第52話.World Wide Web
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梶との電話を切ると、千景は手にしていた教員用指導書を開く。
「……ちょっと千景。保護してきてよ、その謎の家出娘」
立っている千景と真後ろの席でマウスをクリックする松田。
「家出して、怜莉くんちに住んでるんでしょ!?」
振り返って、松田は千景を見上げる。
「多分もう無理だよ。さっき、梶さん話してて思った。捜したら会えない」
「小学生の可能性もあるのよ!? 中学生でも此処に居る生徒と変わらない年齢でしょ!?」
指導書を開いたままの千景。
「実際会ったら、オレも二十歳前後に見えた。生徒に大人びている子も化粧の上手い子もいるけど、質感からして全然違う。ああはならない」
「だけど……実年齢が未成年なら……
怜莉くんは未成年略取とか誘拐になっちゃうじゃない」
「それでも怜莉のミス。都合の良い他者のもたらす物を考えるべきだった。怜莉もあからさまなの分かってたよ」
「どういう意味?」
「百音」
千景も松田を振り返る。
「此処の塾は主に不登校の子を受け入れていて、一番の特徴は『印章』を持った生徒しか居ない事。『印章』は影響力が良くも悪くも平均からはみ出した状態についた名前」
「何が云いたいの?」
「めちゃくちゃ勉強が出来る子か勉強が出来ない子か、めちゃくちゃ得意科目があるか苦手科目があるか。兎に角、極端。
次の授業はめちゃくちゃ勉強が出来て、めちゃくちゃ地理が得意な子の授業。今日、受け持てるのはオレしかない」
千景と目を合わせる松田。二人だけだった職員室のドアが開く。入って来た高齢の講師に千景が声を掛ける。
「あ。進路相談終わりました?」
千景は机の上の本やプリントをノートパソコンの上に置いて一緒に抱える。ドアの傍で高齢の講師と話し始め、やりとりに紛れて、相手にそっと訊ねる。
「先生、一昨年、鴗鳥中の対応していましたよね?」
「ああ、あそこ? 考えもやり方も古いままなんだよね。でも國村先生どころか教育委員会も指導出来ないし。あの辺、休止駅になった頃からおかしいんだよ」
「一昨年の資料、貰えますか?」「良いけど、次の休みまで待ってもらえる?」
「百音! 次の休みっていつ?」
手元のカレンダーを見て「11月3日! 文化の日!」と遠くから返す松田。
「そういえば八足くん、当分欠席だってよ? 夏目先生、昨日、何か訊いた?」
「あー女の子に振られたみたいで」
「馬鹿!?」
松田は卓上カレンダーを握ったまま、千景の話に大声を出す。
「千景の馬鹿! 無神経!」
「夫婦喧嘩ですか?」
怒っている松田を見ないまま、千景は「じ、授業の準備に行きます」と焦って荷物を持ち直し、職員室を出る。
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それから誰も居ない教室に移動する千景。教卓の上でノートパソコンを開き[ 平成十九年度十月 個別出席時間希望表 ]のファイルをクリックする。
そして昨日の昼過ぎの出来事を思い出す。
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「さっき、結構な数の消防車と救急車、走ってなかった?」「職員室に居ると音、聞こえないんで」
「え? え?」
キャスター付きの椅子が動いて音が鳴る。ケータイを耳に当てたまま立ち上がっている千景。
「夏目先生、どうしたの?」
ケータイを机に置いた千景に声を掛ける女性講師の他に、様子を窺う数人。
「あ、えっと、莉恋、娘が校外学習でこっちの市民センターに来てるんです。よく分からないんですが、体調不良で搬送された子が居て、莉恋も熱っぽいから病院に連れて行ってるそうで」
「え……大丈夫?」
「元々、平熱高めなんです。けど、状況が分からなくて。新山先生、次の授業の補佐、抜けても大丈夫ですか?」
「こっちは一人で大丈夫。松田さん、戻って来たら伝えておくから」
職員室の出入り口に飾ってある虎の水墨画。一瞬、目をやる千景。
「すみません。状況分かったら連絡します」
更に続けて数年前。國村との会話を思い出す千景。
「数週間、梶さんにも視てもらったのですが……端的に云うとトラブルメーカーだと」
「そんなはっきり云う必要ありましたか!?」
「父親が千景くんなら話が変わります」
「どんな風に!?」
「まあ、落ち着いてきいてください。莉恋ちゃんが持っている印章は『誘発』で合っています。
千景くんが云う様に莉恋ちゃんの身の回りでは良くない事が起こりやすい。
しかし莉恋ちゃん自身が危険な目に遭う訳ではない。ですが、千景くんが守り過ぎている」
「いや、だって娘ですし」
「提案ですが、少し離れた小学校に通学させてはどうでしょう。私立も幾つかは紹介出来ます。急に雨が降って来たら。電車が遅延したら。親以外のサポートを必要とし、自分でも考える良い機会になると思うのです」
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思い出し終える千景は[ 10月29日 月曜日 塾見学予定者 ]のページから鴗鳥中1年生の文字を消す。
「逃げ損ねた」
そう云うと再び千景は溜め息を吐く。
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真屋治療院の玄関を開ける寸前で立ち止まる鏡花。此処で働いている時の自分の顔を意識する。中学生の鏡花ではない、水野花と名乗っている時の顔。
「おはようございます」
戸を開ける花。応じる真屋。
「ごめんね。午前中から来てもらって。昨日の午後、休診にした分、忙しくなりそうでね」
「あ。大丈夫です。えっと……息子さんは大丈夫でしたか?」
花はミュールを脱いで、ロングスカートの裾を踏まない様に気をつけ、玄関に上がる。
診察室。昨日、10月29日の新聞を渡された花は、真屋の指差す記事の見出しを見る。
「市民センター? って、息子さんの保育園の側ですよね?」
「そう。敷地内の広場を園庭代わりに借りててね。昨日は校外学習の小学生も来てたんだ」
「救急車と消防車って何があったんですか?」
カラー写真に目を落としながら、不安そうに訊ねる花。
「園長の説明だと、最初に小学生数人が急にパニックになったみたいでね。園児達もつられてパニックになったみたい。原因も分からないし、不安がっている子が多いって保護者に一斉連絡が来たんだよ」
「……大丈夫だったんですか?」
診察室の本の棚に芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を戻す真屋。
「其れがね。息子が云うには、蜘蛛に驚いて大声を出した子が居て、周りの子達が大声にびっくりして、気が付いたら保育園のクラスの子達も泣いてんだって」
花は唖然として黙ってしまう。
「園児の話だし、暫くは原因不明、調査中だろうけどね」
微笑む真屋と、話を訊いて、一瞬、顔が幼くなってしまう花。
「蜘蛛って凄いんですね」と好奇の混じる声で小さく呟く。僅かに輝かせる目で記事の文字を追いながら、新聞を握り締める。
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