第7楽章.Horn effect


 怜莉のマンションを後にして、約15分後。

 りんねは、古い自宅マンションの玄関入り口に走り込む。自立したオートロック操作盤の前で立ち止まり、肩で息を整える。


 「……ゆっくりし過ぎちゃった」と呟いて、一呼吸する。操作盤の鍵穴に鍵を挿すと、自動ドアの先、突き当たりのエレベータへと急ぐ。


 2007年10月9日。火曜日。

 二学期中間考査一日目。


 五分も経たず、エレベータからセーラー服を着た鏡花が降りて来る。二つに結んだ髪を揺らし、通学バッグの中身を確認しながら焦っている。

 管理人室の角に立っていた男性に通学バッグをぶつけかける鏡花。「ごめんなさい」と慌てて謝り、マンションを出て、歩道を走っていく。


 男性はケータイを耳に当てたまま、強い風が入ってくる入り口ガラスドアを閉じる。

「いや、子供とぶつかりかけてさ。中学生だよ。さっきも急いでいた女性が居たけど、綺麗な子だったな」

 男性はバッグからポスティング用のダイレクトメールの束を取り出す。

「そうそう。髪、シルバーグレーに染めてさ。珍しいよね。いやいや、まさか。中学生の方じゃないって」



 保健室の引き戸の前で立ち止まった鏡花は、深呼吸をして、ノックをする。


「失礼します。一年の臥待です」


 頭を下げて保健室に入っていく。


「もうすぐ試験開始だから、早く空いている席に座って」


 鏡花が医療用パーテーションの向こうに行くと、二十人程が温和しく前方を向いて、机に座っている。一番後ろ手前の席に着くと、フックにバッグを掛け、ペンケースと下敷きを取り出す。


 空席を挟んで並ぶ奥側には茶色の髪を下ろして、セーラー服を着崩した女子生徒。頬杖を突いて、鏡花をじっと見、鏡花も視線を感じて、更に緊張して強張った顔になる。


「臥待さんの分。チャイムが鳴るまで触ったら駄目」


 養護教諭が机に裏返した数枚の紙を置く。


 [ 一年社会(予備) ]と鉛筆で書かれたテスト用紙が置かれ、直ぐに一限間目のチャイムが鳴り始める。


 やがて終了のチャイムと同時にシャーペンの芯を指先で戻す鏡花。五分の休憩。アナログの時計の進む音を聴いて、二時間目の始まりを居心地悪く待つ。


 次に配られた [ 一年英語(予備) ]のテスト用紙を解き始めて、十五分が経った頃。鏡花の足元に消しゴムが転がってきて、踵のない上靴にぶつかる。


 目線を落とした鏡花は思わず顔を上げる。奥側の席で茶色の髪の女子生徒が何かを投げた後の手の形を此方に向けているのを見てしまう。


 瞬間。


「先生! 臥待さんがカンニングしています!」


 宙に浮かせていた手をそのまま高く上げて、大きな声を出す奥側の席の女子生徒。保健室内。不登校児の学習スペースを隠すパーテーションを超えて、声が響く。



 生徒指導室の会議テーブルに鏡花の通学バッグが空になる迄、逆さまにされ続ける。外も内も構わず、ポケットの全てに手を入れられる。


「教科書だけ?」


「あと、この筆箱ですね」


 若い生徒指導の男性教師がペンケースの中身をテーブルに並べていく。


 立ち尽くしている鏡花をテーブル越しに生徒指導の女性教師が無言で眺める。更に俯く鏡花。


「臥待さん。貴方、一学期の中間も期末も保健室で受けたみたいだけど、どの教科も平均点より上。説明しなさい」


「……説明」


 口籠りながらも一言だけを発する鏡花に強く口調をぶつける女性教師。


「貴方はゴールデンウィーク明けから、教室でも保健室でも授業を受けていない。こういうのを矛盾って言うの。わかる?」


 隅の離れた場所で男性教師二人が小声で話をしている。


「家庭環境は?」

「担任の話だと、母親とは月に何度か、電話で話しているそう。今時、珍しく感じの良い親だって。でも肝心の本人は電話を代わりたくないって言ってるみたいで」

「あの灰色の髪は?」

「地毛証明書は五月に提出済み」

「あれが地毛? 何処の民族だよ」


 二人は鏡花の髪を見ながら失笑するものの、鏡花は視線を床に落としたまま、微動だにしない。


「どうしてテストだけ受けに来るの? 何がしたいの?」


 鏡花に尋ねる目の前の女性教師の言葉にますます俯こうとして「答えなさい!」と質問が叩きつけられる。

 答えようとしても、口が震えて動くばかりで、鏡花の声は少しも付いてこない。


「……こ」


 上手く空気を吸えなくなって息が詰まった様な鏡花。焦点が合っていない虚ろで不鮮明な目をしている。


「……高校、には行こう、と」


「貴方の行ける高校なんてありません!」


 女性教師が怒鳴りつける。鏡花が一瞬だけ僅かに反応を示す。


「学校に来ない子の通知表に『3』は付けないの。人数が決まっているの。でも、臥待さんの通知表には『3』がある。これはね、貴方のテストの点が良いから特別サービスなの。わかる?」


 別の教師が生徒指導室に入ってきて、女性教師の近くまで歩いてくる。


「学校に毎日来て勉強をして、テストで30点の生徒と、学校に来ない90点の生徒。中学校の先生達は、どちらに高校に行ってほしいと思う? どちらの生徒の為に高校の先生に『よろしくお願いします』って頭を下げようと思う?」


 女性教師は、手渡された採点された解答用紙を受け取ると、あからさまな溜め息を吐く。


「社会も英語も点数はあげられません」とテーブルの上に用紙を勢いで投げつける。


「おかしいでしょう? こんな点数になる訳ないでしょう!」とヒステリックに叫ぶ。


「もう一度云います。貴方の様な、怠け癖のついた人間の行く高校はありません! 空いてもいない席に座ろうとして図々しい!」


 涙目になりかける鏡花。テーブルの角に視野を移動して固定させ、必死に此の場を耐えきろうとする。



「花ちゃん?」


「ごめんなさい。ごめんな……」


 花は、治療院の応接室のテーブルに珈琲カップを置こうとし、倒してしまう。

 零れて拡がっていく珈琲にも対処が出来ない。両手で頭を抱え込んで、その場に崩れ落ち、泣き出す花は過呼吸発作を起こしている。


「花ちゃん、大丈夫よ。いつも上手く行く方が難しいんだから」 


 常連客の女性は座り込んだ花の後ろに回る。花の灰色のひとつ結びの髪を避けて、丁寧に背中を擦る。


「どうしました?」


 真屋が応接室に入ってきて、状況を確認する。


「河野さん、ちょっと花ちゃん、休ませてきます。服や鞄は大丈夫でしたか?」


「私は良いのよ。机も拭いておくから」


 真屋は花を抱きかかえて、診療室のパソコンデスクの椅子に座らせると手を握る。


「花ちゃん。大丈夫だよ。過換気症候群って、若い女性に多くてね。誰も迷惑なんて思っていないからね。僕が云う様にゆっくり息を吐いて。ゆっくりだよ。そうそう。上手、上手。ゆっくり、ゆっくりね」


 真屋は、そう何度も優しく繰り返し続ける。



「今日で職場訪問4回目。今日も急病で来られないって云われたら、どうする? 自宅に行っちゃう?」


 運転をしながら桜海が怜莉に話し掛ける。


「なんていうか、朝から急に不安になって」


「え? じゃあ、やっぱり自宅に突っ込んだ方が良い?」


「え? 待って。オレの具合の話」


「え? 具合悪い?」


 桜海が左折して車をコンビニエンスストアの駐車場に止める。


「ごめん。ぼんやりしてたけど、もしかして、桜海、家に突っ込むって云った? 車で? 物理的に?」


「うん。自業自得じゃん?」


「……えっと。要は『自分の関わる企業、団体等の一切は、中央との関係はありません』って書類にサインを貰うだけで良いし」


「書かないで逃げ回ってるじゃん? 絶対こっちが諦めるの待ってるよね?」


 チャコールグレーのスーツを着た怜莉。腕を組んで、袈裟を着けている桜海の顔と服装を見る。


「そういえば、桜海はスーツって」


「背が低いから買うのも着るのも嫌なの」

 答え終える桜海は怜莉の視線が今度は車窓に向いているのに気が付く。


「今日の怜莉って具合悪いっていうより、話の流れが理解しづらくて、頭の中の整理が間に合わない感じ」


 怜莉の視線の先に数日前に二人で見かけた、灰色の髪の女性が居ると確認して呟く桜海。


「……怜莉、絶対、あの人の事、好きだよね? 此の近くが職場なの?」


 遠くの歩道の壁際を、ふらついて歩いているりんね。灰色の長い髪を一つに結び、キャンバス地のトートバッグを肩に掛けている。


「彼女、具合悪そうじゃない? 怜莉、行ってあげたら?」


「……仕事中……だし。止めないと桜海、本当に相手の家に突っ込みかねないし」


「やだなあ。怜莉みたいに真面目じゃないだけで、仕事はちゃんとするよ?」 


 桜海は怜莉を見て、細い指輪のある左掌を差し出す。


「おやつ代。コンビニでどら焼き買うから」


 唐突な桜海の言動に素直に困惑して意味を考える怜莉。暫くして、怪訝な顔をしながらも、怜莉は財布から五百円玉を取り出し、桜海の掌に置くと車から降りる。


「梶さんには僕から連絡しておくね。怜莉は仕事より恋愛を取りましたって」


 怪訝を通り越して呆れた顔をする怜莉は「ああもう、任せた」とドアを閉めて、歩道に向かう。


「怜莉? 方向逆じゃない?」


 車内に残った桜海は五百円玉を握り締め、怜莉の行き先と反対の、さっきまで、りんねが歩いていた歩道を眺める。



 右を見ても左を見ても真新しい建物が並ぶ振興住宅街の中を歩いて、立ち止まる怜莉。

 隣の家と境のフェンスの側に、インターホンと郵便受け、表札が一体になった機能門柱。表札には[ 真屋治療院 ]と書かれている。

 怜莉は悩む素振りをしつつも、二台の車の間を通り抜け、玄関の引き戸の前に立つ。


 突然、戸が開いて、高齢の女性二人が怜莉を見上げる。


「……花ちゃんの彼氏? 噂の?」

「えっ」


 女性は隣にいる、河野という女性を見る。 


「花ちゃんと同じシャンプーの香り」
「河野さん、相変わらず匂いに敏感ね? あらあら、背が高くて長髪で美形でスーツが似合うって、花ちゃんも贅沢するわね」


 田中という女性は怜莉の顔をじっと見つめて、二人の注目を浴びる怜莉。しかし、理解が追いつかず、左手の曲げた中指を口に当て「……花ちゃん?」と静かに疑問を口にする。


 戸が開いたままの玄関から顔を出した真屋が「河野さん、田中さん」と声を掛ける。


「最近の男の子は照れ屋らしいですから」


 真屋に言われ、女性二人はお互い顔を見合わせて、怜莉に次々と話し掛ける。


「花ちゃんを迎えに来たんでしょう? 具合悪いのに、花ちゃん、一人で帰っちゃったのよ?」

「楽しい時期かもしれないけどね。無理が利かない時もあるんだから、気を付けなさいね?」


 二人は言うだけ言い、田中は真屋を振り返る。


「先生、それじゃ3時半に予約の変更、お願いね」


 怜莉以外のそれぞれは挨拶を交わし、二人はそれぞれの県外ナンバーの車に乗り込んでいく。


 外に一人残される怜莉。


『花』という名前。顔色が悪く足元が覚束ず、それでも進もうとしていた、さっき迄のりんねの姿。そして彼女の持つ [ SECRET ] の印章。梶が云った「りんねも本名と思えない。歳だって19歳ではない筈」との言葉。


 怜莉は思案する表情を隠す。


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