第18楽章.Rabbit hole

 


 2007年10月13日。土曜日。


 交換したリネンの入ったバスケットを抱える花。一つに結んだ灰色の髪。【水野 花】のネームプレートを胸元につけた作業用のエプロン。施術室から廊下に出ると、治療院の玄関チャイムが鳴り、直ぐに引き戸が開く。


 予定外の来客に明らかに困惑し、施術室から出てきた真屋に、花は無言で助けを求める。


「里山さん」


 真屋が玄関に立つ、年が行った男性に話し掛ける。

 

「今日はどうされましたか?」

「花ちゃんと真屋先生にシュークリームを持って来たんだよ」


 里山という名前の男性を思い出そうとしていた花は、其の言葉に顔を上げる。そして、男性はサイズの違う紙袋を真屋に二つ差し出す。


「近所のケーキ屋が秋だけモンブランのシュークリームを作ってて、絶品だからさ。花ちゃんが此処で3月末に働き始めた時さ。約束したんだよ。秋になったら持ってくるってさ」


「え? え?」


 花は声に出しながら、バスケット越しに男性と紙袋と真屋を交互に眺める。フォローする様に「里山さん、相変わらず律儀ですよね。花ちゃんも一所懸命、手伝ってくれてますよ」と男性に言うと、前に出て「ありがとうございます」と紙袋を受け取る。


「オレは半年に一度しか来ないのにさ。覚えてくれて助かるよ」


 そう言って、男性は今度は花に話し掛ける。


「孫の顔を見に来たついでさ。花ちゃんが土曜出勤の時に持ってくるつもりだったの。小さい袋が花ちゃんの分。一個が薩摩芋で、もう一個が南瓜」


「……良いんですか?」


 困惑する花は真屋が頷いた事を確認して、バスケットを床に置く。真屋から紙袋を受け取ると、花の手元からも甘い香りが広がる。



 仕事帰りの夕暮れ。花は、怜莉の住むマンション近くの公園に立ち寄り、奥のベンチに座る。花の隣にはキャンバス地のトートバッグと、シュークリームの入った紙袋。其の背後には三日月型の古い石のモニュメント。


「花はりんねの……本名で同じ人物。此のまま帰っても大丈夫……」


 独り言を云う花。結んだ灰色の髪が花の背で、くたびれた様に揺れる。


「『花』は一所懸命、必死、丁寧、箱入り娘、真面目、世間知らず、努力家。『りんね』は……可愛い」


 花が髪ゴムを一気に引き摺り下ろす。灰色の髪が宙に揺れて流れる。



「國村さん」


 本殿の廊下で桜海が國村を呼び止める。


「國村さん、最近よく本殿に居る」


「東睡は元は尼僧の為に作られた施設ですが、勉強の場として使い勝手の良い部屋が多いので」


 國村が片手に持った和綴じの冊子、数冊を桜海に見せる。


「勉強熱心な方が集まります。閉鎖まで後半年。此方にある資料を独断で貸し出しているところです」


 國村の様子をじっと見ている桜海に、國村が逆に訊ねる。


「桜海くんも最近は一階にいますね」


「本殿は、すっかり人が来なくなっちゃって。前みたいに休憩中に一緒にお菓子食べたり、お喋りしてくれる人も居なくて」


「そんな事してたんですか」


 しょげたまま、横を向く桜海。


「怜莉が『卯の巻』を持って帰っていたけど、写本の敷地外持ち出しって禁止じゃなかった?」


 國村は桜海のうつむき加減な横顔に話し掛ける。


「怜莉くんは、所属一年目を研修期間として東睡での勉強に集中してもらいました。先日、勉強の続きに話になったのですが、仕事の合間は難しいと」


 桜海が困った顔を向ける。


「……極秘の特例です」

「……ルールに煩いつもりもないけど」


 ぽつりと言葉を出す桜海。


「……怜莉、同居人居るよ?」


「訊きましたよ」


 驚いた後、硬直したまま、國村を見る桜海。


「怜莉くんに渡したのは、漢文と図解。難解な箇所です。現代語訳やガイドライン無しで読める人はそう多くはいません」


 桜海は國村の言葉の続きを遮る。


「……確認したの!? 彼女が読めたらどうするの? 身辺調査済の登録者でも信頼せず、付き纏うのが監査でしょ!?」


 一瞬、声を荒げ掛けるものの、桜海は直ぐに黙り込む。


「『卯の巻』を読めるのなら……既に彼女も関係者かもしれません」


「……云ってる事、わかんない」


 桜海はそう返すと、國村とすれ違って、場を離れる。




 日曜日の朝。玄関に置かれた大きな段ボール。サインした伝票を配達員に渡す怜莉を居間の入り口から覗いているりんね。


 玄関に段ボールを置いたまま、カッターで黄色の結束バンドを切る怜莉。ビニール包装を破り引っ張り出した、キャスター付きの黄色のデスクチェアを後ろ手に曳いて廊下を歩く。


「怜莉さん」


 顔を覗かせているりんねに気付く怜莉。


「私も椅子、触っても良い?」
「良いよ?」
「動かしても良い?」
「いいよ?」


 玄関と居間の間で椅子をゆっくりと押す。


「そのまま部屋に押して行っていいよ?」


 云われたりんねは少しずつ椅子を押して、そのままの勢いで居間に入る。


「椅子だよ。怜莉さん。椅子が来たよ?」


「うん。知ってる」


 興奮気味のりんねに思わず吹き出して、云う怜莉。


 りんねは我に返って、恥ずかしくなり、赤面したまま俯き加減になる。


「怜莉さん、座って」

「先に座って良いよ?」

「怜莉さんの椅子なのに?」

「うん。座って」


 怜莉がキャスターのストッパーをかけて、りんねを座らせる。


 りんねはルームウェアから覗いた足を床に付けたり、上げたり、見慣れない高さの視界からの部屋の様子を確認したり、椅子の上で忙しくなく動く。


「凄いね。昨日、貰ったシュークリームも美味しかったし、今日は格好良い椅子に座れるし、私、王様になったみたい」


 嬉しそうに微笑むりんねを見て、怜莉はほんの少しだけ笑うとりんねの頭を撫ぜる。


「りんねが此の世界の王様になったら、家臣のオレは何をしたらいいかな」


 りんねと視線が合う位置にしゃがみ込む怜莉を見て、りんねは「……違うよ。怜莉さんの椅子だから王様は怜莉さんだよ」とまた赤面をして答える。


 部屋の端の黒と茶色のツートンの机にセットされる椅子。


「りんねが居なかったら、多分、黒か茶色にしたと思う」


「怜莉さんの好きな色は黄色」


 黒と茶色の家具の収まる部屋を見渡すりんね。


「一人暮らしにしては家具も家電も贅沢していると思うけど、ソファと机は失敗して」

「そうなの?」


「ソファもネットで買ったけど付属の脚は不要にチェックしちゃって。机も一回り大きい物にしても良かった」


 椅子に座ると、隣に立つりんねの腕をアイボリーのフリース越しに掴む怜莉。


「……寂しかったんだ。世の中が静か過ぎて」


 下を向く怜莉に静かに視線を向けるりんね。狭い机から一冊の本が開いたまま落ちて、りんねが拾う。


 本を手にしたりんねは、書かれている漢文を僅かな時間、目で追う。静かに閉じて、怜莉に渡そうとし、表紙に気が付く。


『干支の書 卯 写本2号 上 於菟』


「オト?」と口にするりんね。


「於菟。おじいちゃんと同じ名前」


 本を受け取る怜莉は「おじいちゃん、寅年生まれなの?」と淡々と訊ねる。


「昔は寅年生まれに名付ける傾向があったらしいよ」


「兎の異体字……なのに虎なの?」


 そして急にりんねは饒舌に話す。


「あのね。おじいちゃんね。六人兄弟の一番上でね。兄弟皆がおじいちゃんを大好きで、亡くなった日の夜は、皆が交互に枕元の火の番をしたの。


 私は初めて夜から朝までずっと起きて、ずっとおじいちゃんを見張っていたの。急に起きてくるかもしれないから」


「でもね。起きてくれなかったし、葬儀の間も火葬場でも何度も箱の中を見せてもらったの。手品みたいに空っぽになっているのかもって。


 だけど、やっぱりおじいちゃんは其処に居て」


 急にりんねが兎の耳のフードを引っ張って被り、泣きそうになる表情を隠す。


「りんねはおじいちゃんが大好きだったんだね」


 頷くと音を下げて、独り静かに「……なんで、こんな話をしてるのだろう」と呟くと「怜莉さん。勉強……頑張って」と離れ、立ち去るりんね。


 居間と寝室の小部屋。其処はウォークインクローゼットなのだけれども、りんねには何の為の部屋かは分からない。備え付けの棚に帽子やバッグが入った箱は数える程。並べた本の数の多い部屋。


 膝を抱えて蹲るりんねの側に座る怜莉。


「……兎」
「え」
「ね。怜莉さん、私、はしゃぎ過ぎてるよね? 『幼い』と『可愛い』は違うよね?」


 りんねはフードを外す。

「兎のルームウェアが可愛くても『大人』なんだよね?」

 膝を抱えるりんね。


「……どうしたらいいの? 『りんね』はどういう風にしたらいいの?」


「……りんねは其の服、嫌い?」


 怜莉に訊ねられて、首を振るりんね。


「……怜莉さん。もうひとつだけ。おじいちゃんの話をしても良い?」


 透明なテーブルクロス。幼い鏡花の前にレースコースターに載ったステンレスのアイススタンド。中にはチョコレイトのアイスクリームとウエハース。スプーンでアイスを掬う鏡花。


 向かいの席には和服姿で中折れ帽を被った祖父がソーサーにティーカップを戻す。


「もしも、鏡花と次も会う事が出来ても」


「もしも、私と次も会う事が出来ても」


 りんねは怜莉の顔を見ずに祖父の言葉を口にする。


「おじいちゃんは何も分からないと思う。だから」と、祖父は続ける。


「おじいちゃんは何も分からないと思う。だから」


「鏡花が全部決めていい。鏡花の思う様に、好きな様にして良い」


「私が全部決めていい。私の思う様に、好きな様にして良い」


 視線は過去に向いたまま、りんねは姿勢を緩め、身体を横に傾けると怜莉に凭れる。そして怜莉の表情を見る。


「鏡花にはこの先、必ず出会うべき人が居る」


「私にはこの先、必ず出会うべき人が居るって」


「出来る事ならば、彼と話してほしい。彼に鏡花の思う事を伝えて、出来る事なら、一緒に決めてくれたら、そう願う」


 話の間にスプーンに載せたアイスは溶けて、鏡花は不思議そうな顔で祖父をみつめる。


「出来る事ならば、彼と話してほしい。彼に私の思う事を伝えて、出来る事なら一緒に決めてくれたら、そう願うって」


 今、怜莉があの時の鏡花と同じ不思議そうな顔をして、りんねをみつめる。


「最期に会った日におじいちゃんに云われたの。今も意味は分からないの」

 りんねが云うと怜莉が静かにりんねの頭に触れて、自分の肩に寄せる。


「……ごめんなさい」 
「どうして? りんねは何も悪くないよ?」


 りんねは怜莉に頭の重さを預けながら、静かに呟く。


「どうしてだろう。私、最近、昔の事ばかり思い出すの……」



 月曜日の朝。本殿の二階。桜海の私室の前で梶が頭を抱えている。


 2007年10月15日。月曜日。


「桜海」


「やだ。部屋は絶対に譲らない。梶さんに話したの間違いだった」


「だからさ。とりあえず部屋から出て、庭でも良いからちゃんと話そう」


 呼び掛けながら、廊下側の引き戸の前にしゃがむ梶。


「なんで梶さんが開かずの間の鍵を持ってるの? 代表の病室の金庫、開けたの梶さんでしょ?」


 急に静かになる桜海。梶が引き戸に背中を当てている桜海の気配に気をやる。桜海もまた、戸の挟んで向こうに居る梶に話し掛ける。


「國村さんも怜莉の『彼女』を巻き込もうとしてる」


 桜海が其れ以上、語らない情報に思考を巡らせる表情をする梶。しかし、やがて、廊下の床に、一本の鍵を置く。


「悪かった。桜海の部屋には入らない。開かずの間の鍵も返す。一階の応接間にもう一台机を置く」


 梶は背を向けて、戸を離れると木製の螺旋階段を降りる音を立てる。


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