第3話.哀れみに訴える議論
マンションの4階。いつもより遅い帰宅時間に部屋は暗く、鏡花は照明のスイッチを押そうとする。電話が鳴っているのに気付き、トートバッグから慌ててケータイを取り出す。
表示された[ 母 ]の文字に更に慌て、着信キーを押す。
「あなた、何しているの?」
「……え」
「家賃の支払いが遅れて更新料は良いけど今月末の家賃はどうして髪の色は黒の先生もあなたお姉ちゃんなんだから健人が眠れなくて可哀相で個室は一日六千円もお父さんとおばあちゃんの収入しかないのに此処は田舎で車は三台も病院の駐車場は」
話し続ける母親はいつの間にか話を終えて電話は切れ、鏡花は何も伝える事もない。
玄関横のキッチンの前に座り込む鏡花。ずっと繰り返される同じ日を思う。昨日は明日にはならない。静かで、暗いワンルームをパンドラの箱に例える鏡花にとって、逃げ遅れたのは手元に明るい、ケータイ。
キーを押す音が響く。
鏡花は我に返った様にコールの鳴る前に急いで電話を切る。
自宅マンションのエントランスホール。
ケータイが一度鳴り、怜莉は知らない番号に折り返す。
鳴ってしまった電話に出る鏡花は「間違えま……」と言いかけたところで涙が零れてしまう。
「りんね?」
怜莉が覚えのある声に気が付いて呼びかけると、電話の向こうでは、何かしらの糸が切れしまった風に、それでも上手く泣けないままに号泣している、『りんね』の声が響く。
「りんね? 何処に居るの?」
怜莉は何度も呼びかける。
怜莉と、りんね、が初めて待ち合わせをした場所。コンビニ傍のぼんやりとした公園灯の下で顔を伏せて蹲っている、りんね。
ライトグレーのスーツを着た怜莉は高い位置に結った黒髪を揺らし、隣に座り込み、「りんね」と声を掛ける。
怜莉を見る充血した赤い目、下ろした灰色の髪はぐしゃっと一部が盛り上がっている。
「大丈夫?」頷くりんね。
「うちに来る?」再度、頷くりんね。
怜莉の部屋でヒールの低いミュールを脱ぎかけたりんねは前回此処に来た時に着ていた艶麗なフラワーレースの黒いワンピースを思い出す。ミュールに足を戻す。
「どうしたの?」
俯いたまま「……メイクも落ちてるし」「気にしてないって。来る途中、何度も顔見てるし」と怜莉は答える。
「何度も? この前と一緒の顔?」
見上げるりんねは、明らかに二十歳前後の顔をしている。
リビングのローソファに座る、昼間のままの地味なワンピースを着たりんね。ジャケットを脱いで、少し離れて座る怜莉。
「ごめんなさい。何かあった訳じゃないの。……服も着替えて、こなかったし」
「前に電話番号を教えた時、聞き流しされたと思っていたけど」
「ごめんなさい。無意識に覚えてしまっていたみたい」
「11桁?」
聞き返す怜莉に「あ、あのね」とりんねは慌てて云う。
「ケータイ、私の契約じゃなくて、連絡先が必要で借りている物だから、もしかしたらよくわからない電話が掛かってくるかもしれない……けど……適当にはぐらかしてほしいの」
ソファに凭れながら怜莉は「前の店の繋がり?」と訊ねる。
「もう無い。ママとは面接の時に会っただけだし、一緒に働いてたセリさんは元の職場に復職したし」
「看護師?」「知ってたの?」
「全く。でも医療関係の仕事してる風に見えたし、話も訊いた様にアレンジしていたけど……」
「……私は? 私はどう見えたの?」
思わず怜莉の方に身を乗り出す。怜莉はりんねを見ながら一言返す。
「全く分からない」
音も無く黙り込み、元の位置に戻るりんね。
「もし。夜の仕事を捜しているのなら、暫くは難しいと思う」
少しだけ反応するりんね。続ける怜莉。
「前に働いていた所、一帯ごと無くなったけど、違法営業店の一部が表の歓楽街に入り込んでしまったらしくて。毎日の様に警察の見回りで、関係ない店も神経すり減らしてる。それで、りんねが正直に前の職場を云えば避けられる率高いし、だったら未経験って云うと素性が分からないって理由で雇われにくい」
「そっか」
りんねは髪で表情を隠し微動だにせず、黒いタイツを履いた膝越しの足先を見つめる。
「だから夜でもファミレスとか居酒屋とか。昼間を転職するとか」
「……お昼の仕事は変えられないの。奇跡みたいに条件とかタイミングが合って、どうしてだろう。雇えてもらえ……て」
怜莉が横を向くと俯いたりんねは一瞬、涙を零しそうな顔をする。
「……お」
「お?」
「……おなかすいた」
云うと同じく、りんねは僅かに顔をあげ、そして、涙をぼとぼとと落とす。
「え? え? ちょっと待って。何が作れたかな? 冷蔵庫、確認しないと……あ、ピザ。ピザ、頼む?」
狼狽えて、キッチンに向かい立ち上がりかけた怜莉が振り向くとりんねは右掌で必死に目元を抑えている。
テーブルに蓋を開けたMサイズのピザが入った二つの箱。
「頼み過ぎた?」
訊ねるが答えないりんねの斜め前に缶コーラを置く怜莉。
「食べて」
頷くも、りんねの両手は床に付いたまま動かない。怜莉はウェットシートに入ったビニール袋を破り、指を拭うと、一切れを口にする。
様子を窺うりんねも怜莉を真似、同じ様に手を拭き、手前のピザに触れ、ゆっくりと引きずり出して、トッピングが落ちそうになる先を抑えながら持ち上げ、静かに口元に運び、食べ始める。
「ね。一人暮らし?」
発泡酒の缶を開けながら、怜莉は訊ねる。ピザを頬張ったままのりんねは飲み込んでから頷く。
「だったら仕事がどうにかなるまでさ」りんねは食べかけのピザの耳と先を持って、怜莉の顔を見る。
「此処で一緒に暮らす?」
驚いて口が半開きになるりんね。
「此処ね。住宅手当が出てるし、光熱費も大した額じゃないから。それに自炊と買い物は好きで張り切って食材を買うのに使いきれなくて、だんだん冷凍庫に移動しちゃって。だからさ、りんねが此処に住んでくれたら助かる事が多いし」
りんねは持っているピザに視線を移す。
「もし今住んでいる所の家賃が負担なら解約して、引っ越してきても……」
「解約は出来ない」
ピザ生地の上の合鴨のスモークを見ながら、りんねは答える。怜莉は背凭れに寄りかかり、静かに発泡酒の缶を傾ける。
「怜莉さん。怜莉さんはどうして髪を伸ばしているの?」「え」
唐突な質問の後、怜莉は缶をテーブルに置く。黒く長いポニーテールが動く度に揺れる。
りんねは残りのピザを口に押し込んで飲み込む。
怜莉は立ち上がると正面のテレビボードの引き出しから銀行の封筒を取り出し、りんねの隣に戻ってくると、傍らに封筒を置く。
「二十万とちょっと入ってる。りんねにあげる」
云うと発泡酒の缶に手を伸ばす。
「そのまま持ち帰っていなくなっても良いし」
「……待って。どうして? 私、お金の話なんて、今日は何も」
りんねは封筒を見ない様にしながら、震える指先で不器用に次のピザを引っ張り出す。
「……怜莉さん。怜莉さん、おかしいよ? 私も大概おかしいと思うけども、でも……どうして。酔ってるの?」
「まだ一本目も開けてないのに?」
サーモンの載ったピザを一口だけ食べるりんね。よく噛まずに飲み込むと、缶を手に持った怜莉と目を合わせる。「怜莉さん」
「怜莉さん。私、もう」
りんねは突然、自分の発してしまいかける本音に気付いて絶句し、視線を逸らし、しかしなお言葉が続いてしまう。辛うじて。制御して。りんねは諦めた様に今度ははっきりと口に出して伝える。
「少し、だけ休み……たい」
洗面所に置かれた、濡れた新しい歯ブラシと、開封されて後一組入っている個包装のスキンケアセット。
奥の部屋のベッドの端で白いパジャマの袖をロールアップして、枕を抱えて眠っているりんね。床に置かれたトートバッグの中には二十三枚の壱万円札が入った封筒。
ジャージに着替えた怜莉は三本目の発泡酒の缶を開けながら、居間のローソファに座り、ノートパソコンでニュース記事を見ている。
【 元恋人の男(26)を殺人教唆の疑いで逮捕 ―――市祖母殺人未遂事件に新展 】
[ 先月末、―――市の閑静な住宅街で ] [ 現場となった功子さん宅に孫であるA子(18)は ][ 元交際相手である井口容疑者 ][ 「A子の浮気が原因で別れた。慰謝料を払え ][ 祖母を殺せば、保険金が入る」と言われ ]
怜莉はタブを閉じる。
「……これ以上は警察の仕事」
溜め息を吐いて云い「分かるのは裁判になって」と続けて、仕事用のリュックから50枚近くの往復葉書とペンケースを取り出す。
「大丈夫でしたか?」
「はい。まさか、バスの階段からスーツケースを落とすとは。あ。大丈夫でしたか。僕のせいでバスに乗れなかったんじゃ」
「でも30分後には来ます」
豪雨の中、バスシェルターの奥のベンチに座る怜莉と見知らぬ男性。男性は濡れたシルバーのスーツケースを拭き終える。
高校生の怜莉。
放っている襟足が少しだけ伸びている。白いTシャツとオリーブグリーンのスボン。そしてイエローのトランクと紺色の傘。
「遠くへ行くんですか?」「寮暮らしなので夏の帰省です」
怜莉は高校一年生だった頃の記憶を思い出しながら、発泡酒を流し込む様に飲み込んでいく。
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