第6楽章.ラプラスの悪魔
11階の廊下突き当り。怜莉の部屋のドアの前。黒いジャンバースカートの上に白いフーディを被ったりんねが立っている。蟹のぶら下がったストラップで、4本の鍵を束ね、右掌に広げ、左指で触っている。
近づいて来る足音に、一瞬、ビクッとするりんね。少しずつ顔を上げて、相手を確認するとほっとした様に「……怜莉さん」と小さい声を出す。
怜莉は直ぐ側迄歩いて来ると「りんねも今、帰り?」と訊ねる。
「怜莉さん、帰宅が22時頃になるって……云っていたから……合わせようと思って」と返し、俯き加減になるりんね。
「本当は、今日はどうしようと思ったの。でも怜莉さん……夕食作ってあるって云っていたし、其れに、あのね」
りんねは鍵の束を片手に持つとキャンバス地のトートバッグの中を探り、個包装されたチョコレイトを二つ取り出す。
「私に出来るお礼。私が普段食べている美味しくないチョコレイト。怜莉さん、気になるって云っていたでしょう? だから2つ渡そうと思って」
怜莉がりんねの手元を覗き込む。パッケージには油性ペンで数字が書いてある。
「あ。この数字はね。中身を全部数えて書いてて、毎日食べる順番で」
一所懸命に説明するりんねに「貰ってもいいの?」と怜莉は訊ねる。
「うん」と嬉しそうに渡す、りんねの真後ろに怜莉は視線を寄せる。
怜莉は目を閉じて、一拍置いて、再度、目を開ける。りんねに『印章』がある事を確認しておこうとする怜莉。
りんねの背後。円を三本線で不規則な七分割に切り分けた不可思議な状態の物が静かに背に浮かぶ。
二重円の内円に3本の線のアスタリスクを合わせた『七分割』が『秘匿』の印章。りんねの印章は、二重円もアスタリスクもなく、3本の線が単円を雑に7つに分けているだけ。
「怜莉さん?」
「あ。ありがとう、りんね」
怜莉は慌てて差し出されたチョコレイトを片手で受け取ると、りんねは僅かに遅れて、はっとする。
同時にりんねの後ろに浮かんでいる円から線が消える。
怜莉は思わず無言になり、りんねの背をじっと見ると、二重円の内円に3本のアスタリスクという、正しい『秘匿』の印章が一瞬で作られる。そして、外円と内円の間に一文字ずつアルファベットが現れ始める。
[ DELETE ]
次いで
[ NO DATA ]
其の文字が消えると、次に現れた単語がしっかりと固定される。
[ SECRET ]
変化していく様子を前にして、言葉を失ってしまう怜莉。
「……怜莉さん?」
りんねの呼びかけに、怜莉もハッして、慌てて「あ。これ、お土産」とフラットバッグを差し出して、手渡す。
鍵を開け、玄関に入り、上り框に座る怜莉。
「りんね、先に部屋に入ってて。ショートブーツ脱ぐのに時間かかる」
頷いて、ミュールを脱ぎ、開けっ放しの居間のドアの向こうに行くりんね。
「Secretの前にDelete? ……削除……」
口元を僅かに開いたまま、目線を左水平方向にやり、下げる怜莉。口を閉じると、結んだ長い髪が肩から前方に流れる。

ローソファとテーブルの間に立つりんね。アウターをポールハンガーに掛ける怜莉。テーブルに置かれたフラットバッグの中の白い箱。
「クラムチャウダーをソースにして、ロングパスタと合わせて……クリームパスタにする?」
「……うん」
「お土産は杏仁豆腐。食べる? とりあえず冷蔵庫に入れておく?」
怜莉に訊かれて、りんねは徐に箱を持ち上げる。キッチンに立つ怜莉の隣に持っていくと「冷蔵庫、開けてもいい?」と訊ねるりんね。
「うん」
「あのね。コンロの使い方を教えてもらってもいい? パスタはどうしたらいいの? 自分でやってみる。怜莉さんは休んで?」
りんねは3ドアの冷蔵庫を閉じながら怜莉に話し掛ける。
「別にいいよ」
怜莉はフライパンに水を入れてコンロに置き、ダウンキャビネットからパスタストッカーを取り出して、蓋を開く。
りんねは、怜莉に急に背を向けて、ローソファに立て掛けていたトートバッグの中を漁り出す。テーブルに二十三万円の入った封筒と二本の鍵を置く。
「……ごめんなさい。帰ります」
「え」
玄関に向かおうとするりんね。床にロングパスタが散らばり、急に手首を掴まれてバランスを崩したりんねがリビングの壁に背中をぶつけ、そのまま床に滑り落ちる。
「りんね!」
顔色を変え、酷く慌て、座り込む怜莉。顔を見せないりんね。
「りんね。……ごめん。……大丈夫? 痛かった……よね? 急にどうしたの?」
「……私が」
「え?」
「私がいつも間違えるから」
怜莉はりんねの手首を握ったまま、意味を捜して、言葉に詰まる。乱れた髪で少しだけ顔を上げるりんね。今度は返す言葉を捜す怜莉。
「……りんねもオレが何を考えている事なんて『わからない』よね?」
こくりと頷くりんね。
「……怜莉さんが帰宅時間を教えてくれたのって、もしかして会いたくないから時間を外してって意味で」
「いや、待って。其れは流石に……何で」
また顔を下向きに沈めたりんねを覗き込む姿勢で、躊躇いがちに「……もう少し」と云う怜莉。
「……りんね。もう少し待って。帰宅途中で考えても未だ上手く云いたい事がまとまらなくて。ただ、りんねには此処に居てほしいって思っているのは本当で……理由も未だ上手く」
怜莉はまた言葉が出なくなってしまう。
「……待ってくれる?」
訊ねられて、りんねはやがて、下を見たまま頷き、ゆっくりと顔を上げる。
其のタイミングで怜莉が多少迷いつつ、一呼吸置いて、そっとキスをすると、りんねは驚いて後方に跳ねた弾みで壁に背中をぶつけて、更に壁を滑り落ちる。
(え……どうして……え。どうして。あ。でも。え……初め……え。ど……)
「……りんね!?」
りんねの『声にしていない声』が聴こえる事に気が付く怜莉と、突然、意識が不意に茫然と遠くなっていくりんね。
りんねの真後ろで急に可視化される『秘匿』の印章の円から
[ SECRET ]
の文字が一文字ずつ崩れ落ちて消え始める。内円とアスタリスクも砂の様に流れ出し、それでも外円だけは辛うじて残っているものの、今はそれさえも、欠けて溢れ、少しずつ亀裂が入っていく。
「……え!?」
思わず声に出す怜莉。
「ちょっと待って! どうなってるの! りんね! 落ち着いて!? 待って! 何でそうなるの!?」
あからさまな異常事態を目の当たりにしたまま、其の場に力なく倒れ込みかけたりんねを反射的に抱き止める怜莉。
「待って! オレも落ち着くからお願い! りんね!」
りんねを必死に抱き締めながら、其の間もりんねの混乱している心の中の声は怜莉に聴こえ続けてしまう。
及ぼしていない筈の自身の『曝露』の影響を、それでも回収しようと懸命に、焦るしかない怜莉。きつく目を瞑り、尚も強く、背中に回した手で力強くりんねを抱き締め続ける。
りんねも遠のいていきそうになる意識の中、怜莉の呼び掛けに必死に意識を留め続け、腕の中で(……大丈夫)との応えを返す様に、怜莉の肩に震える指をひとつずつ置いてゆく。
長い時間。
何も聴こえない時間が過ぎ、怜莉がりんねの『印章』が安定した [ SECRET ] に戻っている事を一度だけ確認すると、以後は何も見ない。
「……ごめんなさい」
口にするりんねに「困らせたい訳じゃないから、落ち着いて。落ち着いて教えて」と怜莉は自分にも聞き聞かせ、もう一度「落ち着いて」と出来るだけ優しい口調で丁寧に訊ねる。
「もしかして、さっきの……初めて」
怜莉の腕に頷く振動が伝わる。
「……ね。待って。覚えてる? 2回目に会った時。ああいうところにああいう事を書き込んで、ああいうやりとりして、ちゃんと訳がわかって」
「……行けば何とかなるって思って……私がわからなくても相手はわかっているなら何とかなる……って」
「ならないよ! キスもした事ないのに何で売春なんかしようとしたの!」
怜莉がりんねを強く抱き締めると「絶対ああいうことしないで!」と大声で伝える。
りんねは硬直し、それから静かに怜莉の身体を離し、涙目で床に散らばったままのスパゲッティに視線を移す。
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい」

目が覚めたりんねは球体のウーパールーパーのぬいぐるみを小脇に抱えている。
辺りを見回して、ベッドから降りて小部屋を挟んだ居間を覗く。
「おはよう」
怜莉がローソファの背凭れから振り向いて、声を掛ける。
2007年10月8日。月曜日。体育の日。
「もう夕方だよ」
「え?」
りんねが居間の壁の時計を確認すると針は17時半を過ぎかける。
「怜莉さん。……昨日、私、パスタ食べた後、歯磨きした?」
「え……どうだっただろう」
「歯磨いて着替えてくる」
怜莉はメモ代わりに使っていた昔の日記帳を静かに開く。
[ 『印章』は使い方こそ変えてゆけるが、あくまでも固定された存在。形を変えない。生まれ持った物。消滅する事もなく、一切が何の変化もない。 ]
日記帳をテレビボードの引き出しに戻して、短い息を吐く。最初に目にした、りんねの不可思議な七分割の円と、動揺と共に崩れ壊れかけていく様を見せた『不安定な印章』を戸惑いと同時に思い浮かべる怜莉。
「怜莉さん」
白い無地のフーディに格子縞の白とグレーのロングフレアスカートから少しだけ足先が見える。
「ごめんなさい。こんな時間まで眠ってしまって」
ローソファに怜莉が戻ると、少し離れて、りんねも座る。
「脚、大丈夫?」
「うん」
りんねは裾を持ち上げたスカートから素足が見えた事を気にして、爪先迄覆い込む。
「昔の傷痕だから。あ。あのね、このスカート、セリさんに貰ったの。秋物だったし、昨日まで仕舞っていたの」
「大人っぽくて可愛いと思うよ?」
「……大人ぽくて可愛い?」
首を傾げる、りんね。
「いつもの服装は?」
「いつも? フーディだけ急にカジュアルで、基本、りんねはきちんとしている服が多いイメージ」
りんねは自分が着ているフーディを見て「子供っぽい?」と訊き、「兎」と怜莉が云う。
「袖口に兎の刺繍があるんだ。今、気が付いた」
「本当だ。ちっちゃい。私も知らなかった……去年は曲げていたから気付かなかったけど……」
「トートバッグに描いてある兎と同じ?」
怜莉に訊ねられて、「そういえばバッグの端っこにも小さいな兎が居た気が」と云い、寝室の方を振り向くりんね。
「……服、全部、持ってきたら? 運ぶの手伝うよ」と云う怜莉に「だったら……一人で大丈夫。全部で6着しか持ってないから」と答えるりんね。
怜莉は思わず何かを訊こうとして、忘れた風に振舞い、話題を変える。
「そういえば、りんねから貰ったチョコ、びっくりする程美味しくなかった」
「でしょ?」
「おなかすいてない? 何か作ろうか?」
「私も一緒に作っても……いい?」
怜莉は「何が作りたい?」とテーブルの上の木製の小物入れから黄楊の櫛とヘアゴムを取り出し、りんねの背凭れの後ろに回る。
「……怜莉さん。……明日の朝、帰っても……いい?」
「いいよ?」
りんねは灰色の髪を梳かされながら「私も怜莉さんと同じ髪型にしたい」と恥ずかしそうに云う。
「残念。オレの方が少し長い」「そうだね」と怜莉とりんねは会話をし、りんねは柔らかい声と、表情を怜莉に向ける。
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