第61話.根本的な帰属の誤り(草稿)


 怜莉はりんねの手を握ったままの自分の手の力を僅かに緩める。りんねもまた刃先の閉じた鋏を自分の方に心持ち傾けて、再び「ごめんなさい」とする。


「怜莉さんの髪」


 15cm程のほんの一束。意図せず、弾みでで切り落として、それでも床に薄く広がって散らばる様はあまりにも普段とは違う。見下ろすりんねの表情も暗い。


「……私、怜莉さんから色々な物を奪ってばかりで」


 りんねの右手首の力が不意に抜けて、再び強く握り引き上げようとする怜莉。しかし鋏を持ち、片手を上げたまま、りんねは其の場に膝から姿勢を落として座り込む。


「気にしないで」


「怜莉さん、高校生の頃から髪を伸ばしてるって。私が無くした傘も高校生の時から使っているって」


「大丈夫だから」


 「どうにかなるから」と足す怜莉。左手に持っていた温度計を調理台に置くと、怜莉はりんねの傍ら、目を合わせられる位置に屈む。手をおろし、膝の上に鋏を置くりんね。


「あのね。最近、オレもぼんやりしているし。りんねのせいじゃない。わかってくれる?」


 灰色の髪を揺らして、俯き、沈黙するりんね。


「ちょうど揚げ物をする所だったんだ。油が跳ねて危ないから、りんねはソファは居てくれる? 昨日、デビルドクラブって蟹のコロッケを作って……それでタイミングが悪いけど」


 少しばかり気まずそうにする怜莉。


「明日。りんねと一緒に水族館に行きたいと思ってる」


 驚いて、顔を上げるりんね。


「りんね、シオマネキが見たいって云ってたよね? 10日の約束だったけど、桜海が明日も車を使って良いってくれて」


「……私、迷惑掛けてばかりなのに?」


 首を振る怜莉。


「オレもだよ?」



 怜莉の髪を片付け終えると、一人、ソファに移動するりんね。合皮に置かれたピンク色の球体のぬいぐるみを抱える。上下をひっくり返すと蟹に見えるウーパールーパーのぬいぐるみ。ソファに座り、膝に載せる。   

 ローテーブルの上。怜莉の本に手を伸ばす。サンディグジュペリの夜間飛行。りんねはキッチンに立つ怜莉の後ろ姿を眺める。


 つい、うとうとしたまま、横たわっていたソファから身体を起こすりんね。


 テーブルにはブロッコリーと法蓮草、ベーコン、炒り卵のサラダ。アボカドとトマトのクロワッサンサンド。レモンのスープ。そしてデビルドクラブ。幾つもの皿が並べてある。


「……美味しそう」


 隣に座っている怜莉に興奮気味に話し掛けるりんね。


「作り過ぎた?」
「怜莉さん、いつも云ってる」
 微笑むりんねに怜莉も穏やかに微笑み返す。


「温かいうちに食べよう」


 手を合わせて「いただきます」という二人。


「私、また寝ちゃってた……」


「大丈夫? 今日は午前中からずっと働いていたんだよね」

 りんねの取り皿に楕円形のデビルドクラブを一つ載せて、渡す怜莉。受け取るりんね。


「あのね。今日、朝、図書館の帰りに……迷子になっちゃったの。それで怜莉さんの職場の方向に行っちゃったみたいで」


「夕方、千景からメールが来てた。大通りまで案内したって。その後は大丈夫だった?」
「うん。……怜莉さんの職場の人達、優しいね」
「そうだね」


 怜莉は答えながら自分の取り皿にはクロワッサンサンドを載せて、齧る。


「千景の居る部署は割合忙しいんだ。昨日と今日は娘さんの送迎で、スケジュール調整して余裕があったみたいで」


 黙ってしまう怜莉。


「オレの方はさ。月単位で大体の予定があって、今週、翌週って振り分けて、何もする事が無い日も多くてさ」


 揚げ物を箸で持ち上げたまま、元気の無い怜莉をりんねは不安げに眺めて「えっと。えっとね」と一生懸命に話そうとする。


「私も5月から8月の終わりまで、週2回、夜も働いていたでしょ? お客さんが来る予定がある日もあるけど、誰も来ない日もあるの。でもね。セリさんは『此処に居る事が仕事』って云うの」


「そっか」


 怜莉が一瞬、柔らかい表情を見せると、りんねはほっとした風にデビルドクラブにナイフを入れ、フォークを刺した一口を口にする。


「……美味しい」

「良かった」


 りんねの明るい顔を見て、嬉しそうに笑う怜莉。クロワッサンサンドを半分食べると、自分の皿にもデビルドクラブを載せる。


「そういえば、りんね、出会い系サイトには登録したままだったよね?」


 食事の途中で急に訊ねる怜莉。


「あ。料金プラン? パケット? ちょっと使うだけなら大丈夫って訊いたの。ちょっと使ったから、あのままにしていて」
「だったら、オレのパソコンから登録解除する?」


 ブロッコリーと炒り卵を不器用にトングで挟んでいる途中。動きを止めるりんね。


「……何だろう。別に困らないのに急に寂しくなって」


 温かいレモンスープを口にしていた怜莉の動きを追うりんね。トングを置いて、りんねもスープカップの持ち手に指を通す。りんねが息を吹き掛けて冷ましている間。


「悪い大人はオレだけで十分だから」


 怜莉は聞こえない程の声でぽつりと呟く。テーブルの下。二人の足元にはウーパールーパーのぬいぐるみが転がっている。



「怜莉さん。寝ないの?」


 ノートパソコンを開いている怜莉に声を掛けるりんね。怜莉が譲ってくれてサイズを直した白いパジャマ。怜莉も今日はもうパジャマに着替えている。時計を見上げて、二十三時過ぎと確認する怜莉。


「サイト、退会出来たから」

「ありがとう」

「りんねは眠れない?」

 頷くりんね。


「うん。わかった。一緒に寝よう」


「明日、水族館もハロウィンも凄く楽しみ」


 ウーパールーパーのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、ベッドで横になっているりんね。怜莉は部屋の電気を消して、毛布を掛け直す。


「うん。ごめんね。本当は海が良かったのかもしれない。最初は電車で行ける所と思ったし」


 怜莉が掛け布団を持ち上げている間に、気が付いたら眠ってしまっている、りんね。


「りんね。初めて此処に来た時、録り貯めた映画を朝まで一緒に観てくれたでしょ? 退屈そうに見えたけど……眠かったんだね」


 そういうと隣で仰向けに寝転がり、怜莉は片腕で自分の表情を顔を覆い隠す。 



「いや本当。誰から助けたら良いの」


 深夜。古い一軒家の側に立ち、ケータイで話す梶。冷えた風が吹く中で紺色のコートを羽織っている。


「無理なんだって。全員助けようなんて」


 電話の向こう側で蛍も自宅の庭に立って返事を返す。目線の先にはビニールの縄跳びが2本、乱雑に木にかけてある。『2-2 萩原桜』『3-2 萩原桃』


「でも助けるつもりでしょ? 中央派の代表も継ぐ事になるだろうし」

「そっちはどうなの?」

「どうもこうもないよね。今だって東睡派が、梶さんと話さなきゃいけないとしたら、担ぎ出されるのは僕なんだし」


 梶が吐く溜め息が白い。


「単に椿瑠さんのお気に入りが僕だったって、だけなんだけどね。


何処が表か裏かは知らないまま、東睡派は『僕達』を単に椿瑠さんの気に入った子供達しか解釈していないし」


 蛍はパジャマの上に白いフード付きのアウターを羽織り、やはり寒そうに白い息を吐く。一軒家の窓はしっかりとカーテンで閉じられて、部屋の電気も消えている。


「明珠くんはさ。中央の登録者だったし、東睡派とやりとりする様になったのは最近だけど、情報源としてもサポートしてくれると思う」

「助かっているよ。今もケータイ貸してもらってるし。萩原さんとは基本、会いたくないけど、ファーストコンタクトがこういう内容の電話になるっても、ね?」

「昔からこういう感じになるんだって。修治くんが大変な思いしている間は皆、安全圏と思っちゃう。でも梶さんは気付いていたよね?」


「まあ。どうする事も出来なかったけどね」

「修治くんに情報共有出来る相手と信頼される様な積み重ねあり気でしょ?」


 蛍の言葉を聞きながら、真っ暗な山と澄んだ夜空を見上げる梶。


「とりあえず五代目のツルさんと会うと良いよ。非公式だけどね。


こっちで話通しておくから。


今、状況が早急で厳しいのは怜莉くん、で良いのかな」


 蛍はケータイを持ったまま、庭に落ちている如雨露を拾う。


「その代わり。梶さん。修治くんの事もちゃんと助けてあげてね?」



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