第5話.怠け仕出し屋の数列
鍋敷き上のスキレットに、数切れの昨夜のピザ。隣のお椀には法蓮草の味噌汁。
「ピザとお味噌汁って一緒に食べてもいいの?」
「りんねが有りか無しかだと思うけど」
手を合わせて「頂きます」とりんねが云うと怜莉は「待って。まだ熱いと思う」と声を掛ける。一切れを箸で器用に持ち上げると、取り皿に載せる。
りんねは「ありがとう」と返して、息を吹きかけ、注意しながら少しずつピザを食べ始める。
「普段、あまり食事してなかった?」と訊ねる怜莉。
「空腹に慣れると、おなかがすいても沢山食べられない事ってあるみたいだから」
りんねは返答出来ずに怜莉の顔をみつめる。
「今日は仕事は?」
「……平日だけなの」
「オレも基本はカレンダー通りだけどイレギュラーも多くて、今日は13時から18時位」
「……私は、今回の三連休はやっておきたい事があって、だから」
「りんねの好きにしたら良いし、一日中居てとも云ってないし、気が向いたら此処で好きに過ごして良いし、洗濯機も乾燥機もシャワーも自由に使っていいし、勿論、留守の時も気にせず居て良いし、だから」
「だから?」
「合鍵は持っていてほしい」
昨日の服と、怜莉に買ってもらった新しい黒いタイツ。りんねは玄関でミュールを履くと、キャンバス地のトートバッグを肩に掛ける。怜莉は二本の鍵を渡す。
「気を付けて」
りんねは深く頭を下げる。マンションの通路に出て突き当りを曲がった後、後方で物音無くドアが閉まる。
小さな折り畳みテーブルの端に積まれた教科書と資料集、学習ワーク、辞典。
中間テストの試験範囲を書いたプリント。開けっ放しのペンケース。付箋セット。消しゴム。個包装のチョコレートが僅かに残る大袋。
白いスタンドカラーのブラウスと白いデニムのロングスカートに着替えた鏡花はテーブルの中央で、学校指定のワークブックにある[ 比例、反比例の活用 ]の問題を解き終える。
シャーペンを置き、付箋だらけの教科書を開く。全ての文字の上に引いた色とりどりマーカーが目に痛い。「……学校で習ったやり方なのに」
閉じてしまうと、ワークブックの上に頭を載せて、シャーペンをまた握る。
「大切な事を……わからなくさせたい様な」
ルーズリーフに○を書いて、+を書き足して四等分。
「ピザ、美味しかった。お味噌汁と一緒に食べても美味しいのも……わかったのに……」
態勢を直すとルーズリーフを下敷きに載せる。タイトルエリアには、[ 数学・教科書・簡易版21 ]と書かれており、鏡花は自分の為の新しい教科書作りの続きを始める。
夕方18時を過ぎた頃、怜莉のマンションのエントランス、操作パネルの前に立ち、薄化粧の鏡花は二本の鍵を掌に広げて見ている。
住民らしき男性が鍵穴に自分の鍵を挿して回し、玄関のガラスドアが開く。
鏡花もドアの開いているうちにエントランスホールに入り、上昇していくエレベータを見送る。やがて無人で戻ってきたエレベータに乗り、11階。
長い廊下を歩いて、怜莉の部屋の前。
玄関の呼び出しチャイムを押した後には12歳の鏡花の面影はなく、19歳のりんねの表情で其処に居る。そして内側から開かれるドア。
「おかえり」
怜莉の言葉にりんね、は無言で俯いて二本の鍵を重ねて握ったまま、もう片手で肩紐をずらしてトートバッグを広げ、視線を落とし、銀行の封筒を底から持ち上げる。
「あ、あのね。返しに来たの。お金と」
二人静かになってしまう。
「夕食、作ったから」
「え? え?」
ドアを開けたままの怜莉。りんねは其の顔を見たり、視線を逸らしたり、何度も繰り返すうちに、封筒も鍵もトートバッグの中に落としてしまう。
促されて部屋に上がってしまい、コンロに赤い鍋がかけてあるのに気が付く。
「仕事、予定より早くに終わってクラムチャウダー作ってた。ボストン風の」 「あのね、怜莉さん。返しに来たの。全部」
「もう食べる? テーブル拭いてもらえると助かる」
「怜莉さん。ちゃんと訊いて?」
「ちゃんと訊いてて、ちゃんと無視してる」
渡されたダスターを受け取ったりんねは困惑したまま後ろのテーブルを振り返る。其処にピンクの丸いぬいぐるみをみつけて、傍に行き、屈み込む。
ピンクの球体の両端には半円の濃いピンクの平たい布が左右対称に縦に三つ並んで縫い付けられ、其の上両端には球体と同じ薄いピンク色で細長いVの形の手が万歳をして伸びている。
「……蟹?」
「蟹?」
怜莉も傍に屈むと「逆さまだ」と天地を逆にする。
「ウーパールーパーだよ」「ウーパー?」「えっとメキシコサンショウウオ?」
「……山椒魚」
りんねはトートバッグを床に、ダスターをテーブルに置くと、
両手で球体を持ち上げ、再び逆さまにし「蟹」と云い、
くるっと半回転させて元に戻すと「ウーパールーパー」と呟き、
また回転させ「蟹」と呟いて、「ウーパールーパー」と再度半回転させ、真顔のまま、テーブルに戻す。
様子を見ていた怜莉は思わず吹き出してしまう。りんねは、心ともなく、やってしまった行動に顔を真っ赤にする。
「帰りに寄った雑貨屋で買ったんだ。りんねにお土産」
「……りんね、に」
角皿には鮭のムニエルと法蓮草のおかか和え。カフェオレボウルにはクラムチャウダー。そしてはお茶碗に白いご飯。
「怜莉さん、料理上手。全部、美味しい」
興奮気味に伝えるりんねに怜莉は笑いながら「りんねは何でも美味しいって云う」と答える。
我に返った様に恥ずかしがっている風のりんねは「そんな事無いよ。とても安いチョコレイトはびっくりするぐらい美味しくない」と返す。
「りんね、昨日、枕、抱えて寝ていたでしょう? ぬいぐるみがあった方が落ち着くのかなって。それでウーパールーパーを買ってきたんだ」
何も言えないりんね。
「明日の夜は出かけるから、クラムチャウダー、温めて食べててくれる?」
「クラムチャウダー?」
りんねはカフェオレボウルのクラムチャウダーを木のスプーンで掬いながら、訊ねる。
深夜。怜莉のベッドの端っこで怜莉が一度も袖を通す事なくサイズアウトした白いパジャマをロールアップして
着るりんねは、蟹の状態のぬいぐるみを抱き締めて眠っている。
髪を結んだままのパジャマ姿の怜莉は、ベッドの隣に入り、りんねの灰色の髪を撫ぜて「子供だよね」と云う。
りんねに半分掛かってずれてた掛け布団を引き上げる。自分も布団に入り、反対を向いて眠りにつく。
翌日夜。怜莉は中華料理店に入り、アウターを店員に渡すと、回転テーブルのある個室に案内される。
「梶さん、遅れてくるそうです」
「なんで律が居るの?」
先に座って、メニュウ表を見ている律。白いカットソーにオレンジ色のジップアップパーカー、スレートグレイのパンツにレトログリーンのスニーカー。
怜莉を見ると「相変わらず黒い服ばかりですね」と声を掛ける。
「連休に休んで良いの?」と怜莉は律に訊ねながらメニュウ表の置かれた席に座る。「息子の文化発表会」
「それに梶さんが怜莉さんに奢る約束をしていると訊いて、折角なので、高いお店の個室を代理で三名予約しました」
「……梶さん、泣くよ、それ?」
メニュウ表を手に取り、眺める怜莉。
「怜莉さん、知ってます? 回転テーブルって中国生まれじゃないの」
「日本生まれ」
「ところが実は偶然にも二百年程前にアメリカで既に回転テーブルが誕生していたらしく、レイジースーザンと呼ばれていたそうです。此処の店の名前です」
「えっと。……つまり、どういう事?」
「意味は怠け者のスーザン。此処のお店のオーナーは日系アメリカ人のスーザン」
律はメニュウ表から顔をあげる。
「此処の店、凄く美味しいんです」
怜莉は、プライベートでも営業スマイルが抜けない普段通りの律を観て、中央のテーブルに軽く片手を置いて僅かに回す。
「律もいるなら連れてくれば良かった」と云うと、律はすかさず「誰ですか? 久し振りに彼女でも出来ました?」と返し「……云い方」と律に注意をする。
それから怜莉はりんねの話を始める。
「あなた、馬鹿ですか」
律は、丸い呼び出しベルを押しながら、きっぱりと言い切る。
「第一に素性もわからない相手に共有玄関の鍵を渡している事。
第二に訳も使い道も訊かずに二十万もの大金を簡単に渡した事。
第三に、どうしてそんなに馬鹿なんですか」
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