は後少しで一年生の三学期が終わる時期を迎える。卒園式の直前から一年間。鏡花に生じた空白の期間。
小学校という新しい環境で出来たらしい友達は、鏡花の名前と顔を知っているのに、鏡花からすれば、知っている子供は一人も居ない。
鏡花は周りの子供達に「臥待鏡花ってどういう子なの?」と訊いて回る。皆は口揃えて「よくわからない」と答える。
鏡花は、一年間の時間を何処かで失ったまま、流れるまま、時間に押し出された感覚と、人知れず、ノートに書き記す。打ち上げられるごとく叩きつけられて、今が現在。辿り着いて、見渡す此の部屋の全て。絶望の井戸に似た世界。
──鏡花の全て。
最後にタイトルを書いて、其の頁は随分前に捨ててしまった。
そしてこれから怜莉に会う為。夜が訪れた部屋を後にしていくりんね。

コンビニの灯りが遠くに見える公園の奥。
ベンチ裏からフェンスに向かって上に向く斜面。木と木の間にある、隠れた場所。いつまでかはオブジェだったと思われる古びた三日月型の石の上に腰かける鏡花。おろして梳いた灰色の髪が、時折、吹く風に揺られる。
ビジネスホテルの宿泊客らしき人達がコンビニを出入りがしている。
「りんね」
急に声を掛けられて驚く。
「……怜莉さん、何処から入ってきたの?」
鏡花は焦って下を向き、ゆっくりとりんねの顔を捜し終えると、戸惑いながら怜莉を見上げる。
「西側にも入り口があるんだ」
白いフーディに白いデニムスカートのりんねと、ライトブラウンのスーツにアウターを羽織っている怜莉。
「大丈夫?」
「……うん」
「ごめん。離れた所に居たから遅くなった。寒くない?」
首を振るりんね。
「……もう良いのかもって」
りんねは正面を向いて、目と口元に強張った笑みを浮かべ、怜莉の反応は遅れる。
「もう全部どうでも良いのかもって。もう疲れちゃったの。だから……怜莉さんに会ったら泣いちゃいそうで、だから」
下を向くと同時にりんねは、ぼとぼとと涙を落とし始める。アウターの裾に構わず、りんねの傍らに座り込む怜莉。怜莉の黒く長いポニーテールは地面に届かず、宙に揺れる。
「りんね?」
「……怜莉さん。あのね……私ね。土曜日は朝から夕方迄ね。休まずに頑張ったよ? 日曜日は十時間。
月曜日の祝日は……頑張れなかったけど……ずっとずっと仕事の時以外はずっと……ずっと……頑張……」
泣き顔のまま、鼻から口元にかけ、顔を半分を曲げた手で抑えるりんねにハンカチを渡す怜莉。軽く頷いて受けると、目元の涙と鼻周りを抑えるりんね。
「……何も悪い事はしないなんて、多分、私は云えない。でも、ああいう事は絶対にしない……でも信じてもらえないの。わかっているの。もう……意味がなかったの」
「ね。りんね。何があったの?」
伏し目がちで敢えて目を合わさずに問い掛ける怜莉。
「……図々しいって……空いてもいない席に座ろうとして……」
りんねは涙が落ちる目をハンカチで抑えきれなくなるに連れ、座り込む姿勢を支えきれず、傾いていく。ミュールもタイツの爪先も砂に汚れる。必死に声を押し殺し、其れでも耐えられずに怜莉の胸元に、一気に雪崩込でしまうりんね。微かな嗚咽が漏れ続ける。
怜莉はりんねを精一杯、静かに抱き留める。
「もう……ずっと、ずっと、頑張ってきたのに……初めから無理だったの……ずっと」
「りんね。一緒に帰ろう? りんねの居る場所なら、うちにあるよ?」
怜莉の胸に額を当てていたりんねの顔は、泣き顔のまま、鏡花の顔に一瞬、戻り「……部屋」とぽつりと云うと、隙間僅かに怜莉から身体を離す。
「……もう良いのかな。部屋ももう」
ハンカチを縦にして、顔を強く抑えていく鏡花。
「……もうすぐ一年。
田舎の古民家を借りて引っ越すって言われて。でも私を連れていける所じゃないって。
だけど、約束したの。離婚して、これからは、私と向き合うって。私と二人で暮らす部屋も借りたって。
でも、一年も……経って……ずっと待って……」
りんねの話に怜莉はハッとして息を呑むと、抱き寄せていた手につい過剰な力が入ってしまう。
「此の一年、一度も顔を見ていないの。訪ねてくれた気配もないの。
春になって、家賃滞納の請求書が来て、住んでいるのは私だから……私が払わないといけないって。
……知らなかったの。本当はもう……いつからだろう……もうね。疲れたの……悲しい事しか起きない……」
断片として繋がるりんねの話に、表情が強張っている怜莉。抱き締めた真上から、りんねを見下ろす。
「……怜莉さん。『りんね』は一緒に居て良いの? 『りんね』の居場所はあるの?」
「……りんね。一緒に帰りたくて迎えに来たんだよ?」
怜莉は其れ以上、云わず、りんねを強く抱き締める。りんねもまた、怜莉に縋りつく。
「……助けて」と誰にも聞き取れない声が風に紛れる。

長い年月。此の土地に立っているオフィスビル。単身者向けのアパート。寺と個人医院。夜は人気のない通りにふと現れる、唐突に明るいレストランバー。
男物のコートを羽織って、りんねは怜莉に手を引かれる。街灯に灰色の髪を照らされて、後ろを歩く。
「りんね。マンションの先の大通りにもコンビニがあるんだ。今日はお弁当でも良い?」
怜莉のマンションを通り過ぎて、2分弱。りんねはトートバッグから出した財布を覗いて、2切れ入りの玉子サンドを手に持つ。ふと見たスイーツコーナーの前で、立ち止まる。名前も味も知らないプリンや四角い小さなケーキが透明なカップに収まって、幾つも並ぶ棚。
男物のアウターを羽織って、夢中になって眺めている鏡花の横顔を、中年の男性が物珍しそうに窺っている。
「決めた?」
りんねの後ろに立つ怜莉。
「 ケーキも買う?」
「……あまりお金がなくて」
「良いよ。寄ろうって云ったのオレだし。どれがいい?」
「……え……どうしよう。よくわからない」
「じゃあ、チーズスフレとマンゴープリン」
「良いの?」
「あと食べ物じゃないけど、りんねが喜んでくれそうなものが家にあるよ」
怜莉は、唐揚げ弁当と発泡酒が2缶入った買い物かごに、スフレとプリンを入れると、りんねからサンドイッチを受け取ろうとする。
「怜莉さん、大丈夫。払えるから」
レジに向かう途中、隣を通ったりんねを見て、先程の中年男性が胸を撫で下ろす。コンビニを出る二人。怜莉に握られる手を握り返すりんね。
入れ違いに店に入ってきた若い男性が中年男性に声を掛ける。
「部長? 先に会場に行ったんじゃ?」
「支店の連中の連絡待ちだよ。さっき、長女と同じ年頃の女の子が男と一緒に居てさ。でもよく見たら、大学生位の女の子だったんだよ」
「は? 長女さんって、来年、中学生でしょう? 老眼、酷くなってませんか?」
若い男性は怪訝そうな顔をする。

「あのね。あのね、怜莉さん」
来た道を戻りながら、りんねは怜莉と繋いだ手を心無しに強く握る。
「……私と一緒に居て、恥ずかしくない?」
レジ袋を持った怜莉が立ち止まる。
「どうして?」
「……だって、私、髪も灰色だし」
「だったら、髪を伸ばして、ポニーテールにしているオレも目立つと思うよ?」
夜の道端でも分かる、怜莉の黒く長い綺麗な髪を見つめて、歩くりんね。
「……私ね。恥ずかしいって、いつも、いつも言われていたの。
私が居ると恥ずかしいって。
……私は何も知らなくて……出来なくて……頑張って……恥ずかしい子じゃないって、隠れてほしいって……云われない様になりたくて……」
怜莉は、声と共に震えるりんねの掌を力いっぱい握り直す。
「でも、もういいの。……もうこのままが好い」

怜莉の部屋の玄関内側で砂を気にしながら、ミュールを脱ぐりんね。
「りんねのパジャマ。洗って乾燥機に掛けたんだ。着替える?」
「あ。ごめんなさい。私が石の上に座って……砂まみれで」
「そうじゃなくて。じゃあ、一緒にお風呂に入る?」
「え。え? え?」
驚いて、段差にタイツを滑らせ後ろに倒れそうになるりんねを怜莉は慌てて前から背に手を回して抱き留める。
「ご、ごめん。冗談のつもりだった。大丈夫?」
りんねは奥の寝室で、袖と裾をロールアップした白いパジャマに着替え、ウエストクリップで腰回りのサイズを詰めて整える。居間と寝室の間にある四畳半の小部屋。入り口から球体のウーパールーパーのぬいぐるみを抱えたまま、居間を覗く。
怜莉もジャージに着替えて、ローソファに座り、りんねを見上げる。りんねは傍らにウーパールーパーを置いて、怜莉の横に静かに座る。
渡される二本の鍵を両手で受け取るりんね。
「今朝、置いて行ったから」
「本当に私が持っていていいの?」
「うん。りんねのだよ。それでね」
纏めていた気持をゆっくりと言葉にする怜莉。
「りんねが何に困っているか分からないけど、お金が足らないって云っていたでしょう。三回目に会った時は、りんね、泣いていたから、ますますどうしようって。お金の事じゃなくても、お金で解決出来る事って沢山あるから」
「……うん」
「でも、また、りんねが何処かで泣いているかもしれない、一人で泣いているかもしれないって考えると辛くなって。だから、此の部屋の鍵を持っていてほしかった。此処でならまた絶対に会えるから」
鍵を大事に両手で包み込むりんね。
「それでね。りんね。違ったら、違う、でいいんだ」
怜莉は鍵を持ったりんねの細い両手首を、自分の右手と左手で掴む。
「……りんね。りんねの本当の名前。『水野花』なの?」
りんねは掴まれた両手首に視線を落とし、薄っすらと自然に開いてしまう口と、大きく開いた目で怜莉の顔を見つめる。しかし怜莉は硬く目を閉じて、視線を合わさない。
どちらの音かも分からない脈打つ音が重なった手首同士に伝わる。
押してね▶
わんわん数: 2057
