第3楽章.衆人に訴える議論

 


 怜莉とりんねが初めて待ち合わせをした場所。コンビニ側の公園。ぼんやりとした公園灯の下で顔を伏せ、蹲って動かないりんね。


 ライトグレーのスーツを着た怜莉は高い位置に結んだ黒髪を揺らし、隣にゆっくりと座り込み「りんね」と声を掛ける。


 怜莉を見る充血した赤い目、其の下に出来る濃い影、下ろした灰色の髪はぐしゃっと一部が盛り上がっている。
「……大丈夫?」

 怜莉の言葉に頷くりんね。
「うちに来る?」

 再度、頷くりんね。


 怜莉の部屋でヒールの低いミュールを脱ぎかけたりんねは前回此処に来た時に着ていた艶麗なフラワーレースの黒いワンピースを思い出す。即、躊躇い、ミュールに滑らせる様に足を戻す。
「どうしたの?」


 俯いたまま「……メイクも落ちてるし」と呟くりんねに「気にしてないって。来る途中、何度も顔見てるし」と答える怜莉。


「何度も? この前と一緒の顔?」


 怜莉を見上げるりんねは、明らかに二十歳前後の顔をしている。


 リビングのローソファ。昼間のままの地味なワンピースを着たりんねは小さく縮こまって座っていると、ジャケットを脱いで、りんねと少し離れた位置に座る怜莉。


「ごめんなさい。何かあった訳じゃないの。……服も着替えて、こなかったし」
「……前に電話番号を教えた時、聞き流しされたと思っていたけど」
「ごめんなさい。無意識に覚えてしまっていたみたい」

「11桁を?」
 聞き返す怜莉に「あ、あのね」とりんねは慌てて云う。


「ケータイ、私の契約じゃなくて、連絡先が必要で借りている物だから、もしかしたらよくわからない電話が掛かってくるかもしれない……けど……適当にはぐらかしてほしいの」


 ソファに凭れながら怜莉は「前の店の繋がり?」と訊ねる。
「もう無い。ママとは面接の時に会っただけだし、一緒に働いていたセリさんは元の職場に復職したし」
「看護師?」「……訊いたの?」
「全く。でも医療の話の時、知り合いに訊いた風ってアレンジしていたけど、経験談に聞こえたし……医療関係者に見えた」


「……私は? 私はどう見えたの?」


 思わず怜莉の方に身を乗り出すりんね。怜莉はりんねを見ながら一言を返す。


「全く分からない」


 音も無く黙り込み、元の位置に戻るりんね。


「もし。夜の仕事を捜しているのなら、暫くは難しいと思う」
 少しだけ反応するりんね。続ける怜莉。


「前に働いていた所、一帯ごと無くなっているけど、違法営業店の一部が表の歓楽街に入り込んだらしくて。警察の見回りで、関係ない店も神経すり減らしてる。


其れで、りんねが正直に前の職場を云っても未経験って云っても、素性が分からないって理由で雇われにくいと思う」


「そっか」
 りんねは髪で表情を隠し微動だにせず、黒いタイツを履いた膝越しの足先を見つめる。


「だから夜でもファミレスとか居酒屋とか、昼間を転職するとか」
「……お昼の仕事は変えられないの。奇跡みたいに条件とかタイミングが合って、どうしてだろう。雇えてもらえ……て」
 怜莉が横を向くと俯いたりんねは一瞬、涙を零しそうな顔をする。


「……お」
「お?」
「……おなかすいた」
 云うと同時に、りんねは僅かに顔をあげ、そして、涙をぼとぼとと落とす。


「え? え? ちょっと待って。何が作れたかな? 冷蔵庫、確認しないと……あ、ピザ。ピザ、頼む?」


 狼狽えて、キッチンに目線を変え、向かい立ち上がりかけていた怜莉が振り向くと、りんねは右掌で必死に目元を抑えている。



 テーブルに蓋を開けたMサイズのピザが入った二つの箱。
「頼み過ぎた?」
 訊ねるが答えないりんねの斜め前に缶コーラを置く怜莉。


「食べて」


 頷くも、りんねの両手は床に付いたまま。怜莉はウェットシートに入ったビニール袋を破り、指を拭うと、先に一切れを口にする。

 怜莉の様子を窺うりんねも怜莉を真似、同じ様に手を拭き、手前のピザに触れ、ゆっくりと引きずり出して、トッピングが落ちそうになる先を抑えながら持ち上げる。口元に運び、食べ始める。


「ね。一人暮らし?」


 発泡酒の缶を開けながら、怜莉が訊ねる。ピザを頬張ったままのりんねは飲み込んでから無言で頷く。
「だったら仕事がどうにかなるまでさ」りんねは食べかけのピザの耳と先を持って、怜莉の顔を見る。


「此処で一緒に暮らす?」


 驚いて口が半開きになるりんね。


「此処ね。住宅手当も出てるし、光熱費も大した額じゃないから。其れに自炊と買い物は好きで張り切って食材を買うのに使いきれなくて、だんだん冷凍庫に移動しちゃって。

 だからさ、りんねが住んでくれたら助かる事が多いし」


 りんねは持っているピザに視線を移す。


「もし今住んでいる所の家賃が負担なら解約して、引っ越してきても……」
「解約は出来ない」


 ピザ生地の上の合鴨のスモークを見ながら答えるりんね。怜莉は背凭れに寄りかかり、静かに発泡酒の缶を傾ける。


「怜莉さん。怜莉さんはどうして髪を伸ばしているの?」

「え」


 唐突な質問に、黒く長いポニーテールを揺らして前屈みになる怜莉。缶をコトッとテーブルに戻す。
 りんねは手に持った残りのピザを口に押し込んで飲み込む。

 答えを返せない状況に詰まり、無意識に怜莉の目線は正面のテレビボードの引き出しに向いてしまう。

立ち上がり、テレビボード迄行くが、顔は下に向けたまま。引き出しから銀行の封筒を取り出し、りんねの隣に戻ると、傍らに其の封筒を置く。


「二十三万入ってる。りんねにあげる」


 云うと再び、発泡酒の缶に手を伸ばす。


「そのまま持ち帰っていなくなっても良いし」


「……待って。どうして? 私、お金の話なんて、今日は何も」


 りんねは封筒を見ない様にしながら、震える指先で不器用に次のピザを引っ張り出す。


「……怜莉さん。怜莉さん、おかしいよ? 私も大概おかしいと思うけども、でも……どうして。酔ってるの?」
「まだ一本目も開けてないのに?」
 サーモンの載ったピザを一口だけ食べるりんね。よく噛まずにまた飲み込むと、缶を手に持った怜莉と目を合わせる。「怜莉さん」


「怜莉さん。私、もう」


 りんねは自分が突然、発した言葉に絶句し、視線を逸らし、しかしなお言葉が続いてしまう。辛うじて、制御して、諦めた様に、今度ははっきりと、りんねは口に出して、怜莉に伝える。


「少し、だけ休み……たい」



 洗面所に置かれた、濡れた新しい歯ブラシと、開封されて後一組入っている個包装のスキンケアセット。


 奥の部屋のベッドの端で白いパジャマの袖をロールアップして、枕を抱えて眠っているりんね。床に置かれたトートバッグには二十三枚の壱万円札が入った封筒。


 ジャージに着替えた怜莉は三本目の発泡酒の缶を開けながら、居間のローソファに座り、ノートパソコンでニュース記事を見ている。


【 元恋人の男(26)を殺人教唆の疑いで逮捕 ―――市祖母殺人未遂事件に新展 】
[ 先月末、―――市の閑静な住宅街で ] [ 現場となった功子さん宅に孫であるA子(18)は ][ 元交際相手である井口容疑者 ][ 「A子の浮気が原因で別れた。慰謝料を払え」と ][ 「祖母を殺せば、保険金が入る」と言われ ]


 タブを閉じる怜莉。


「……これ以上は警察の仕事」


 溜め息を吐いて云い「分かるのは裁判になって」と続けて、仕事用のリュックから50枚近くの往復葉書とペンケースを取り出す。



「大丈夫でしたか?」


「はい。まさか、バスの階段からスーツケースを落とすとは。あ。大丈夫でしたか。僕のせいでバスに乗れなかったんじゃ」 


「でも30分後には来ます」


 豪雨の中、バスシェルターの奥のベンチに座る怜莉と見知らぬ男性。男性は濡れたシルバーのスーツケースを拭き終える。


 高校生の怜莉。
 放っている襟足が少しだけ伸びている。白いTシャツとオリーブグリーンのズボン。そしてイエローのトランクと紺色の傘。


「遠くへ行くんですか?」

「高校の寮暮らしなので夏の帰省です」


 怜莉は高校一年生だった頃の記憶を思い出しながら、発泡酒を流し込む様に飲み込んでいく。



「朝は雨だったんです。小学校に通う姉妹の、姉は最後の歓迎遠足で妹は最初の歓迎遠足。

 午前中は授業になって、昼には晴れて、帰り道は姉と姉の友達と、妹との三人」


 怜莉は、屋根の下のバス停のベンチで突然、一人、話を始める男性に目を向ける。雨が弾かれた長袖のマウンテンパーカー。ずぶ濡れで傷むスニーカーが目立つ。


「友達と別れて30分後です。山を登っていく姉妹に畑仕事をしていた人が声を掛けている。『二人で遠足に行く』と答えたそうです」


「夕方になり、母親が帰宅すると玄関にランドセルが二つ並べてあって、姉妹の靴はありませんでした。


 みつかったのは夜十時近く。大雨の中、二人は山道の脇道に倒れていたそうです。

 妹は後遺症が残りましたが、今も4月23日にはテレビに出ます」 


 男性は虚ろな表情で怜莉を見て、そして怜莉の黄色のトランクに一瞬だけ目をやる。


「僕は初めての車は黄色にすると決めてたんです。

 でも社用車を何度も凹ませたり、傷だらけにするものだから、中古のシルバーにしろと周りから言われました」


 怜莉は黙って男性の独り言を訊き続ける。


「黒い不審車の情報が寄せられました。特定には三か月かかって、犯人でもありませんでした。

 僕は退職し、寮の退去も廃車も終えていました。

 新たに別の不審車の情報が何件も寄せられて、皆、黒い車なのは確かだと言うんです」


「おかしいでしょう。事故を起こした車はシルバーなんです」


「あれから16年。これから父親の十三回忌で田舎に戻ります。


 どうしたらいいのでしょう。


 実家に戻れば、自分は不幸だから仕方なかったと思います。横暴な父親から逃げた先で逃げて実家に逃げ帰って、また横暴に振舞われ、自分は不幸だと思い出しました。


 一番、不幸なのは自分だけです」


「次のバスに乗ったら、姉妹より姉妹の親より僕は不幸だから仕方なかったと思う筈です。

 子供二人を放っておいて仕事に行く親が悪いんです」


 ベンチから立ち上がった怜莉は黄色のトランクと紺色の傘を持って、男性の横に立つ。


「中里さん、反対側のバス停に行きましょう。警察署前のバス停で降りましょう。僕も付き合います」


「傘がありません。途中で壊れました」


「僕が持っています」


 男性は怜莉の目を真っ直ぐに見上げるとシルバーのスーツケースを手にして、バス停のベンチから立ち上がり、怜莉が歩道で広げた紺色の傘に入る。


「僕は君に名前を言いましたか?」


「『聴き』ました」と答える怜莉。



 ローソファに沿って、怜莉が背伸びをすると背凭れの裏に膝立ちで様子を窺っていたりんねはビクッとなり、怜莉も思わずに驚く。


「びっくりした。どうしたの?」

「ご……ごめんなさい。怜莉さん、寝ているみたいだったから」

「昔の話を思い出して、ぼんやりしてた」


 りんねはテーブルの上に散らばっている沢山の往復葉書を見る。壁掛け時計は6時50分の位置に針。


「夜中、仕事していたの?」


 訊ねるりんねに、怜莉は一葉の葉書を手にして、りんねに渡す。


「え? え?」「別に守秘義務のあるものじゃないから」


 【 橘 怜莉 】と筆ペンで書かれた文字にりんねの視線が行く。


「近況を返信面に書いて送ってくださいってお願い。相手に手書きを頼む以上、此方も個々への挨拶と名前を手書きにしてる」

「怜莉さんの仕事って、どういうの、って聞いても良い?」

「ただの研究施設の内部監査」

 困惑したまま、怜莉に往復葉書を返すりんね。


「りんね。オレが髪を伸ばしている理由、訊いたでしょう」

「……うん」


「子供の時から、『独り言』を話し掛けられる事がよくあって。ある日、中里さんって人に話し掛けられて」


「『独り言』なのに話し掛けられるの?」


「そう。でも昔の話だよ。今はもう違うんだ。それで……それから」

「それから?」

「……長い考え事をしていたら髪を切り忘れてしまって、ずっとそのまま」


 怜莉はテーブルの上を片付け始めながら、話をする。


「被害者が居て、加害者が居て、加害者は罪に対して罰を受けるべき流れになるけれども」


 文字が乾いている事を確認した怜莉は、全ての葉書をまとめ、ペンケースや名簿帳と共に仕事用のリュックに仕舞う。


「被害者が被害に気が付かなかったり、周囲にも罪であると理解されなかったら」


 りんねは、怜莉の要領を得ない話と表情を思案顔で読もうとする。


「怜莉さん……此れは何の話?」


 答えない怜莉。


「ね。りんね。朝食にしよう」


 2007年10月6日。土曜日。


 急に明るい口調で云われたりんねは暫くきょとんとするが、流れる様にそのまま頷く。



 2000年8月某日。


 警察署前行きのバスの車内。


 中里が座った前方の優先席の前にトランクを置いて、傘を持ち、立ったままの怜莉。

 走り出す直前の車窓。雨上がりの光る歩道に誰かが小さな段ボール箱を置いて、走り去る。

  中から出ようとして鳴く子猫の声をエンジン音がかき消していく。

 一瞬、降車ボタンを見る怜莉は視線を落とす。


「……ごめん。寮だから猫は飼えない。其れに今は……」


 ぽつりと呟く声はゆっくりと動き出すバスの車内アナウンスと混ざり、怜莉は視界の定まらない中里の顔を見下す。


 外の気配に気が付き、顔を向けると駆け寄って来て、立ち止まる人影がしゃがみ込む。

 若い女性が白い子猫を抱き上げている。


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 事件発生日:1984年(昭和59年)4月23日


 【適用罪名】

 業務上過失致死罪(刑法211条)
 道路交通法違反(ひき逃げ)


 【結末】


 出頭時(2000年)において、公訴時効完成。


 刑事訴追は不可能と判断された。


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