【小説】ラストモーメント⑨【短編連載】
「役(まもる)、生成市(いくなり)のおじいちゃんちに居たの?」
台所に立つ母は答えない。
「土曜なのに、もう迎えに行くの?」
少し離れて後ろに立つ統子。
「大学を辞めて帰ってくるから……代わりに役を……」
その言葉にも反応がなく、統子は表情を陰らせる。
「気が付いてよ……統子も役も日本中にいるの……糸扁(いとひら)から出れば普通の名前だって」
「早くしろ」
廊下から父が怒鳴り声を上げ、母は溜め息をついてエプロンの結び目を解く。
統子は自分を見ない父に声を掛けようとし、やめ、黙ったまま台所から出ていこうとする。ふいに父がぽつりと声を漏らす。「二十歳にもならんお前が」
「二十歳になったら何が変わるの? 二人とも、私と急に仲良く出来るの? 私とも、役とも、目を見て話してくれる様になるの?」
父の隣で立ち止まる統子。
「……統子は神様の名前」
「だったら私が山糸扁の全てを決める。続いている全てを終わらせる」
父は平手を上げ、思わず倒れ込む統子。しかし父は躊躇って手を降ろし、背を向ける。そして母に促され、家を出ていく。
統子はゆっくりと立ち上がる。
台所の調理台の上に置かれているノートに目が留まる。近付いて確認すると、統子が役の為に書き残していた製菓レシピのミルクセーキの頁。傍らにセットされているミキサー。
表には軽トラに乗り込み、シートベルトを締める両親。裏庭では【おおむらまもる】【おおむらとうこ】とそれぞれに書かれた青いプラスチックの鉢を並べ、一旦、閉めていた縁側の吐き出し窓に手を置く祖母。
統子がノートの上に手を載せた瞬間、カタカタと食器棚が揺れる音がする。
「維生(いお)くん」
トーコに髪を撫ぜられながら涙を溜めている維生。
「維生くんは山に登ったりしない?」
「え?」
トーコの手が僅かに震えている事に気付き、維生は抱きしめる手を緩める。そして視線を落とし、トーコの顔を涙目のまま覗く。
「……登りませんよ? 考古学ならともかく史学科は……多分」「そう」
声までも震えているトーコを緊張しながらも再び抱え込む維生。
「弟がね」
「え?」
「弟が山に登るの」
「……うん」
「毎日の様にね。危ない所ばかりだからやめてほしいのに、私には何も出来ないの。駄目って何度云っても……」
「うん」
「家族も仕事も持たなくて、何年も何年も経って、辛うじて民俗学者を名乗ってからは少しは食べていけて」
「え」
維生の声にトーコがびくっとして隙間から僅かに顔を上げると維生と目が合う。
「トーコさん……何歳だっけ」
「それ訊くの?」
トーコはそう云った後にくすくす笑う。
維生はその様子を見て一瞬呆気が取られるが、トーコからゆっくりと身体を離し、安堵して、柔らかい表情を返す。
(ずっと……) (見たかった顔……してる)
「ごめんね、弟の話ばかりして」
「ううん。話して?」
「うん。弟ね。
山から転落して大怪我して。退院した日に包帯を巻いた足で山に登って。もうどうしようもないと思って」
維生は今度は下からトーコの顔を覗き込んでいる。
「突き落としたの」
「え?」
「誰が誰を」
「私が弟を」
「えええ?」
トーコがくすくす笑って、切なげに続ける。
「それから……おかしな事になってしまって」
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