第2話.サリーとアンの課題


 

 中学校の職員室で男性教師から一枚の紙を受け取る鏡花。【 中間テスト時間割表 】


「臥待」


 鏡花を一瞬も見ずに教師は続ける。「テストだけ受けに来て、何の意味があるんだ」   
 答えられないまま頭を下げ、職員室を出る。


 教科書を抱え立ち止まった女子が「うわ。臥待じゃね? なんで来てんの?」と声を上げる。「やめなよ。気持ち悪い」と隣の女子が返す。


 鏡花は焦って職員室のドアを閉めようとして通学バッグを肩から床に落としてしまう。急に真後ろに居た、先程の二人とは別の女子生徒がすかさず鏡花のバッグを踏みつけ「踏んじゃった」と無表情で抑揚なく言う。


 後方の女子生徒達二人は顔を合わせると「臥待のバッグ踏むとか気持ち悪いんだけど?」「てか、クラス委員のやる事じゃなくない?」と小声で笑い出し、周囲の生徒達は何気なしに足を止め、一連の流れを追っている。「さっさと学校辞めろって」と過ぎていく別の誰かが吐き捨てる。  


 保健室に着く鏡花は、女性教師から各教科の試験範囲が書かれたプリントを受け取り、小さくお礼を言う。
「試験の日まで保健室登校、考えてみない?」


「先生! 臥待さんが来るなら誰も来なくなるけどいいの?」


 突然、話を遮る様に医療用パーテーションの向こうから大声がする。片肘を付きながらプリントを解く、声の主。廊下に居た校則通りの生徒達とは違い、長い髪を茶色に染め、おろしたまま。セーラー服のフロント布もスカーフも取っている。


 仕切りに隠れる12席程の並ぶ机の向こう。しかし、それぞれの席に座る生徒達は誰にも反応せず自学習を続ける。


「臥待さんって一学期のテスト、点数良かったじゃん? あれ、カンニングだよ? 私、見た」


 パーテーションの向こうから、誰かもわからない相手の投げる言葉。鏡花は驚いて、そちらを向くと同時に女性教師は肩を強く掴み、鏡花の灰色の三つ編みが揺れる。


「臥待さん、そんな事したの!?」 



 古く薄暗いマンションの入り口、ガラスドアを引いて、セーラー服姿に学校指定のバッグを肩に掛けた鏡花が入っていく。 
 【 連絡は管理会社にお願いします 】内側からカーテンで閉ざした管理人室の窓の張り紙。


 自立するオートロック操作盤に鍵を挿し回し、自動ドアの向こう、エレベータの上ボタンを押して4階で降り、緑色の玄関ドアにもうひとつの鍵を挿す鏡花。

 塗料の禿げかけた片方の鋏がない蟹のストラップが揺れる。 


「ただいま」


 フロアタイルを張った玄関からは直ぐにカーテンのない吐き出し窓と旧式のエアコンが目に付く狭いワンルーム。


 玄関横には簡易キッチン。コンロはなく、ガスの開栓はされていない。

 トラベル用の薄型プラカップの中に立て掛けられた歯ブラシ。傍らには歯磨き粉。シンク内にはマグカップがひとつ。食器洗い洗剤とスポンジ。


 物のないキッチンを過ぎると四畳半の部屋の全容が見える。


 玄関側と逆方向の壁に畳んだ一組の布団、段ボール箱。ナイロン製のボストンバッグ。プラスチックのバスケット。キッチンの裏側はユニットバスのドア。


 中央の小さな赤い折り畳みローテーブルの上には何冊もの教科書と、求人誌。


 鏡花の今、居る部屋の全て。


 テーブルの前。
 アッシュグレイの硬い生地のワンピースに着替えて正座している鏡花。


 前の住人が残していったものらしい壁付けハンガーラックにはセーラー服のトップスとジャンバースカート。


 折り畳みミラーの前に化粧道具を並べ、三つ編みを解き、櫛で梳く。真っ直ぐになる灰色の髪を今度は一つに結ぶ。下地クリームとアイブロウペンシル、リップティント。


 鳴らしても応答のないケータイ。


[ 今月分の家賃は今日払いました。更新料は5日まで待ってもらっています。 ]


 朝に送ったショートメールを削除し、キャンバス地のバッグに薄い化粧ポーチを仕舞い、立ち上がる。


 一階の管理人室を過ぎた時。


 鏡花は薄化粧に関わらず、雰囲気が変わり、幼さは何処にもなくなる。


 其処にはアンニュイな表情を見せる二十歳前後の女性が居て、間違えなく中学生だった鏡花はもう居ない。



 住宅街の、車が優に3台は止められる大きな家の正面にある玄関のチャイムを押す。ドアの横には【 真屋治療院 】と書かれたプレート看板。


「おはようございます。水野です」


 キッチンと洗濯機が並んで置かれたスタッフルームで作業用エプロンの後ろボタンを留めていると廊下から声を掛けられる。
「花ちゃん。田中さんにコーヒーを」


【 水野 花 】は胸ポケットのネームプレートのクリップを真っ直ぐに留め直すと、コーヒーメーカーにセットされているポットを取り出し、残量と温度を確認する。


 玄関に近い和室に「失礼します」と云って入り、テーブルにソーサーに載るカップを慎重に置く花。


 田中という常連の高齢女性は「花ちゃんのバイト、平日午後だけよね?」と声を掛ける。
「あ、はい」
 答えると女性は花の顔を凝視し、花は思わず慌ててトレイで顔を隠し、下を向く。


「隈が出来てる」「……くま? 熊?」
 女性はバッグから出した手鏡を突き出し「ほら。目元!」と教え、花が覗き込むと目の下が少し青い。
 トレイを畳に置き、両手で強く隈をこする。
「そんなことしたら化粧落ちるでしょう!」と止められ、驚く花。


「昨日、眠れなかったの?」
「いえ……映画を」
「映画!? 夜に一人で!?」
「あ、いえ。人、と一緒に……」
「……昔からそうよね。箱入り娘も年頃になれば、親に隠れて、男と夜遊びのひとつやふたつ」
「え? え」


 真屋が和室に入ってくると、花に「ほどほどにね」と含みのある笑顔で云い「先生、花ちゃん、いつから彼氏いるの?」と訊いている。花は唖然として勘違いを訂正出来ない。


 スタッフルームに戻ると花はノートに [ レモネード ] [ くま ] と書く。ホワイトボードの【 5日(金) 給料日 】【 7日(日・祝) 翔太運動会 】の文字に一瞬だけ目をやり、洗濯物を干しに勝手口から外に出る。


「お疲れ様でした」
 午後5時過ぎに仕事を終えた花は頭を下げて、治療院を後にする。


 途中、通りかかるドラッグストアに入るとサッカー台の上のナイトワーク専門無料求人誌を一冊、トートバッグの中に落とす。



 緑色の玄関ドアを内側に閉じると、四時間強を水野花と名乗って過ごした『臥待鏡花』は、誰から見ても明らかに子供の顔をしている。


 灯りも点けずに赤い折り畳みテーブルに雪崩れる様に突っ伏す。


「……私……何をしているのだろう……」


 カーテンのない部屋は窓の外の光源に仄明るく、鏡花の居場所に届く。
 付箋だらけの、あちらこちらに蛍光ペンの引かれた教科書を指先でパラパラと捲り、上体を起こし、片隅の国語辞典を手に取る。
「……レモネードって、レモンの」 


 テーブル上のチョコレートの大袋。傾けて落ちてきた個包装から㉘と㉙の数字を書いたものを捜す。

 一粒を口に入れながら、脇のトートバッグの求人誌を取り出した時、郵便受けに届いていた圧着葉書が落ちる。

 
 [ 火災保険 満期のお知らせと振込先の案内 ] 


 開いた葉書を見る鏡花の手が止まる。  

 真っ暗になった道で唯一明るい公衆電話ボックスの中。 求人誌を持って話す鏡花。


「はい。19歳です。……身分証は持っていなくて」 

 答えると受話器を置く。  



「花ちゃん。大丈夫?」
 洗濯機の中に両手を入れたまま、ぼんやりとしていた花に真屋が声を掛ける。


「買い物を頼んでも良いかな?」  
 作業用のエプロンを急いで外した反動で、上にずれる白いスタンドカラーのブラウスに黒いジャンバースカートを花は慌てて整える。


「ここら辺もすっかり住宅街だね。最近まで不良のたまり場だったのに」
「最近?」


 怜莉は運転席でハンドルを回す桜海に顔を向ける。

 袈裟を着けた桜海の左手人差し指には細い指輪がある。助手席の怜莉は白いシャツにチャコールグレーのジャケットを羽織っている。


「4、5年前?」
「それ、最近って云わないんじゃ?」
 信号が赤になり、桜海が車を止めると怜莉は直ぐ横の歩道を歩く女性に目が留まる。


「怜莉が綺麗なお姉さんを見てる」
「……お姉さんって。桜海とオレの3つ下だよ」  
「知り合いなんだ? 降りる? 声掛けてくる?」
「え、いい。仕事中だし。多分、向こうも仕事中だと思うし」


 書店の名前が入った袋を重そうに抱える、髪を一つ結びにした『りんね』の様子を窺っている怜莉。


「向こうが怜莉に気付いたら? 怜莉が可愛い女の子と一緒にいるってショック受けるかもよ?」  
「……桜海が女に間違えられるって名前の話だし。可愛いってのも童顔って意味じゃん。それに……そういうのじゃないから」
「ふうん?」  


 信号が変わり、車を走り出させる桜海。怜莉から見れば、りんねである水野花、の横を黒いセダンが通り過ぎる。



 金曜日。 


 郵便局横の店外ATMを操作し、通帳に六万円を入金した鏡花は其の中から二万円を送金、更に別の口座に一万五千円を送金。手数料も引かれて通帳残高は二万七千四百円。


 今月分の入った給料袋には千円札3枚と硬貨だけが残る。


 ATMの自動ドアが開くと壁面看板の下の電灯にアッシュグレイの硬い生地のワンピースと一つに結んだ灰色の髪が鈍く照らされる。
 ケータイを開くと鏡花は[ 母 ]にショートメールを送信する。


 [ 家賃の更新料と火災保険の更新料、振り込みました。遅くなってごめんなさい。 ] 


「……私……何をしているのだろう……」


 鏡花は口癖の様に同じ言葉を口にする。


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