第1話.ドベネックの桶
陽は落ちて、暗くなる。
違法店地区だった空き地は視界の外にも続く。所々をロープで区切られ、西の低い空の三日月は、残る僅かな店舗を照らさない。
「あるうちに見ておくか」
「ちょっと」方向を変えて進む梶に着いていく怜莉。
怜莉は高い位置で一つに結った長い黒髪を揺らし、夏用の袈裟を着けている。長袖シャツをラフに着崩している梶に並ぶ。
「集まりには正装って云うのに、自分はネクタイもしてないし」
「暑いんだよね。怜莉は見た目だけでも、らしくしてれば良いじゃん」
「どうしようと煩いんですけど? 男の癖に髪を伸ばしてって」
廃墟の様に静まり返る古く横長い建物。ポーチライトが鈍い色に灯る店の前で二人は足を止める。薄汚れた白い壁に一部は飾り煉瓦。道に対し、斜めに位置する窓のない古い扉。
壁に固定された[ Indu ]の看板。
ノブに手を置く梶に「開いてるの?」と怜莉が不審そうに云ううちに、梶はドアベルのカランカランと派手に鳴らす。
カウンター内でロックグラスを傾けていた20代後半程度の女性はドアを開いた先を確認すると「こんばんは」と声を掛ける。
続けて入る怜莉は女性を一瞥した後に小暗い店内を見回す。他に誰も居ない。梶は慣れた調子でカウンター席の中央に座り、促される怜莉も座る。
「チャージだけでいいよ。私も客のボトル飲んでるし」
「未だに営業しているのが違法なのね」
「それ! そっちのお兄さんはコスプレ? イベント帰り?」
自分のグラスを置くと女性は興味を示すが、怜莉は静か過ぎる異質な雰囲気に困惑している。
「……仕事着」と答え終わらないうちに「髪もウィッグじゃないの? 仕事で袈裟って僧侶? 髪は長くてもいいの?」と畳みかけられる。
梶は構わずにセリと名乗る女性と、ボトルを選び始める。怜莉は斜め後ろ、モケット素材の赤いボックス席を眺めていると、正面に氷が詰まったアイスペールが音も無く置かれる。
気が付くと灰色の長い髪の女性が立っている。
「茉莉。ロック2つ」
「いや、オレは水割りで」
怜莉の言葉に茉莉が後ろの棚からロックグラスとタンブラーを取り出す。
梶は茉莉の背後に拡がる、一面を覆う様な黒い円状の靄に気が付き「へえ」と感心した声を出す。
「居る気配しなかった。こういう店向きだね」
「静かな子でしょ? 音楽でもかける?」
「いいよ。立ち退き喰らって、特にこうでしょ?」
「まあね。他の店は閉業。盆に開けても飲んでるの私だけ。あ。ごめんね。リースやめて、おしぼりも無いや」
グラスに氷を落とす茉莉に梶は「平仮名? 作家の森茉莉の?」と訊ねる。「森茉莉と同じ。でも読みはマツリです」と答えると茉莉はまた黙り込む。
「知り合いじゃないでしょ? 他で働いた事ない子だし」
「怜莉の莉と同じと思って」
「温和怜悧の悧じゃないんですか?」
梶がグラスを置くと茉莉は顔を上げ、ふいに問いかける。
「人名には使えない漢字らしいよ」
「……梶さん、あの……個人情報」「茉莉ちゃん、気に入ったの? 場所変わる?」
梶は怜莉の顔を見ると「いつも通りに鈍感だな」と確認し、「怜莉がおもしろいから、このままで」と答える。
「おもしろいって、何が」
次いでグラスを置かれ「ありがとう」と返す怜莉。
「ダサい店で違法営業なの不安?」
「いえ。静かなのは理由がわかるし……ただ仕事で嫌な思いして。オレじゃ気に喰わないって云えばいいのに……」
梶がグラスを傾ける怜莉の顔を覗く。
「なにそれ? 無能な奴の嫉妬じゃない? 怜莉くんって幾つ?」
「今年、23。今は22歳です」
「茉莉は19歳だっけ」
「はい」
急に振られて茉莉はセリの方を向く。
「もっと早く来てくれたら良かったね。客層、ママと近い還暦前後でさ」
「……私は若い男性が苦手だから」
云った後、茉莉はハッとして「そういう意味じゃなくて学生が苦手で」と怜莉を見て慌てる。
「気を遣わないでやって」
梶は怜莉を見ながら苦笑する。
「定期的に思い出す」
寺院事務室。壁際の机に向かい、シャツにネクタイをした怜莉はデスクトップパソコンをマウスで操作をする。書類に目を落とす梶が「何の話?」と問い、「二か月前の寄合の」と答える。
「梶さん推薦でもオレに任せたくはない雰囲気」
云いかける怜莉はマウスに添えた手を止める。
「みつけたと思う」
口元を隠す女性の実写アイコンと男ウケの良さそうな詳細プロフィール。梶は立ち上がって、チェア越しに画面を覗く。
「赤い手形だらけだね」
「赤みがかった様にしか見えないけど」
「いいのいいの。とりあえず頼まれた容疑者見付けたし。一課に連絡しとく。確認できる範囲のスクショと印刷」
怜莉が作業をしているうちに梶の電話が終わる。
「怜莉が約束取り付けて『聴いて』くれば早いのにな」
「何年同じ会話しているの」
「最近、しんどそうだからね」
梶が云うと、怜莉は溜息を吐いて、デスクチェアの背凭れに体重を預け、伸びをする。
「誰の為にもならないのに? 此れ以上は警察の仕事なのに? 『普通』じゃないのに? また此の話? やっと『普通』に暮らしてるって思える様になったのに?」
「まあ、ずっとこういう話じゃないの?」
梶は「とりあえず小松と話してくる」と作務衣コートを羽織り、重ねた紙の束を手にする。
「梶さん、オレ、片付けたら帰る」
「わかった。お疲れ」
怜莉は念の為、サイトのトップページに戻り、更新ボタンを押す。
新着のマークの横に真っ白で不自然に何もないスペースが目に留まる。
「え」
一度、目を閉じて、深呼吸をする怜莉。
今度は未設定アイコンと、簡素過ぎるプロフィールが表示される。
【 茉莉 19歳 】
詳細を開くが一言しかない。読み返して、敢えて声に出す。
「今から会える人を捜しています」
️ ️️ ️️ ️
️ ️️
コンビニ傍の街灯も頼りなげの公園入り口。灰色の長い髪の女性が立っている。
怜莉がゆっくりと近付くが茉莉は俯いたまま、気が付いていない。
「何してるの?」
顔を上げた茉莉は、スーツ姿にポニテールの怜莉の全体を見て声も出さずに驚いている。「あ……待ち合わせがあって」
「それって32歳のショウって人? だよね?」
言葉が返せなくなっている茉莉に怜莉は続ける。
「前にオレと一緒に店に来た梶って、あの人のアカウント」
「……え」
困惑している茉莉に「とりあえず何か食べよう」と云うが、茉莉は「話が変わるから」と小さく首を振る。
「最初のやりとりからオレだし、話を変えるつもりはないけど? 誰でも良かったんじゃないの?」
また俯いてしまう茉莉の顔を覗き込む怜莉。沈黙の後、泣きそうな顔になっていくのを必死に隠し、後ろを歩く。
路地裏の青いドアを開ける怜莉。
茉莉は玄関前のワイン樽上に座っている等身大の骸骨模型を見ている。店の中の大音量の音楽と騒ぎ声。
カラフルで壁も床も構いなく飾り付けられて、玩具箱の様な店内に更に戸惑ってしまう。怜莉は「メキシコ料理、初めて?」と声を掛ける。
席に案内され、着いた後も茉莉は騒がしい人々と派手な内装に向いてしまう。
「何飲む? オレはコロナビール」
「あ、えっと……レモネード?」
「食べたい物は?」「ごめんなさい。見ても分からない」「適当に頼んでもいい?」
怜莉がオーダーした後も茉莉は緊張したまま。視線の先には幾つものキャンドルや頭蓋骨の置物、林檎の小物入れの並ぶ棚がある。
「死者の日だね」
怜莉の言葉にビクッとする茉莉。
「メキシコの祝祭だよ。祭壇がああいう感じでマリーゴールドが飾ってあって、もっと派手で」
棚を眺める怜莉を見ながら茉莉は「死者の日なのにお祝いなの?」と訊ねる。
「死者と楽しく過ごすって日。来月になったら直ぐだよ」
考えながら茉莉は「メキシコの本でおすすめある?」と訊く。
「マヤ、アステカ……素直に歴史の本から入ると良いかも。てかさ、本好きだよね?」
「一年位前から読む様になって」
テーブルに置かれたレモネードをストローで吸い上げた後、咳き込む茉莉。
「……酸っぱい」
そのうちに運ばれてくる料理に幼い顔で「美味しい」と微笑む茉莉を見て、怜莉は思わず笑ってしまう。
「気にしてたんだよ。歳上に見えて」
云われた茉莉は慌てる様に黙る。
「オレより大人びて見えるから」
茉莉は恐る恐る「敬語、遣わないでって云ったの、歳上に見えたから? 今は?」と訊ね、怜莉は「年相応に見える」と答える。
️ ️
店を出て、街灯が疎らに灯る住宅街に向かう。怜莉の後ろを茉莉が付いて歩く。
「オレの部屋で良い訳ね?」
振り返る怜莉に茉莉が小さく頷く。
レンガ調の大きなマンションのアプローチポーチ。鍵を開け、エントランスホール。怜莉はエレベーターの11階ボタンを押す。
「何……やってるの?」
「え?」
怜莉の部屋の玄関から続く短い廊下の真っ直ぐ先に、脚の無い合皮のローソファが見える。茉莉はミュールを脱いで上がり、勧められてローソファに座ると、怜莉はそのまま押し倒す。
「やっぱり何やってるの?」
髪を下敷きに散らばせ、押し倒されたまま、茉莉は涙目になり、顔をそむける。隣に座り直し、怜莉が云う。
「何してるの? 何やってるの?」
「ごめんなさい。……知っている人だったから」
茉莉は絞り出す様に云うが、怜莉は直ぐに問い掛ける。
「違うよね? 登録初めてでしょう?」
「座って。話を訊くから」
茉莉は俯いたまま片手を付いて、ゆっくりと体を起こす。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「お金が足らなかったの」と一言だけ云い、二人、静かになってしまう。
「働いていた店、取り壊されてたけど、その後は?」
「……面接が上手くいかなくて」
「昼間は?」「働いてる」
かがめていた背を伸ばした怜莉はスーツの内ポケットからケータイと財布を出す。中から二万円。茉莉の前のテーブルに置く。
「待って。何もしていない」
言葉を流す様に、怜莉は財布とケータイを置いたまま、立ち上がり、ジャケットをポールハンガーに掛ける。キッチンで電気ケトルに水を入れて、溜息を吐く。
「ごめんなさい。お金は受け取れません」「なんで?」
「何もしないのに受け取れない」
怜莉はケトルを電源スペースに置き、スイッチを入れる。そしてシンク側を背にする。顔を埋めて膝を抱える茉莉。怜莉の束ねた髪がシンクの上で揺れる。
「名前、本当は何て言うの?」
「……りんね。平仮名でりんね」
「りんね、何時迄時間あるの?」
「朝9時前後」
「撮り貯めてる映画、一緒に観てくれる? お願いを訊いてくれる、お礼のお金」
さっきまで茉莉と名乗っていた、りんねが未だ不安そうに怜莉をみつめる。
翌日。
三つ編みにセーラー服姿、公立中学校の名前入り指定バッグを肩に掛けた『鏡花』が郵便局のボックス型、店外ATМを操作し、四万五千円を入金している。
通帳を確認し、ケータイを取り出すとガラスドアを開ける。
ATМの横で陽に晒されては目立つ灰色の髪。
「臥待です。遅れてすみませんでした。今月分の家賃を入金しました」
其処には茉莉でもあり、咄嗟に、りんね、とも名乗った、12歳の臥待鏡花という少女が居る。
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