第8話.ラプラスの悪魔

 


 11階のエレベータホールから廊下。ドアの前で、りんねは蟹の下がったストラップで束ねた四本の鍵を両手の指で広げている。

 黒いジャンバースカートの上に白いフーディを被った姿。

 気配と足音に顔を上げると「怜莉さん」と声を出す。


「今、帰り?」

 傍まで来た怜莉が訊ねる。 

  
「うん。怜莉さん、帰宅が十時頃になるって云っていたから」と返し、俯き加減になる。

「本当はどうしようと思ったの。でも怜莉さん、夕食作っておいてくれてるし、それに、あのね」

 りんねは鍵の束を片手に持つとキャンバス地のトートバッグの中を探り、個包装されたチョコレイトを二つ取り出す。


「私に出来るお礼。話していた美味しくないチョコレイト、怜莉さん、気になるって云っていたでしょう。だから二つ渡そうと思って」


 怜莉がりんねの手元を覗き込む。パッケージには油性ペンで数字が書いてある。


「あ。この数字はね。中身を全部数えて、毎日幾つ食べたら良いかなって順番で」


 一所懸命に説明するりんねに「貰ってもいいの?」と訊ねる怜莉。


「うん」と嬉しそうに渡す、りんねの真後ろに怜莉は視線を寄せる。


 りんねの『印章』が『秘匿』である事だけは確認しておこうとする。


 しかし、其れは、円を三本線で不規則な七分割に切り分けた不可思議な状態で、怜莉は自分に見やすいサイリウムカラーのオレンジに変換し、確認し直すが、色以外は何も変わらない。


 二重円の内円に三本の線が交差したアスタリスクを合わせた『七分割』が『秘匿』の印章。りんねの印章は、二重円もアスタリスクもなく、三本の線が単円を七つに分けている。


「怜莉さん?」


「あ。ありがとう、りんね」


 怜莉は慌てて差し出されたチョコレイトを片手で受け取ると、りんねは僅かに遅れて、はっとする。


 同時に後ろに浮かんでいる円から線が消え、二重円の内円に三本の線が交差したアスタリスクの正しい『秘匿』の印章が作り出されて、外円と内円の間に一文字ずつアルファベットが現れ始める。


 [ DELETE ] [ NO DATA ] 


 両方が消えると、次に現れた単語が固定される。


 [ SECRET ]


 変化する様子を思わず凝視して無言になってしまう怜莉。


「……怜莉さん?」

 りんねの呼びかけに「あ。これ、お土産」とフラットバッグを差し出し、手ぶらになるとポケットからキーケースを取り出す。

 玄関に入り、上り框に座る怜莉。


「りんね、先に部屋に入ってて。ショートブーツ脱ぐのに時間かかる」


 頷いて、ミュールを脱ぎ、開けっ放しの居間のドアの向こうに行くりんね。


「Secretの前にDelete?……削除……」


 考える怜莉の結んだ長い髪が肩から前方に流れる。



 ローソファとテーブルの間に立つりんね。アウターをポールハンガーに掛ける怜莉。テーブルに置いたフラットバッグの中の白い箱。


「クラムチャウダーをソースにして、ロングパスタと合わせて……クリームパスタにする?」

「……うん」


「お土産は杏仁豆腐。食べる? とりあえず冷蔵庫に入れておく?」


 りんねは取り出した箱をキッチンに立つ怜莉の隣に持っていく。


「冷蔵庫、開けてもいい?」

「うん」

「あのね。コンロの使い方を教えてもらってもいい? パスタはどうしたらいいの? 自分でやってみる。怜莉さんは休んで?」


 りんねは3ドアの冷蔵庫を閉じながら云う。


「いいよ。別に」


 怜莉はフライパンに水を入れてコンロに置き、ダウンキャビネットからパスタストッカーを取り出す。


 りんねは蓋を開ける怜莉に急に背を向けて、ローソファに立て掛けたトートバッグの中を漁り出す。それからテーブルの上に二十三万円の入った封筒と二本の鍵。


「……ごめんなさい。帰ります」


「え」 


 玄関に向かおうとするりんね。床にロングパスタが散らばり、急に手首を掴まれて、バランスを崩したりんねが居間の壁に背中をぶつけて、そのまま床に滑り落ちる。


「りんね!」


 顔色を変え、酷く慌て、座り込む怜莉。顔を見せないりんね。


「りんね。……ごめん。大丈夫? 痛かった……よね? どうしたの……」


「……私が」


「え?」


「私がいつも間違えるから」


 怜莉はりんねの手首を握ったまま、言葉に詰まる。乱れた髪のまま、少しだけ顔を上げるりんね。黙って、言葉を捜す怜莉。


「……りんねはオレが何を考えているのか、わからない、んだよね?」

 りんねはこくりと頷く。


「怜莉さんが帰宅時間を教えてくれたのって、会いたくないから時間を外してって意味で」


「いや、待って。其れはさすがに何で」


 また顔を下向きに沈めたりんねを覗き込む姿勢で怜莉が云う。


「……もう少し待って。帰宅途中で考えても未だ上手く云いたい事がまとまらなくて。ただ、りんねには此処に居てほしいって思っているのは本当で……理由も未だ上手く」


 怜莉はまた言葉が出なくなってしまう。


「……待ってくれる?」

 やがて、下を見たまま、りんねは頷き、ゆっくりと顔をあげる。


 其のタイミングで怜莉がそっとキスをとすると、りんねは驚いて後方に跳ねた弾みで壁に背中をぶつけて、更に壁を滑り落ちる。


 (え? なんで? どうして? 何……。どういうこと。え。どうして? あ。でも。え? なんで。なんで……初め……え。ど


「……りんね?」


 りんねの『声にしていない言葉』が聴こえる事に気が付く怜莉と、突然、意識が不意に茫然と遠くなっていくりんね。


 りんねの真後ろのオレンジ色の『秘匿』の印章の円から 


 [ SECRET ]


の文字が一文字ずつ崩れ落ちて消え始め、内円とアスタリスクも砂の様に流れ出し、


 色は明るさを失いながら、それでも外円だけは辛うじて残っているものの、今はそれさえも、欠けて溢れ、少しずつ亀裂が入っていく。 


「……え」


 思わず声に出す怜莉。



「ちょっと待って! どうなってるの! りんね! 落ち着いて! 待って! 何でそうなるの!?」



 訳が分からない事態を目の当たりにしたまま、其の場に力なく倒れ込みかけたりんねを反射的に抱き止める怜莉。


「待って! オレも落ち着くからお願い! りんね!」


 りんねを必死に抱き締めながら、其の間もりんねの混乱している心の中の声は怜莉に聴こえ続けてしまう。

 及ぼしていない筈の自身の『曝露』の影響を、それでも回収しようと懸命に、焦るしかない怜莉はきつく目を瞑り、尚も強くりんねを抱き締め続ける。


 そして、りんねも遠のいていきそうになる意識を必死で留めて、怜莉の傍に戻そうと其の腕の中で(……大丈夫)との応えを返す様に、怜莉の肩に震える指をひとつずつ置いてゆく。

 


 長い時間。
 何も聴こえない時間が過ぎ、怜莉がりんねの『印章』が安定した [ SECRET ] に戻っている事を一度だけ確認すると、以後は何も見ない。


「……ごめんなさい」


 口にするりんねに「困らせたい訳じゃないから、落ち着いて。落ち着いて教えて」と怜莉は自分にも聞き聞かせ、

 もう一度「落ち着いて」と出来るだけ優しい口調で丁寧に云う。


「もしかして、さっきの……初めて」


 怜莉の腕に頷く振動が伝わる。


「……ね。待って。覚えてる? 二回目に会った時。ああいうところにああいうことを書き込んで、ああいうやりとりして、ちゃんと訳がわかって」


「行けば何とかなるって思って……私がわからなくても相手はわかっているから何とかなる……って」


「ならないよ。キスもした事ないのに何で売春なんかしようとしたの!」


 怜莉がりんねを強く抱き締めると「絶対ああいうことしないで!」と大声で伝える。


 りんねは硬直し、それから静かに怜莉の身体を離し、涙目で床に散らばったままのスパゲッティに視線を移す。


「……ごめんなさい。本当にごめんなさい」



 目が覚めたりんねは球体のウーパールーパーのぬいぐるみを小脇に抱えている。

 辺りを見回して、ベッドから降りて小部屋を挟んだ居間を覗く。


「おはよう」


 怜莉がローソファの背凭れから振り向いて、声を掛ける。

「もうお昼だよ」

「え?」


 りんねが居間の壁の時計を確認すると針は一時半を過ぎかける。


「怜莉さん。……昨日、私、パスタ食べた後、歯磨きした?」


「え……どうだっただろう」 


「歯磨いて着替えてくる」



 怜莉はメモ代わりに使っていた昔の日記帳を閉じる。 


 [ 『印章』は使い方こそ変えてゆけるが、あくまでも固定された存在。形を変えない。生まれ持った物。消滅する事もなく、一切が何の変化もない。 ]


 日記帳をテレビボードの引き出しに入れながら最初に目にした不可思議な七分割の『印章』と、

 動揺と共に崩れ壊れかけていく様子を見せた『不安定な印章』を戸惑いと同時に思い浮かべる。

「怜莉さん」


 白い無地のフーディに格子縞の白とグレーのロングフレアスカートから少しだけ足先が見える。

「ごめんなさい。こんな時間まで眠ってしまって」


 ローソファに怜莉が戻ると、少し離れて、りんねも座る。


「脚、大丈夫?」

「うん」


 りんねは裾を持ち上げたスカートから素足が見えた事を気にして、爪先迄覆い込む。


「昔の傷痕だから。あ。あのね、このスカート、セリさんに貰ったの。秋物だったし、裾を踏んじゃうから昨日まで仕舞っていたの」


「大人っぽくて可愛いと思うよ?」

「……大人ぽくて可愛い?」

 首を傾げる、りんね。


「いつもは?」


「いつも? フーディだけ急にカジュアルで、他はきちんとしている服が多い?」


 りんねは着ているフーディを見て「子供っぽい?」と訊き、「兎」と怜莉が云う。


「袖口に兎の刺繍」


「本当だ。ちっちゃい。去年は曲げていたから気付かなかったけど、今年はずっと見ていたのかな?」


「……服、全部、持ってきたら? 運ぶの手伝うよ」


「……大丈夫。全部で六着しか持ってないから一人で大丈夫」


 怜莉は思わず何かを訊こうとして、忘れた風に振舞い、話題を変える。


「そういえば、りんねから貰ったチョコ、びっくりする程美味しくなかった」


「でしょう」


「おなかすいてない? 何か作ろうか?」


「私も一緒に作っても……いい?」


 怜莉は「何が作りたい?」とテーブルの上の木製の小物入れから黄楊の櫛とヘアゴムを取り出し、りんねの背凭れの後ろに回る。

 りんねは灰色の髪を梳かされながら「私も怜莉さんと同じ髪型が良い」と恥ずかしそうに云う。


「残念。オレの方が少し長い」「そうだね」とりんねは柔らかい声と表情を怜莉に向ける。


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