第1楽章.ドベネックの桶


 

 陽は落ちて、暗くなる部屋。


「私、今は誰だっけ」


 フローリングの上で黒い花柄のワンピースを着て、長い灰色の髪で顔を覆った『誰か』が横たわっている。傍らには『鴗鳥中学校 地毛証明書(控え)』と書かれた1枚の紙と生徒手帳。[ 1年3組 臥待鏡花 1994年12月18日生 ]の文字が読み取れる。


 2007年8月13日。月曜日。


 緑色の玄関ドアからベランダ迄が見通せる狭いワンルーム。壁に取り付けてあるハンガーラックには胸元に名字の刺繍が入ったセーラー服のトップス。ジャンバースカート。空間は余白が多く、生活感は皆無に近い。


 掃き出し窓の網戸越しの温い風の中、部屋は一段と暗くなる。「……仕事の日だった」と呟き、汗ばんだ身体を起こし、トートバッグの奧から化粧ポーチを取り出すとリップグロスを塗り直して、バッグと共に部屋を出ていく。


 新月の夜。


 年の始めまで違法店のあった地区はすっかり更地となり、ロープで細かく区切られている。


 怜莉は高い位置で一つに束ねた長い黒髪を揺らし、夏用の袈裟を着けている。長袖シャツをラフに着崩している背の高い梶の隣を並んで歩く。


「集まりには正装って云うのに、自分はネクタイもしてないし」


 梶に話し掛ける怜莉に「暑いんだよね。怜莉は見た目だけでも、らしくしてれば良いじゃん?」と答える梶。


「どうしようと煩いんですけど? 男の癖に髪を伸ばしてって。大体、此方に『調査』も『報告』も丸投げにして」


 更に続ける怜莉。梶はロープで区切られた土地の向こう側を、二十歳前後の女性が二人を追い抜く様に駆けて行った事に数秒遅れたタイミングで気が付く。


 灰色の真っ直ぐな長い髪。黒い花柄のレースのワンピース。キャンバス生地の大きなトートバッグ。そして背中から拡がり辺りを覆う黒い靄。周囲の音を飲み込み、空間は一瞬、歪む。


「見た?」

「え? 何を?」と梶の問いに答える怜莉。

「異常事態を察知出来るレベルのコントロールは必要って云ってるじゃん?」


 もう居ない女性が向かった更地の先。数軒の空き店舗の中、一軒だけ僅かな明かりのある、古い建物が残されている。


「あるうちに見ておくか」

「え? 何? ちょっと」

 帰路の方向を変えて進む梶を止めつつも着いていく怜莉。


 廃墟の様に静まり返る古く横長い建物。ポーチライトが鈍い色に灯る店の前で二人は足を止める。薄汚れた白い壁に一部は飾り煉瓦。道に対し、斜めに位置する窓のない古い扉。


 壁に固定された[ Indu ]の看板。


 ノブに手を置く梶に「開いてるの?」と怜莉が不審そうに云ううちに、梶はドアベルのカランカランと派手に鳴らす。


 カウンター内でロックグラスを傾けていた20代後半程度の女性はドアを開いた先を確認すると「こんばんは」と声を掛ける。


 続けて入る怜莉は女性を一瞥した後に小暗い店内を見回す。他に誰も居ない。梶は慣れた調子でカウンター席の中央に座り、促される怜莉も座る。


「チャージだけでいいよ。私も客のボトル飲んでるし」

 言って自分のグラスを置く女性。

「そっちのお兄さんは僧侶? コスプレ?」と興味を示すが、怜莉は静か過ぎる異質な雰囲気に困惑している。


「……仕事着」と答えかけると「髪もウィッグじゃないんだね?」と返すセリ。


 梶は構わずにセリと名乗る女性とボトルを選び始める。怜莉は斜め後ろ、モケット素材の赤いボックス席を眺めていると、正面に氷が詰まったアイスペールが音も無く置かれる。


 いつの間にか、先程の灰色の長い髪の女性が立っている。


「茉莉。ロック2つ」
「いや、オレは水割りで」


 怜莉の言葉に茉莉が後ろの棚からロックグラスとタンブラーを取り出す。


 梶は茉莉の背後から拡がる一面を覆う様な黒い円状の靄を再度確認すると「へえ」と感心した声を出して、更に続ける。


「気配しないよね? こういう店向きだね」


「静かな子でしょ? 盆にお客も来ないし、せめて私が騒がしく……って。あ。ごめん。リースやめて、おしぼりも無い」と話すセリ。


 グラスに氷を落とす茉莉に梶は「平仮名? 作家の森茉莉の?」と訊ねる。「森茉莉と同じ。でも読みはマツリです」と答えると茉莉はまた黙り込む。


「怜莉の莉と同じだね」


「温和"怜悧"の"悧"じゃないんですか?」

 ふいに顔を上げ、問いかける茉莉。


 目の前にグラスを置く茉莉の音もない動きを追う梶。

 しかし怜莉の視線は真っ直ぐに梶だけを向いたまま「梶さん、ちょっと個人情報」と云い、茉莉の様子を一切見ない。


「怜莉さ。此処まで無関心で鈍いと怜莉の方が面白いんだけど?」と苦笑する。


「……何の話? 面白いって、何が」
 次いで、茉莉にグラスを置かれ「ありがとう」と返す怜莉。 


「梶さんと怜莉くんって幾つ?」と訊ねるセリ。 

「オレはもうすぐ32。……怜莉は」
「今年、23歳です。今は22歳」
「茉莉は19歳だっけ?」
「え? はい」
 急に話を振られて、茉莉はセリの方を見る。
「もっと早く来てくれたら良かったね。客層、還暦前後でさ」


「……私は若い男性が苦手だから」


 云った後、茉莉はハッとして「そういう意味じゃなくて」と怜莉を見て慌てる。
 梶は茉莉と怜莉の噛み合わなさに苦笑した後、急にカウンター隅にある日めくりカレンダーの下方に書いてある旧暦[ 7月1日 ]の文字に懐かしそうに目を留める。



「梶さん。前年度の研究グループの件。外部寺院の勉強会資料で『印章』に触れた二箇所、発表前の削除確認終えたから」


 2007年10月1日。月曜日。寺院の事務室。何処かしら今も夏の余韻に引き摺られる。


 壁際の机のデスクトップに向かい、梶に話し掛ける怜莉。シャツにネクタイ姿の怜莉は一呼吸を吐いて、マウスから離す。

 立ったまま書類に目を落としてる梶は「お疲れ。でさ。手伝って欲しい事あるんだけど?」と呟く。


「小松の頼み事。先日の事件の犯人が出会い系サイトに登録してるかもしれないって。今朝、ブックマークの整理中に違和感あったんだよね?」

 云うと梶は怜莉の座るチェア越しにマウスに手を置き、ブラウザを開いて、サイトにアクセスする。


「……何で職場のパソコンに出会い系サイト入れてるの? オレ達の仕事、仏教系研究所の内部監査役でしょ? 第一、小松刑事の頼みでも、やっぱり警察の仕事は……」


「以前、内部調査で使ったサイトだよ」


 真後ろで答える梶に何かを云いかけて振り返りかけた怜莉は直ぐに画面へと向き直す。


「梶さん、其処で止めて」


 投稿画面をスクロールし続けていた梶は怜莉の声に反応し「あ。此の子ね」とアイコンに矢印を移動させて、クリックする。


 口元を隠す女性の実写アイコンと男ウケの良さそうな詳細プロフィール。


「怜莉さ。相変わらず、画面や書類だとオレより気付く精度高いよね?」

 チェアの斜めに動かして、席を立つ怜莉。高い位置で結んだポニーテールが反動で揺れ、キャスターの音が未だ響いている。

「……先日の事件って殺人未遂だったよね? 報道の見聞きだと逃げ隠れが上手いタイプに思えない」


「そうなんだけどさ」と返し、空いた席に座る梶。


「……怜莉が直接会って、『聴いて』くれれば早いのにな」

「また、其の話!? 全部、警察の仕事なのに? 『普通』じゃないのに? やっと『普通』に暮らしてるって思える様になったのに!? オレが『聴こえない』様になる迄……どれだけ大変だったか……梶さんが一番……知ってるでしょう?」


 勢い良く話始めて、段々とトーンダウンして行く怜莉。自分の右手で自分の左腕を掴み、俯いて、黙り込む。


「何年同じ会話しているの」とぽつりと呟く怜莉に「……最近、しんどそうだからね」と画面を見ながら、頬杖を付く梶。


「……手遅れだよ。事件を起こした後だし、理解して、慰めて、誘導して、反省させて……じゃあ、其の後は?」


 怜莉が独り言の様に問いかけている間に、梶はスクリーンショットの印刷を指定し終える。


「手遅れって何だろうね」と梶が云う。それから梶は「とりあえず小松と話してくる」と続け、隣の席に掛けていたスーツのジャケットを羽織る。動いていたプリンターの音が止む。


「梶さん、オレ、片付けたら帰る」
「わかった。お疲れ。良かったらサイト閉じておいて」


 梶が事務室を出て行き、怜莉は再び空席になったチェアに戻る。 


 サイトを閉じる前に念の為、トップページに戻り、更新ボタンを押す。羅列する投稿に溜め息を吐く怜莉の手が止まる。


 上段。新着のマークの横に漆黒に近い真っ黒で不自然に何もないスペースがぽっかりと、投稿欄の同じサイズに空洞化している。


「え」


 目眩がし、一度、視線を下げ、額に掌を当てる怜莉。目を閉じて深呼吸をする。


 再度、画面を見直すと、未設定のアイコンと、簡素過ぎるプロフィールが表示される。


【 茉莉 19歳 】


 詳細を開くが、一言しか文章がない。読み返して、敢えて声に出す。


「今から会える人を捜しています」



️ ️️ ️️ ️


️ ️️ コンビニ側の街灯も頼りなげの公園入り口。周囲の光が届きにくい隅に寄り、灰色の長い髪の女性が俯き加減で立っている。
 怜莉はゆっくりと近付いて、迷い、足を止める。彼女は変化の訪れる現実に居ない様に思い詰めた表情のまま、動かない。


「……何してるの?」


 顔を上げた茉莉は、スーツ姿にポニテールの怜莉の顔と全体を見て、声も出さずに驚いている。


「あ……待ち合わせがあって」


「それって32歳のセーゴって人? だよね?」


 言葉が返せなくなっている茉莉に怜莉は続ける。


「夏にオレが店に来たのは覚えてるんだね? 其の時、オレと一緒に居た梶さん。あの人のアカウントが『SEIGO』」
「……え」


 混乱している茉莉に「とりあえず何か食べよう」と怜莉は云うが「話が変わるから」と茉莉は小さく首を振る。


「最初からメッセージのやりとりしてたのはオレだし、話を変えるつもりはないけど? 誰でも良かったんじゃないの?」


 怜莉の言葉にまた俯いてしまう茉莉。沈黙の後、泣きそうな顔を隠して、無言のまま歩き始める怜莉の後ろを茉莉は必死に着いて行く。


 


 路地裏に入ると、青いドアを開ける怜莉。


 茉莉は、玄関前のワイン樽上に座っている等身大の骸骨模型を見る。開いたドアの向こう。店の中から聴こえる大音量の音楽と騒ぎ声。


 カラフルで壁も床も構いなく飾り付けられて、玩具箱の様な店内に更に戸惑う茉莉。怜莉は「メキシコ料理、初めて?」と顔を覗き込んで、声を掛ける。


 怜莉が頼んだ静かな壁際の、半個室。案内され、二人が席に着いた後も茉莉の目線は遠くで騒がしい人々と、派手な内装に向いている。


「何飲む? オレはコロナビール」
「あ、えっと……レモネード?」
「食べたい物は?」「ごめんなさい。分からない」「適当にお勧めから頼んでもいい?」


 怜莉がオーダーした後も、緊張の解けない茉莉。怜莉を直視出来ず、逃がす視線の先にはキャンドルや頭蓋骨の置物、林檎の小物入れの並ぶ棚がある。


「死者の日だね」


 怜莉の言葉にビクッとする茉莉。


「メキシコの祝祭だよ。祭壇がああいう感じでマリーゴールドが飾ってあって、もっと派手で」


 棚を眺める怜莉を見ながら、茉莉は「死者の日なのにお祝いなの?」と途端に好奇心が伝わる声を出す。


「死者と楽しく過ごすって日。来月になったら直ぐだよ」 


 怜莉の返答に口元に指を当てて考え込む茉莉。やがて「……メキシコの本でおすすめある?」と訊ねる。
「マヤ、アステカ……素直に歴史の本から入ると良いかも。そういえば本好きって云ってたよね?」
「一年位前から読む様になって」


 テーブルに置かれるレモネード。ストローで吸い上げた後、咳き込む茉莉は「……酸っぱい?」と呟く。「大丈夫? 無理しなくて良いよ?」とつい心配する怜莉。


 運ばれてくる料理を遠慮がちに一口より量を少ない口に運び、其の度に幼い顔で「美味しい」と声にする茉莉を見て、怜莉は思わず笑ってしまう。 


「実はオレも実際、さっき迄、緊張しててさ。本当は、オレよりもしっかりしてるし、歳上かもって」


 云われた茉莉は顔を下げる。恐る恐る「敬語、遣わないでって云ったの、歳上に見えたから? 今は?」と訊ねる。


 怜莉は「19歳でしょ? 年相応に見える」と返す。


️ ️


 店を出て、街灯が疎らに灯る住宅街に向かう。怜莉の後ろを茉莉が付いて歩く。



「オレの部屋で良いんだよね?」
 背中越しの怜莉の言葉に茉莉が浅く頷く。



 レンガ調の大きなマンション。アプローチポーチ。オートロックの共有玄関。エントランスホール。エレベーター内で11階のボタンを押す怜莉。



「……何……やってるの?」


「え?」


 壁スイッチを押すと、明るくなる怜莉の部屋。玄関から短い廊下が続き、開いているドアの先には、脚の無い黒い合皮のローソファが見える。


 茉莉はもたつきながら、踵を上げ、ミュールを脱いでいる途中、宙に浮いたミュールはコトっと音を立てて、タイルに落ちる。振り返って、揃えようとし、既に側に居ない怜莉の方を慌てて、捜す。


 部屋に上がると、怜莉は背を向けて、ネクタイをポールハンガーに掛けて、シャツをボタンをひとつ外す。


 視線を定める場所と正しい自分の立つ場所を捜して、立ち尽くしているのに落ち着かない茉莉。


 其の様子に気が付いた怜莉は、茉莉の近くに来て、何も云わず、右手首を掴み、加減は不安定で迷い緩むも、勢いごと、ローソファに押し倒す。


 軽く沈むソファの音。前に流れる怜莉のポニーテール。


「……ね?」


 灰色の髪を下敷きにして散らばせ、茉莉は涙目になり、顔を横にそむける。


「……自分がしてる事、わかってた?」


「ごめんなさい。……知っている人……だったか……ら」
 絞り出す様に声を出す茉莉の目には涙が溜まっていく。怜莉は直ぐに問い掛ける。


「違うよね? ああいうサイトでやりとりとして『男』と会うの、今日が初めてだったでしょう?」


 姿勢を起こして、茉莉のタイツを履いた脚を避けて、ソファに座る怜莉。


「座って。話を訊くから」


 茉莉は顎を上げて、掌で強く目元を抑えた後、片手を付いて、ゆっくりとソファから身体を起こす。


「ごめんなさい。……お金が足らなかったの」と茉莉は一言だけ云い、二人は静かになってしまう。


「働いていた店、取り壊されていたけど、その後は?」


「……面接が上手くいかなくて」「昼間は?」「働いてる」


 背を伸ばした怜莉はスーツの内ポケットからケータイと財布を出し、中から二万円を取り出す。目の前のローテーブルの上、茉莉の前に置かれる壱萬円札、二枚。


「待って。私、何もしていないのに」 


 言葉を流す様に、怜莉は財布とケータイを放置して、立ち上がり、キッチンで電気ケトルに水を入れて、深い溜息を吐く。


「ごめんなさい。お金は受け取れません」

「なんで?」


「何もしないのに受け取れない」


 怜莉はケトルを電源スペースに置き、スイッチを入れる。シンク側を背にし、ほんの少し離れた先の茉莉の動きを見つめる。


 怜莉の束ねた黒い髪はシンクの上で揺れ、膝を抱える茉莉の灰色の髪は顔を隠す。


「名前、本当は何て言うの?」 


「……りんね。平仮名でりんね」


「何時迄時間あるの?」


「朝9時」


 怜莉が悩みながら考えているうち。電気ポットの中は、コポコポという沸騰していく音に揺れ、停止音の後も未だ音は止まない。


「じゃあさ。撮り貯めてる映画、一緒に観てくれる? お願いを訊いてくれるなら、其れはお礼のお金」


 さっきまで茉莉と名乗っていた、りんねは、唐突な提案に不安そうに怜莉の表情を伺う。


 やがてフローリングに落ちている自分のバッグに視線を移すと、中から光沢のある緑色の財布を出して、二万円を仕舞い込む。


 翌日。


 光沢のある緑色の財布から二万円が取り出され、郵便局のボックス型、店外ATМの中に吸い込まれていく。入金と操作され、次に四万五千円とキーを打った通りの額が送金と表示される。

 通帳を確認し、ケータイを取り出す。


 三つ編みにした灰色の髪はセーラー服の胸元にある[ 臥待 ]という名字の刺繍を掠めて揺れている。鴗鳥中学校と印字された指定バッグを肩に掛けた中学生がガラスドアを開ける。


「臥待です。遅れてすみませんでした。今月分の家賃を入金しました」


 ATМの横で陽に晒されて、目立つ灰色の髪。


 其処には『茉莉』でもあり、咄嗟に『りんね』とも名乗った、12歳の幼い顔立ちを見せる『臥待 鏡花』という『少女』が居る。


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