逆夢の浮橋


 空が軽い。遠く高い。何も知らなければ良かった。いつから長い説明を始めたのだろう。痛くなりかけては、上手に戻す。子供の頃は器用だった。だからこそ、私は真剣に死ぬべきだと思った。


 古い2階建ての一軒家。廃墟なのか確かめたくて、ドアノブを握りしめた途端。建物は砂の様に崩れ、音もなく、跡も気配も残らなかった。私は、ドアノブを玄関ポーチがあった土の上に置いた。それもすぐに消えた。


「ただいま」「夏期講習って盆もあるの?」
 帰宅すると、アイスキャンデーを食べているハヤに声をかけられる。
「確認してない」「今年、15年目の慰霊式なんだよね」「私、関係ないから」
 ハヤの後ろを通り過ぎる。振り返る。
「ハヤは行くの?」
 アイスキャンデーを咥えたまま、ハヤは私を見る。立ち上がり、冷凍庫を開ける。
「高校の先生にボランティア頼まれた」「暑いのにバカじゃないの」
 私は塾のバッグを床に置く。赤いアイスキャンデーを受け取る。
「男手が必要なんだって」「先生もバカじゃないの?怪力に男も女もないじゃん」「オレに云われても」
 二人でサクサクと音を立てて、アイスキャンデーに歯を立てる。エアコンの風が汗を冷やす。


 ハヤに塾のテスト結果を見せる。


 凪野 小町


 私の本当の名前は、時川 小町。凪野はハヤの名字。居間を見渡して、ハヤの名前を捜す。見当たらない。此処に居ないのは、本当はハヤかもしれない。


 陽はまだ沈まない夕方。私はハヤとバスに乗った。大きな橋の前のバス停。下の河原の慰霊碑。
「バカみたい。バカじゃないの?」
 私は何度も呟く。頑丈な橋の歩道を歩く。
「早くどっちか決めなよ」
 足を止めないハヤ。髪が熱を帯びた風に吹かれる。
「早く決めてよ。ハヤの親、帰ってこれないじゃん」
 背中を見せたまま、私を見ないハヤ。傷んだスニーカーを更に傷付けて必死に着いていく私。
「小町はさ。オレと二人じゃ嫌?」
 ハヤの言葉に顔が赤くなる。足を止める。
「何云ってるの?ハヤのせいでこの街、めちゃくちゃなんだよ?」「オレのせい?」「塾の帰り、私の実家に行ったの。ドアノブを握ったら」
 こちらを見るハヤ。続ける私。
「家が一瞬でなくなった」「そっか」「バカ!ハヤのバカ!何人死んだと思ってるの?早く全員助けなよ」
 俯いて、ハヤの服の端を子供みたいに掴む。残念だなと思う。二人が今、大きな川の上の、大きな橋の上で、涼しくもない弱い風に吹かれている事も、テストの結果がどの教科も良かった事も、多分、志望校に受かりそうな事も、ハヤが決めた瞬間、全部、嘘になる。でも仕方がない。嘘になっても、どんな未来でも、この街の夕陽は沈むし、朝陽は登る。変わるのは影の数だけだ。私に悲しみは訪れない。


「小町の気持ちはオレしかわかんないよ」
 影になって、ハヤの表情はわからない。私はハヤの服を握った手を離せない。


 15年前。酷い豪雨だった。電車もバスも止まった。帰れない人達で駅はあふれかえた。たくさんの人達が大声を出して、怒っていた。拡声器を持った駅員だか、バス会社の従業員も大声で怒鳴り返した。何度も見た当時のニュース映像。
 一瞬、静まり返ったと思うと、一人の妊婦が一際、大きな声を出した。でも何を云ったかはわからなかった。


 雷と暴風と前が見えない程、窓を叩きつける雨。1台のバスの運転手は無線を切った。既にずぶ濡れになった人達が押し寄せて、ひしめくバスは道路の水溜りも石も、飛んで落ちたガラクタも撥ねて、暗い夜道を走り続けた。外は奇妙にも静かだったと、助かった人の回想。


 優先席に座った妊婦を潰さない様に周りは気を遣って立って、揺られる。
「何ヶ月ですか」「8ヶ月です」
 和やかな会話。我侭な会話。なんて自分勝手な会話。私は知る度に、頭痛がする。


「お別れだよ。ハヤ。私は私の為に泣いてくれた人を一人だけ知っている」
 何も返さないハヤ。
「ママは嘘吐き。何処の誰の子かもわからない私を身ごもって逃げたかった」「知ってる」
 私はハヤに触れた手を落とす。夜が始まる。車の往来が激しくなる。
「さよなら、ハヤ。1年間、ありがとう」「待って」
 ハヤは私の腕を掴む。心臓の音に何もかもかき消される。
「小町。このままで良い」「ハヤのバカ!」
 涙目で顔をあげる。ハヤはもう泣かない。


 あの日。勝手にバスを走らせた運転手。バス会社の謝罪会見。やり取りを見ていた周囲の声。私のママに騙された、同情の売買。


 私のママの為に、運転手は1台のバスの昇降口を開いた。結果。大勢が詰め寄せた。台風の中、走り続ける満員のバス。間もなくして、川に転落。犠牲者の数は多かった。私のママも命を落とした。


 バス会社の社長だったハヤの父親。幼いハヤに「お父さんはどんな人?」と訊く雑誌記者。答えられないハヤは泣き出して「赤ちゃんはどうなったの?」と云った。私は、ハヤの一家のその後の暮らしを想像出来ない。私にはスタートすらなかった。人生を何処でやり直すと訊かれてもわからない。ママがわたしを産もうとしなければ何も起こらなかった。ハヤの手が生々しく痛い。


 15年前。あの場所に妊婦は居なかった。居たのは数ヶ月前に堕胎した女性。私の考えたシナリオ。何も苦しくもない。悲しくもない。長い説明は終えてしまった。私は真剣に死ぬべきだと思った。ハヤもハヤの家族が苦しむ必要はない。責任はない。必要もない。完璧なシナリオに、完全な別れはない。


 私達は出会わなかった。


「ハヤ。会いたいって云ってくれてありがとう。もう良いから」
 私は掌でハヤの手の甲を包み込む。ママが遺した日記には中絶手術をやめた理由が書いてあった。ハヤもママに話し掛けた記憶がはっきりとある。


 人生を何処でやり直すと訊かれたら、ハヤは、わたしのママに話し掛けた日と答えれば良い。


 願い事を叶えられるハヤ。私と会いたいと願ってしまったハヤ。1年前から存在する私。辻褄が合わなくなっていく街。人。歴史。何もかもを飲み込んで、行き交う車のヘッドライトが私とハヤを何度も照らす。私は号泣して座り込む。


「どうして私なの?どうして」
 ハヤは私の腕を持ち上げて、するすると手首を辿り、ぎゅっと私と手を繋ぐ。

 橋の途中で折り返す。来た道を戻る。私達は街に居る。
「私にも苦しんでほしいの?」「いつかわかってくれると思う」
 ハヤは答えをくれない。明確に残酷な存在。私に生きる意味を突き付ける。最早、生きている感覚は曖昧になる。


 帰りのバスに私達は揺られる。わかっている。わかっている。この世界はどうしようとどうなろうと変わらずに地獄なのだ。どうせなら誰かと居たいんだ。矛盾は未完成。私はハヤが現世に呼び戻した、ハヤの為に生きる霊魂。


「愛してる、ハヤ」
 涙目を閉じて、後部座席でハヤの肩に寄りかかる。
「知ってる」
 ハヤの答えに安心する。明日は、この街の何処が何が誰が壊れようとも、私はハヤの安心した顔を見て、安心をする。


 

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