第60話.Deviled crab



「じゃあ今は誰が東睡派のトップに」


 
「不在だね」


 訊ねる國村に答える蛍。


「僕や東睡派を危険思想と思うのは構わないけれども」と蛍は続ける。國村は冷めたコーヒーの入ったカップを持ち上げて、蛍の話に耳を傾ける。


「アダムやイブの教育の為、延いては世界に災禍を招かない為」 

 蛍もまたコーヒーを一口飲んで、話し始める。


「支配の円の下の住民のデータ。『集団にとっての悪』となる思想、言動の発見、対象者の監視、間引き。更には街、公共施設、駅、都市開発を舞台として『支配層の善』を押し付ける『中央派』に、消極性が強いだけの『東睡派』を悪と言われたくないよ?」


「災禍の阻止に必死な中央派からすれば、東睡派は安全圏に居る傍観者ですから」


 淡々と返す國村。


「でも蛍くんは傍観する当事者と意識付けた。巻き込まれるかもしれないと思えば、現場側の人間に情報提供して回避を請う様になる」


 くすくすと笑う蛍。


「中央派は、元東睡派と、初期メンバーに土地や商売を貰った人達。其の子や孫等から出来ているから対立しても良い事ないよね」


 蛍の言葉を訊いて「蛍くんも梶さんも見栄えが良いばかりに周囲から『ガーゴイルには丁度良い』って油断し過ぎなんですよ」と溜め息を吐く。


「周囲に油断させたのは双方の情報を『秘匿』してきた修治くんでしょ?」


「そんなつもりなかったんです。父が隠してきたものなんてどうでも良くて、知るつもりもなかった」


「でも異母弟の桜海くん、つまり『アダムの印章の持ち主』は知りたがった。不思議な話だよね?」


「父が亡くなった後に父の名前も初めて知りました。出生名は臥待 理。


数日前に『臥待姓』を調べたものの、どの手段でも『検索結果は見つかりませんでした』とメッセージ」


 國村はケーキの最後の一欠片にフォークを刺す。


「蛍くん。教えて欲しい事があるんです」


「なあに?」


「蛍という漢字が人名に使われるようになったのは1981年。蛍くんが生まれた後。蛍くんの本当の名前ってなんですか」 
「梶 省吾」
「え」
「冗談だって。相変わらず通じないよね? もしかして修治くんは僕の隠し事が名前に関してだって気が付いてから、ずっとモヤモヤしてたの?」


「……正直、悲しかったみたいです。訊けなくなってから、知ってしまうのは」


「修治くんのお父さんが、次の代表に梶さんを選んだ時、『中央』にいつまでもいる様な人じゃないって評して、訊いていた明珠くんは反応に困っていたの覚えてる?


虎の絵には『助けて』って書いてあるって道賢副住職から聞いたのも梶さんだよね? 『秘匿』が可哀想だから集めようって。今、修治くんの傍に居るのは辛抱強い人達ばかりだよ」


「蛍くん、何が云いたいんですか」


 皿にフォークを置く國村と、コーヒーを飲み干す蛍。


「修治くんと会う二年前。僕の親は事件を起こして行方不明になった。実際は被害者だったし既に死んでたんだけど、逃走中の容疑者だって名前も住所も出てさ。此の話は何度もしてるでしょ?」


 修治もコーヒーを飲み干して、ソーサーの上に置く。


「週刊誌に『息子のKくん』って書かれて、アルファベットでも漢字でも読みは同じ『ケイ』になるし、そもそも『蛍』は役所の誤受理で実は使えない漢字だった事も分かって。


椿瑠さんは改名する様に勧めてきたんだ。新しい名前は貴方を守ってくれるって。


悩んだ末に浅雨さんに相談したの」


「浅雨さんに? そんな古い付き合いだったんですか?」


「浅雨さんは干支の書の『戌の巻』まで読み終えている数少ない中央の元登録者。中央にも東睡にも属さず、人の悩みを訊く為に全国を回っていた時期があってさ。今の奥さん、糸施さんと再婚して、旅は終えた様だけど」


 説明すると、「コーヒーを淹れ直して来ようか?」と蛍が声を掛ける。断る國村。


「話を続けてください」


「名は我の由来。確立の一助。名前は源でもあり、存在を支える力ともなる。あなたが欲している物は何かというだけだ、と浅雨さんに云われたの」


 穏やかな蛍の表情を見て、國村は一度、口元を緩ませてから溜め息を吐く。「浅雨さんらしいですね。椿瑠さんを肯定も否定もしない」


「そうだね。だから僕は生まれてからずっと『萩原 蛍』だよ?


そんなさ。皆、言えない事や言わない事のひとつやふたつ抱えてるだろうけど、修治くんは僕に訊いてもいいんだよ? 僕の事で修治くんが悩んでるって、人伝に知ったら、僕だって悲しいだよ?」



「おじいちゃん。あのね、今日、幼稚園で、平和について勉強したの」


 机に向かう祖父に話し掛ける幼い鏡花。


「戦争の時、生まれてた?」

「おじちゃんは戦場には行かずに色々な本を調べる役割だったよ。外国語のものも多かった」

「本? 外国語? 鏡花は英語の挨拶と諺は少し習った」


「鏡花は誰にも読めなかった本も読めると思うよ」


 きょとんしている鏡花を撫ぜる祖父の掌。手元にある紙には[ 臥待 理 ]と書いてある。


「弟の名前だよ」


 鏡花はますます不思議な顔を見せる。


「少しでも早く謝るべきだったんだ。でも、おじいちゃんは会いに行けなかったんだ」 


 顔を上げて、表情を読もうとするものの、祖父の顔がわからない様子の鏡花。


「どうして?」


「おじいちゃんが於菟だからだよ」


 ぼんやりと突然、祖父が居た頃を思い出していたりんねは慌てて、視線を上げる。


「怜莉さん、アボカドって鋏で切っていいんだよね?」


 キッチン鋏の刃を開いて、僅か右斜め前にいる怜莉に話し掛けるりんね。料理用のデジタル温度計を持ったまま、真後ろを向く怜莉。


 瞬間。ジャキっと音を立てて、鋏が閉じられて、怜莉の長い髪を高い位置で結んだ、ひと束が宙に散らばって舞い、落ちていく。



「え?」


 怜莉の髪を切ってしまった事に気が付くりんね。驚いて何も云えなくなるりんねの鋏を握ったままの右手を掴み、逆に「大丈夫!」と云い切る怜莉。


「りんねは怪我しなかった?」


 怜莉の言葉に何度も頷くりんねは僅かに涙ぐんでしまう。


「……ごめんなさい」


 りんねのか細い声は怜莉の部屋に余韻を残さず、儘に消える。


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