【小説】ラストモーメント⑧【短編連載】
赤い痣のある手が勢いよく襖を開ける。
和室に入ると、正座をして花瓶に活け続ける老婦人は動じる事もない。
北園は、近付くと小声で話し掛ける。
「統子(とうこ)を追い出せ」
傍らの洗面器の中では花鋏が夏櫨の枝を切り落とす。「何を言い出す」と老婦人は静かに返す。
「一昨日、本家の長が死んだ。死ぬ前の朝に俺だけ呼び出して、とんでもない事を教えやがった」
夏櫨を活ける老婦人。北園は腰を下ろす。
「大村の婆は他所から嫁いできた。何も知らない。此処の山神が女神なのも知らなかった」
老婦人は一度も顔を上げず、新聞紙の上から白いクチナシを選ぶ。
「統子は此処の山神の名前だ」
建具を開放した縁側に風が吹き降り、出したばかりの蚊取り線香の灰が舞う。
「五年も六年も死人の出ない時期があった。当時の長は、翌年に産まれた娘を統子と名付けた。勝利宣言をしたんだ。統子はもう神ではない、死んで人になった、という皮肉だった」
初めて老婦人が顔を上げる。
「山はまた崩れ始めた。翌々年から『役』という人柱の名をつけられる子供は馬鹿みたいに増えた。初代の統子は」北園が言う。
「初代の統子は十代の終わりに脚を無くした。次は腕。次は目。何十年も病に伏せ続け、死んでも尚も、眠っていると言われ、遺体が腐り落ちた頃」
男は老婦人の顔を見る。
「大村家に娘が産まれた」
「統子は頭が良い」
向日葵の咲く縁側で、祖母に角二封筒を渡される統子。中を見ると東京の大学の資料が入っている。
「山から出たいのも東京に行ってみたいって言っているのも役(まもる)でしょう」
「高校に入って買った自転車は三度も壊す。先週は風呂を空焚きで火事にしかけた」
統子は口に手に何かを考えている。
「統子が先に都会に慣れて面倒を見てやってくれるのが一番良い」
「トーコさん!」
維生(いお)が前方に倒れかけたトーコを咄嗟に抱き止める。
「大丈夫ですか?」
マットレスの縁を掴みながらトーコは「地震?」と不安げに訊ねる。
維生は顔を見ずに「まだ余震が続いてるから」と答える。
顔を真っ赤にしたまま、トーコを衝動的に抱きしめた様な姿勢から離れられなくなる維生。背に回した両手に知らずに力が入る。
山道を歩く統子の背を、ヘルメットを脱いだばかりの北園が驚いて見ている。周囲の人々の話し声が聞こえる。
「統子が戻ってきた」
「仲の良い姉弟だからな」
「弟からの手紙は放っておけないだろう」
大村家の居間。
統子が役に説明しながら様々な土産物を渡す。そこに引き戸の玄関扉を乱雑に開け、誰かしら入ってきた事に二人は驚く。
役は、赤い痣のある手に肩を掴まれ、後方に押し倒される。
「北園さん!」統子が事態を把握して止めに入るものの既に役は何度も殴られ、唇を切っている。
「なんで手紙なんか出したんだ」
「北園さん! 違うの。役から手紙なんて来てない!」
統子の叫ぶ声に北園が振り返る。
「役が知る訳もない話が書かれてあるの」
北園は台所と居間の間、敷居で虚ろな目をして立っている二人の母親に気が付く。
「もういいでしょ。一年も居場所を隠してあげたのよ。十分でしょう。統子も役も一生、山から出ずに普通に暮らして頂戴」
睨みつける北園のよりも先に役が立ち上がる。
「意味が分からない」と大声を出す。
「突然殴られるし! 一生ここで? 一生、山奥で? お母さん、何を言ってるの?」
「役も生成(いくなり)市の高校で思い出作りさせてあげているでしょう。あと一年。早く卒業して、ちゃんとした山糸扁(やまいとひら)の人間に戻って」
哀願する様な母親の表情に唖然とする役。
「……なんで話が一方的なの? なんでいつも会話にならないの? なんでいつも……何も訊いてくれないの?」
ふいに役が扉の開いたままの玄関から外に飛び出し、傍らの自転車に跨り、全力で漕ぎ出す。雨がぱらつく。
玄関灯に照らされた磨り硝子向こうの人影。レインコートのフードを脱ぎ、北園が入ってくる。
「見失った」
上り框に座っていた統子は一枚の広げた便箋を手に持って、顔をあげる。
スカートには何通もの手紙が載せられているのに構わずに立ち上がり、統子から封筒は次々と滑り落ちていく。
「北園さん。私の名前」
「オレは全部を知って統子は出ていったと思っていた」
「何も知らされてない。だから話を訊きに来たし、云いたい事を云いに……来たのに」
雨は音を立て土砂降りに変わり、夜明け頃に止む。
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