第21話.ハーディング現象

 


 廊下の床に置かれる一本の鍵。


「悪かった。桜海の部屋には入らない。開かずの間の鍵も返す。一階の応接間にもう一台机を置く」


 部屋の内側で襖に背を付けたまま、梶が螺旋階段を下りる音を、桜海は耳で確認している。


 二階は一階の半分の広さ。そして一階を見下ろす為に作られた柵付のキャットウォークに出た桜海は、千社札に囲まれる窓枠の外を見る。


 縦型のビジネスバッグをショルダーにして、南正門の石の鳥居から敷地を抜けるミディアムグレーのスーツを着た梶。


「怜莉」


 事務所のドアを開ける桜海に気が付く怜莉。


「朝から何があったの?」


「別に何も無い。ただ、最近、油断していたから」


「……何の話?」


 怜莉は返事もせず、事務所にも入ってこない桜海を怪訝に思いながらも必要な報告を済まそうとする。


「とりあえず、外回りは梶さんが引き受けてくれて、それで其のまま直帰するって」


「あのさ。怜莉はさ。車を買って、髪も切って、普通の仕事を捜して、結婚して、一軒家も買って、犬も猫も飼って、さっさと中央も辞めて、普通に暮らしたら良いと思う」


 木の建枠に右の頭をこつりとぶつけると、半分しか開けないドアの前で呟く桜海。


「あの。桜海? 何?」


「別に順序は関係ないからさ」


「あの……こないだは辞めるなって云って……真逆? あと猫が増えてる? えっと、何? 何なの?」


 僅かに顔を上げて、怜莉を見る桜海。


「怜莉はもう『人の真似事』なんてやめてさ」


「真似事?」


「其処だけ拾わないで」


 また下を向く桜海。


「怜莉だけだからね。何の目的も無いのに……此処に居るの」



 それから、りんねは鏡花だった頃の記憶の夢を見る。


 小学一年生の記憶がない鏡花が二年生になる。


 隣の席は転勤族と自己紹介したアン。アンの前の席には男子達から「情報屋」と揶揄される来実。



 来実は休み時間の度に振り返り、学校や地域に関する話をアンに教えて、其れは隣の席の鏡花にもよく聴こえ、鏡花の空白の一年を埋める手助けにもなってくれた。  


 そのうち、話にヨリが加わり、席替えの後になっても、四人で話す。


「一年生の時、鏡花ちゃん、大変だったよね」と来実が訊ねる。
「まおみか? 保育園の時、私も最悪だったよ」と代わりにヨリが答える。


「ヨリちゃん、あの二人と同じ団地だもんね? まじ性格終わってるよね」
 アンがクラスの中を見渡して二人を捜す。
「金髪がまおで、茶髪がみか。ケンカしてコンビ解散」と来実が話す。


「染めてる子が多くて覚えにくいね。鏡花ちゃんはアルビノ? って病気だっけ?」


「……わかんない。多分、違うと思う」と鏡花がワンテンポ遅れて返す。


「鏡花ちゃんだけ幼稚園だっけ?」とアンが続けて訊ねる。


「うん。えっとね、結構遠くの」とゆっくりと鏡花は説明を始める。


「最初は親戚の人が其の辺りに家も建ててくれる予定だったの」と云い、再び口籠る鏡花と覗き込む三人。


「あのね。えっとね。お父さんがあの辺りはお金持ちが多くていけ好かないって」


「お金持ちはお金持ちの近くに住むの?」と不思議そうに来実が頬杖を突く。


 二年生の終わりにアンはまた転勤で引っ越して、三年生でクラス替えがあり、鏡花はヨリと三年生も四年生も同じクラス。


「さっき、職員室に行ったら先生達が話してるのが聞こえて」


 鏡花の席まで来たヨリが沈んだ顔をして小さくぽつりと言う。


「来実ちゃんって覚えてる?」


「うん。二年生の時に同じクラスだったよね。ヨリちゃんのママが作ったシュシュ? で、お団子頭にしてて」


「ママが作った奴だっけ。鏡花ちゃん、記憶力良いよね」


 感心しているヨリに照れてしまう鏡花は「……丸覚えだよ」とよく分からない返事をする。


「盗み聞きと丸覚えだ」


 突然、二人の側に居た男子が指を差して大声で言うと、近くに居た男子達も「なんなん?」と言って、集まり出す。


 ヨリが何か言い返そうとするが「泥棒じゃん」「犯罪者だ」と騒ぎ始める人数を見て、諦める。


「……話しにくくなっちゃったね」と鏡花がぽつりと口にする。


 変なあだ名を付けられた日。


 其の日の放課後。下校途中。お揃いの傘を差して並んで歩くヨリと鏡花。


「職員室で聞いた話なんだけど。来実ちゃんのママとパパ、離婚したんだって。来実ちゃん、ママと一緒に出て行って、多分、転校」

「そうなの?」
 頷くヨリ。


「あとね。鏡花ちゃん。言いにくいんだけど」


 小雨の当たる傘を手に立ち止まるヨリ。


「私も転校するの」


「……いつ?」 


「夏休み。二学期が終わったら。家を建てるんだって。それで、学校の近くに建ててってお願いしたの。

 私、友達作るの下手だし。だけど、この辺りは『ミンド』が低いんだって。うちは弟二人とも悪ガキじゃん。このままここにいたら、二人とも不良になるって。私もそうだなって」


 鏡花の黄色の傘の外とヨリの黄色の傘の外に真っ直ぐで細い雨が降り落ち続ける。


「遠く?」


「遠くないと思うよ。鏡花ちゃんが行ってた幼稚園の近くだって」


「……遠くだね」
「……遠いんだ」


「臥待さん。どうして、その食べ方なの?」


 ヨリが転校して、友達も出来ないまま、五年生になる。


 クラス替えがあって、三週間後。


 声を掛けられた鏡花はスプーンを持ったまま、新しい担任を見上げる。


「高橋さんと同じ順番」
 給食の時間は五台の机をくっつけて、生活班と呼ばれる五人組の顔が見られる状態にして給食を食べる。決まり事が厳しくなった五年生。


 鏡花を見ていた同じ班の四人は、生活班長の高橋に注目する。パン。スープ。おかず二品。全く同じ量で減っている高橋と、鏡花の給食。


「げ。気持ち悪」と高橋が言うと、鏡花の机と自分の机をくっつけていた二人も続けて「怖いんだけど」と言い、自分の机を鏡花の机から離そうとし、担任に止められる。



 担任は其の場に傍に立ったまま、鏡花にも、席を離そうとした二人にも注意を続け、他の班の生徒達は給食を続けながら、じっと様子を窺っている。


 そして、やっと、ヨリちゃんが全部決めてくれていた、と、気が付く鏡花。


 ノートもペンケースも傘も皆、お揃い。決まり事も四年生迄はとても緩くて、二人で席を並べて食べる給食の時間。


 「私の真似をしたら良いよ」とヨリちゃんはいつも言ってくれていた。



 五年生の二学期。冬休みに入る少し前。鏡花の11歳になった日。


 掃除の時間。


 「ゴミがゴミを掃除している」と誰かのセリフを合図にして、あっという間に、非常階段に続くガラスドアの向こうに数人からモップや箒で突き飛ばされる鏡花。


 非常階段の踊り場で掃除していた生徒達も突き飛ばされてきた鏡花を避けようと慌てる。


 「階段にゴミを投げないで」と誰かが外帚で鏡花を廊下に突き飛ばし返そうとした弾みで、鏡花は足を滑らせて、後ろ向きに倒れ、背は階段に、それから一瞬だけ誰かしらが掴もうと手を伸ばしてくれたのを見た瞬間。


 そのまま身体を打ち付けながら、長いアルミの階段の一番下まで落下して、校庭入り口の砂の上に叩きつけられる。


 階段の途中から、鏡花の鮮血の線が続く。


 太腿から足首に掛けて、すっぱり切れた縦長い傷口の溢れて止まらない血と、騒ぎを聞きつけて駆け付けた担任に『説明』する誰かの大声。


「臥待さんが掃除をサボって逃げようとした」


 担任が何かしら鏡花に向けて怒鳴り声を上げながら階段を降りていく。



「『秘匿』ですか?」


 運転席でハンドルを握る國村に訊き返す怜莉。 信号が変わり、車を停車させると「奇遇ですね。二年前も此の位置で停車しました」と右側にある、鴗鳥小学校の門扉を見る國村。


「救急車が止まっていて、傍には担架。怪我をした生徒の真上には『秘匿』の印章」


 前屈みで視線の先を覗く助手席の怜莉。


「使い慣れていない様子で、私にも隠そうとしているものがわかりました」


「何だったのですか?」


「怪我をした理由です」


 姿勢を元に戻して、怜莉は國村の顔を見る。


「気になって、ニュースや、ネットの掲示板を捜しても殆どわからず。学校保険も使われた形跡がない。前年に『学級崩壊』ではなく『学校崩壊』が問題になった事ぐらいしか。

 結構、邪道なやり口でも当たってみたのですが、教育委員会を通しても手慣れた風に梨の礫。学校は正にブラックボックスですね」


「國村先生って、冷静なのに、熱心になる場面も多いですよね」


「母が『秘匿』の持ち主でした」
 信号が変わり、車を発進させて、國村は続ける。



「『秘匿』を『させる』の方向でしか使えなかった。時折、耳にしませんか。あの家には娘も居るらしいとの噂話。
 其れが原因になった形で亡くなってしまって。
 もし、子供の頃の母に会えるのなら、其の使い方は貴方を良い場所には連れて行かないと一緒に考えてあげたかった。心残りが故です」


「先生の塾が『印章』がトラブルに繋がってしまった子供を受け入れている理由ですか?」


 怜莉は一度、前を向いて、切なげな顔をする。


「今日はありがとうございます。急に仕事が入ったのに桜海は部屋に籠って電話にも出ないし」

「構いませんよ」



「働いて五年目なのに『中央』は分からない事が多くて。

 明治の神仏分離で寺院にある御神体は神社へ、なのに仏像も他の寺院に、鳥居があっても神社ではなく、太平洋戦争では梵鐘を供出し、参拝する場所も無くて、東睡の紋章はどう見てもケツァルコアトル」


 國村は怜莉をちらっと見て、運転を続ける。


「私も年を追う毎に、判断に困る物が増していく一方。ですから」


 怜莉は間を置いても話を続けない國村の横顔を見る。


「仕事は今迄通り、頼ってくれて構いません。


 但し、私は貴方を選べません」


 意味を訊ね損ねる怜莉は國村の隣で問いに詰まる。



 僅かな時間の隙間に、鏡花だった頃の夢を見ていたりんねがテーブルに臥せていた顔を上げる。ソファの横には畳み終えたタオル類の山。


 昼間の明るい寝室で、仕事に行く為の準備を始めるりんね。ブラウスとロングデニムスカート。


 ベッドの縁に座って、黒いタイツを爪先に引っ掛ける。


 外側の踝上10センチから太腿に掛けて、歪に盛り上がった、二年前の傷痕が長く伸びる。 



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