第4楽章.怠け仕出し屋の数列
鍋敷き上のスキレットに、数切れの昨夜のピザ。隣のお椀には法蓮草の味噌汁。
「ピザとお味噌汁って一緒に食べてもいいの?」
「りんねが有りか無しかだと思うけど」
手を合わせて「頂きます」とりんねが云うと怜莉は「未だ熱いかもしれないから気を付けて」と声を掛ける。怜莉は一切れを箸で器用に持ち上げて、取り皿に載せ、渡す。
りんねは「ありがとう」と云って、息を吹きかけ、注意しながら少しずつピザを食べ始める。
「普段、あまり食事していなかった?」と訊ねる怜莉。
「空腹に慣れると、お腹がすいても沢山食べられない事ってあるみたいだから」
りんねは返答出来ずに静かになる。
「……今日は仕事は?」と声のトーンを落として訊ねる怜莉に「……仕事は平日だけなの」とりんねは返す。
「オレも基本はカレンダー通りだけどイレギュラーも多くて。今日は13時から18時」
「……私は、今回の三連休はやっておきたい事があって」
「りんねの好きにしたら良いし、一日中居てとも云ってないし、気が向いたら此処で好きに過ごして良いし、洗濯機も乾燥機もシャワーも自由に使っていいし、勿論、留守の時も気にせず居て良いし、だから」
「だから?」
「合鍵は持っていてほしい」
昨日の服と、怜莉にコンビニで買ってもらった新しい黒いタイツ。りんねは玄関でミュールを履くと、キャンバス地のトートバッグを肩に掛ける。怜莉は二本の鍵を渡す。
「気を付けて」
怜莉の言葉にりんねは深く頭を下げる。マンションの廊下に出て突き当りを曲がった後、後方で丁寧にドアが閉まる。

小さな折り畳みテーブルの端に積まれた教科書と資料集、学習ワーク、辞典。
中間テストの試験範囲を書いたプリント。開けっ放しのペンケース。付箋セット。消しゴム。個包装のチョコレートが僅かに残る大袋。
白いスタンドカラーのブラウスと白いデニムのロングスカートに着替えた鏡花はテーブルの上で、学校指定のワークブックにある[ 比例、反比例の活用 ]の問題を解き終える。
シャーペンを置き、付箋だらけの教科書を開く。全ての文字の上に引いた色とりどりマーカーが目に痛い。
「……学校で習ったやり方なのに」
閉じてしまうと、ワークブックの上に頭を載せて、シャープペンをまた握る。
「大切な事を……分からなくさせたい様な」
ルーズリーフに○を書いて、+を書き足して四等分。
「ピザ、美味しかった。お味噌汁と一緒に食べても美味しいのも……分かったのに……」
2007年10月6日。土曜日。
態勢を直すとルーズリーフを下敷きに載せる。タイトルエリアに[ 数学・教科書・簡易版21 ]と書き、鏡花は自分の為の新しい教科書作りの続きを始める。
17時を過ぎて暗くなる部屋の灯りを付ける鏡花。段ボール箱の横に置いたキャンバス地のトートバッグを見つめる。
18時を過ぎた頃。
怜莉のマンションのエントランス。薄化粧をした鏡花は操作パネルの前で広げた掌の上の二本の鍵を、立ち尽くしたまま、じっと見ている。
住民らしき男性が鍵穴に自分の鍵を挿して回し、玄関のガラスドアが開く。
鏡花もドアの開いているうちにエントランスホールに入り、上昇していくエレベータを見送る。やがて無人で戻ってきたエレベータに乗り、11階で降り、長い廊下を歩いて、一番端の怜莉の部屋の前に辿り着く。
玄関の呼び出しチャイムを押した後には12歳の鏡花の面影はなく、19歳のりんねとして、其の場に立っている。僅かな風に灰色の髪が流れる様に一瞬だけ浮く。ドアは内側から開かれる。
「……おかえり」
怜莉に云われて、りんねは無言で俯いて、二本の鍵を重ねて握ったまま、もう片手で肩紐をずらしてトートバッグを広げ、視線を落とし、銀行の封筒を持ち上げる。
「あ、あのね。返しに来たの。お金と」
二人は静かになってしまう。
「夕食、作ったから」
「え? え?」
ドアを開けたままの怜莉。りんねは其の顔を見たり、視線を逸らしたり、何度も繰り返すうちに、封筒をトートバッグの中に落としてしまう。
促されて部屋に上がってしまい、コンロに赤い鍋がかけてあるのに気が付く。
「仕事、予定より早くに終わってクラムチャウダー作ってた。ボストン風の」
「あのね、怜莉さん。返しに来たの。全部」
「もう食べる? テーブル拭いてもらえると助かる」
「怜莉さん。ちゃんと訊いて?」
「ちゃんと訊いてて、ちゃんと無視してる」
渡されたダスターを受け取ったりんねは困惑したまま後ろのテーブルを振り返る。其処にピンクの丸いぬいぐるみをみつけて、傍に行き、屈み込む。
ピンクの球体の両端には半円の濃いピンクの平たい布が左右対称に縦に三つ並んで縫い付けられ、其の上両端には球体と同じ薄いピンク色で細長いVの形の手が万歳をして伸びている。
「……蟹?」
「蟹?」
怜莉も側に来て、りんねの隣に屈むと「逆さまだ」と天地を逆にする。
「ウーパールーパーだよ」「ウーパー?」「えっとメキシコサンショウウオ?」
「……山椒魚」
りんねはトートバッグを床に鍵を仕舞い、ダスターをテーブルに置く。
両手で球体を持ち上げ、再び逆さまにし「蟹」と云い、
くるっと半回転させて元に戻すと「ウーパールーパー」と呟き、
また回転させ「蟹」と呟いて、「ウーパールーパー」と再度半回転させ、真顔のまま、テーブルに戻す。
様子を見ていた怜莉は思わず吹き出してしまう。りんねは怜莉に笑われて、心ともなく、やってしまった行動に急に顔を真っ赤にする。
「帰りに寄った雑貨屋で買ったんだ。りんねにお土産」
「……りんね、に」
角皿には鮭のムニエルと法蓮草のおかか和え。カフェオレボウルにはクラムチャウダー。お茶碗に白いご飯。
「怜莉さん、料理上手。全部、美味しい」
興奮気味に食べた感想伝えるりんねに怜莉は笑いながら「りんねは何でも美味しいって云う」と答える。
我に返った様に恥ずかしがるりんねは「そんな事無いよ。とても安いチョコレイトはびっくりするぐらい美味しくない」と返す。
「りんね。昨日、枕、抱えて寝ていたでしょう? ぬいぐるみがあった方が落ち着くのかなって。それでウーパールーパーを買ってきたんだ」
また何も言えなくなるりんね。
「明日の夜は出かけるから、クラムチャウダーは温め直して食べててもらえる?」
「クラムチャウダー?」
りんねはカフェオレボウルに入ったクラムチャウダーを木のスプーンで掬いながら、きょとんとして訊ねる。
深夜。怜莉のベッドの端っこ。怜莉が一度も袖を通す事なくサイズアウトした、白いパジャマをロールアップして着るりんねは、蟹の状態のぬいぐるみを抱き締めて眠っている。
髪を結んだままのパジャマ姿の怜莉は、広いベッドの隣に入り「19歳って……中身は未だ子供なのかな」と一言、零す。
りんねに半分掛かってずれてた掛け布団を引き上げる。自分も布団に入り、反対を向いて眠りにつく。

翌日夜。
2007年10月7日。日曜日。
怜莉は中華料理店に入り、アウターを店員に渡すと、回転テーブルのある個室に案内される。
「梶さん、遅れてくるそうです」
「なんで律が居るの?」
先に座って、メニュウ表を見ている律。白いカットソーにオレンジ色のジップアップパーカー、スレートグレイのパンツにレトログリーンのスニーカー。
怜莉を見ると「相変わらず黒い服ばかりですね」と声を掛ける。
「連休中の稼ぎ時に仕事の休み取れたの?」と怜莉は律に訊ねながらメニュウ表の置かれた席に座る。
「そうですね。息子の文化発表会だったので、昨日と今日は父親業を理由に休みにしてもらっていました」
答え終えて、怜莉をちらっと見た律は話を続ける。
「其れに梶さんが怜莉さんに奢る約束をしていると訊いて、折角なので、高いお店の個室を代理で三名予約しました」
「……梶さん、泣くよ、其れ?」
云うとメニュウ表を手に取り、眺める怜莉。
「怜莉さん、知ってます? 回転テーブルって中国生まれじゃないの」
「日本生まれ」
「ところが実は偶然にも二百年程前にアメリカで既に回転テーブルが誕生していたらしく、レイジースーザンと呼ばれていたそうです。此処の店の名前です」
「えっと。……つまり、どういう事?」
「意味は怠け者のスーザン。此処のお店のオーナーは日系アメリカ人のスーザン」
律はメニュウ表から顔を上げる。
「此処の店、凄く美味しいんです」
怜莉は、プライベートでも営業スマイルが抜けない普段通りの律を見て、テーブルに軽く片手を置くと、少しだけ回す。
「律もいるなら連れてくれば良かった」と云い、律はすかさず「誰ですか? 久し振りに彼女でも出来ました?」と返す。
「……云い方」と律に注意をする怜莉。
それから怜莉はりんねの話を始める。
「貴方、馬鹿ですか?」
律は眉間に皺を寄せて、丸い呼び出しベルを押す。呆れた様な口調で、しかし、きっぱりと言い放つ。
「第一に素性もわからない相手に共有玄関の鍵を渡している事。
第二に訳も使い道も訊かずに二十万もの大金を簡単に渡した事。
第三に、どうしてそんなに馬鹿なんですか?」
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