第20話.ねこの森には帰れない
交換したリネンの入ったバスケットを抱えた花は施術室から廊下に出る。治療院の玄関チャイムが鳴って、引き戸が開く。
「……こんにちは」
灰色の髪を一つに結んで、作業用のエプロンを着けた花。予定外の来客に挨拶をし、振り返って、施術室の真屋を見る。
「今日は予約じゃなくて、花ちゃんと真屋先生にシュークリームを持って来たの」
玄関に入って来た男性はサイズの違う二つの紙袋を差し出して、花がバスケット越しに眺める。
「里山さん。調子いかがですか」
花の後ろに立った真屋が年配の男性に話し掛けると「いやあ。もうすっかりよ」と男性は答える。
「近所のケーキ屋が秋だけモンブランのシュークリームを作ってて、絶品だからさ」
「良いんですか?」
「孫の顔を見に来たついでよ。娘が土産が無いと拗ねるんでね。花ちゃんが土曜出勤の時に持ってくるつもりだったの。こっちが花ちゃんの分ね。一個が薩摩芋で、もう一個が南瓜」
「……良いんですか?」
真屋の顔を見て、頷いたのを見た後、花はバスケットを床に置いて紙袋を受け取る。
「ありゃ。今年は2007年だったか。どうも西暦は覚えにくいわ」
男性は花が受け取った膨らんだ紙袋を覗き込み、賞味期限のシールを見る。
土曜日の夕方。仕事帰りの花は怜莉の住むマンション近くの公園。ベンチに座り、隣にはキャンバス地のトートバッグと、シュークリームの入った紙袋。後ろには三日月型の古い石のモニュメント。
「花はりんねだから此のまま帰っても大丈夫なのだろうけど」
独り言を云う花。結んだ灰色の髪が花の背で、くたびれた様に揺れる。
花は髪ゴムを一気に引き摺り下ろし、長い髪が宙に流れる。
「國村さん」
本殿の廊下で桜海が國村を呼び止める。
「國村さん、最近よく本殿に居る」
「東睡は本来、尼僧もしくは本殿と相性の良くない僧侶の勉強の場。現在もいらっしゃる方々は勉強熱心な方ばかりなので」
國村が片手に持った和綴じの冊子を桜海に見せる。
「借り物の頻度が増えました」
じっと様子を見ている桜海に國村が逆に訊ねる。
「桜海くんも最近は一階にいますね」
「本殿もすっかり人が減っちゃって。前みたいに休憩中に一緒にお菓子食べたり、お喋りしてくれる人も居なくて」
「そんな事してたんですか」
しょげたままの桜海は横を向いて「怜莉が『卯の巻』を持って帰っていたけど、写本も持ち出し禁止じゃなかった?」と小声で呟く。
國村は桜海の横顔に話し掛ける。
「一年目は研修として東睡での勉強会に参加してもらいましたが、外回りの増えた今の怜莉くんに合間の勉強は酷でしょう」
「分かるし、ルールに煩いつもりもないけど」
桜海が困った顔をして、目線を下げる。
「……怜莉、同居人居るよ?」
「訊きましたよ」
顔を上げて、國村を見る桜海。
「怜莉くんに渡したのは漢文と図解。より難解になる辺りです。読める人はそう多くはいないかと」
桜海が何かを云い掛けて「そう」とだけ返し、國村とすれ違って、場を離れる。
日曜日の朝。玄関に置かれた大きな段ボール。サインした伝票を配達員に渡す怜莉を居間の入り口から覗いているりんね。
玄関に段ボールを置いたまま、カッターで黄色の結束バンドを切る怜莉。ビニール包装を破り引っ張り出した、キャスター付きの黄色のデスクチェアを後ろ手に曳いて廊下を歩く。
「怜莉さん」
顔を覗かせているりんねに気付く怜莉。
「私も椅子、触っても良い?」
「良いよ?」
「動かしても良い?」
「いいよ?」
玄関と居間の間で椅子をゆっくりと押す。
「そのまま部屋に押して行っていいよ?」
云われたりんねは少しずつ椅子を押して、そのままの勢いで居間に入る。
「椅子だよ。怜莉さん。椅子が来たよ?」
「うん。知ってる」
興奮気味のりんねに思わず吹き出して、云う怜莉。
りんねは我に返って、恥ずかしくなり、赤面したまま俯き加減になる。
「怜莉さん、座って」
「先に座って良いよ?」
「怜莉さんの椅子なのに?」
「うん。座って」
怜莉がキャスターのストッパーをかけて、りんねを座らせる。
りんねはルームウェアから覗いた足を床に付けたり、上げたり、見慣れない高さの視界からの部屋の様子を確認したり、椅子の上で忙しくなく動く。
「凄いね。昨日、貰ったシュークリームも美味しかったし、今日は格好良い椅子に座れるし、私、王様になったみたい」
嬉しそうに微笑むりんねを見て、怜莉はほんの少しだけ笑うとりんねの頭を撫ぜる。
「りんねが此の世界の王様になったら、家臣のオレは何をしたらいいかな」
りんねと視線が合う位置にしゃがみ込む怜莉を見て、りんねは「……違うよ。怜莉さんの椅子だから王様は怜莉さんだよ」とまた赤面をして答える。
部屋の端の黒と茶色のツートンの机にセットされる椅子。
「りんねが居なかったら、多分、黒か茶色にしたと思う」
「怜莉さんの好きな色は黄色」
黒と茶色の家具の収まる部屋を見渡すりんね。
「一人暮らしにしては家具も家電も贅沢していると思うけど、ソファと机は失敗して」
「そうなの?」
「ソファもネットで買ったけど付属の脚は不要にチェックしちゃって。机も一回り大きい物にしても良かった」
椅子に座ると、隣に立つりんねの腕をアイボリーのフリース越しに掴む怜莉。
「……寂しかったんだ。世の中が静か過ぎて」
下を向く怜莉に静かに視線を向けるりんね。狭い机から一冊の本が落ちて、りんねが拾う。
『干支の書 卯 写本 上 於菟』
本を手にしたりんねが「オト」と口にする。
「於菟。おじいちゃんと同じ名前」
本を受け取る怜莉は「おじいちゃん、寅年生まれなの?」と訊ねる。
「昔は寅年生まれに名付ける傾向があったらしいよ」
「兎の異体字……なのに虎なの?」
そして急にりんねは饒舌に話す。
「あのね。おじいちゃんね。八人兄弟の一番上でね。兄弟皆がおじいちゃんを大好きで、亡くなった日の夜は、皆が交互に枕元の火の番をしたの。
私は初めて夜から朝までずっと起きて、ずっとおじいちゃんを見張っていたの。急に起きてくるかもしれないから」
「でもね。起きてくれなかったし、葬儀の間も火葬場でも何度も箱の中を見せてもらったの。手品みたいに空っぽになっているのかもって。
だけど、やっぱりおじいちゃんは其処に居て」
りんねが兎の耳のフードを引っ張って被る。
「りんねはおじいちゃんが凄く大好きだったんだね」
頷くと音を下げて、独り静かに「……なんで、こんな話をしてるのだろう」と呟くと「怜莉さん。勉強……頑張って」と離れ、立ち去るりんね。
居間と寝室の小部屋。其処はウォークインクローゼットなのだけれども、りんねには何の為の部屋かは分からない。備え付けの棚に帽子やバッグが入った箱は数える程。並べた本の数の多い部屋。
膝を抱えて蹲るりんねの側に座る怜莉。
「……兎」
「え」
「ね。怜莉さん、私、幼くなった気がしない?」
フードを外すとりんねは「兎のルームウェアを着る様になってから言動が幼くなって」と膝を抱える。
「……どうしたらいいの? 『りんね』はどういう風にしたらいいの?」
「……りんねは其の服、嫌い?」
首を振るりんね。
「……怜莉さん。もうひとつだけ。おじいちゃんの話をしても良い?」
透明なテーブルクロス。幼い鏡花の前にレースコースターに載ったステンレスのアイススタンド。中にはチョコレイトのアイスクリームとウエハース。スプーンでアイスを掬う鏡花。
向かいの席には和服姿で中折れ帽を被った祖父がソーサーにティーカップを戻す。
「もしも、鏡花と次も会う事が出来ても」
「もしも、私と次も会う事が出来ても」
りんねは怜莉の顔を見ずに祖父の言葉を口にする。
「おじいちゃんは何も分からないと思う。だから」と、祖父は続ける。
「おじいちゃんは何も分からないと思う。だから」
「鏡花が全部決めていい。鏡花の思う様に、好きな様にして良い」
「私が全部決めていい。私の思う様に、好きな様にして良い」
視線は過去に向いたまま、りんねは姿勢を緩め、身体を横に傾けると怜莉に凭れる。そして怜莉の表情を見る。
「鏡花にはこの先、必ず出会うべき人が居る」
「私にはこの先、必ず出会うべき人が居るって」
「出来る事ならば、彼と話してほしい。彼に鏡花の思う事を伝えて、出来る事なら、一緒に決めてくれたら、そう願う」
話の間にスプーンに載せたアイスは溶けて、鏡花は不思議そうな顔で祖父をみつめる。
「出来る事ならば、彼と話してほしい。彼に私の思う事を伝えて、出来る事なら一緒に決めてくれたら、そう願うって」
今、怜莉があの時の鏡花と同じ不思議そうな顔をして、りんねをみつめている。
「最期に会った日におじいちゃんに云われたの。今も意味は分からないの」とりんねが云うと怜莉が静かにりんねの頭を自分に寄せる。
「……おかしな話をして、ごめんなさい」
「ううん」
「どうしてだろう。私、最近、昔の事ばかり思い出すの……」
月曜日の朝。本殿の二階。桜海の私室の前で梶が頭を抱えている。
「桜海」
「やだ。部屋は絶対に譲らない。梶さんに話したの間違いだった」
「だからさ。とりあえず部屋から出て、庭でも良いからちゃんと話そう」
「なんで梶さんが開かずの間の鍵を持ってるの? 代表の病室の金庫、開けたの梶さんでしょ? 國村さんも……」
急に静かになる桜海。梶が引き戸に背中を当てている桜海の気配に気をやる。
間を置いても、戸の向こうに居る梶に呟く様な桜海。「……國村さんも」
「國村さんも怜莉の彼女を次の犠牲にしようとしてる」
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