第19話.リングワンダリング



 膝に『蟹』のぬいぐるみを載せて、深夜特急を読んでいたりんねは、鍵を回す音に顔を上げる。


「ただいま」


 怜莉がドアを開けるタイミングで玄関に飛び込んでくるりんね。


「お……おかえりなさいませ」
「……ませ?」

 怜莉はリュックを上り口に置いて笑う。


「職場の人、大丈夫だった?」


「うん。家族も居たし、着いた時には安定していたし」


 其れでも落ち着かない様子で怜莉の右側に行ったり、左側に行ったり、邪魔にならない位置を把握しかねて動き回るりんね。怜莉は靴を脱いで、廊下に立つ。


「りんね、子供みたい」


 突然云われて、立ち止まったりんねは慌ててルームウェアの兎の耳の付いたフードを被る。


「……間違え」


 怜莉はフードの中のりんねの顔を覗き込む。りんねが顔を真っ赤にして「……てませんでした」と呟く。


 居間に入ると、アウターとスーツのジャケット、そしてネクタイをポールハンガーに掛ける怜莉。シンクで手を洗いながら、隣の卓上型食洗器にも目をやる。


「夕食食べた?」


 少し離れた場所に立っているりんね。振り返る怜莉に向けて首を振る。


「一緒に食べようと思って」


 とたとたと近寄ってくると「冷蔵庫に入れたの」と一番上のドアを開ける。皿がそのまま入れてある事に気付いた怜莉は「ラップの場所、わからなかった?」と問い掛ける。


「絵を描いた後だと難しいよね」とフォローを入れ、オムライスの皿を二つ取り出す怜莉。


 キッチンラップ、の存在を思い出し「あ」と小さい声に出して、失敗に恥ずかしくなるりんね。


「オレはこのままで良いけど、りんねは温める?」
「ううん。私も同じ……」


 云いいかけて、気不味そうな顔で、キッチンの引き出しからスプーン、箸、細長いカトラリーレストを取り出す。


 大丈夫、とりんねは自分に確認する。「大丈夫。全部自分で決めている」


 ローテーブルの側に居る怜莉に持った一式を渡し、スープの入ったカップはレンジ内に並べ、温め直す。


 再び整った食卓。怜莉がりんねのフードを外すと髪を撫ぜる。


「ごめんね。りんねには仕事を休んでもらったのに、オレが仕事に行っちゃって」


 りんねは首を振ると、ぽつりと云う。「今日ね」


「一日凄く楽しかったから。一日の終わりが悲しかったらどういう気持になれば良いのかもわからないから。だからせめて、怜莉さんの職場の人が元気になってくれたら良いって……勝手に……考えて」


 返事を思い付けないまま、りんねの髪をまた撫ぜる怜莉。


「いただきます」


 手を合わせた後、オムライスを口に入れた怜莉を見て「美味しい?」と訊ねるりんね。


「うん。美味しい」


 ほっとして、りんねもオムライスをスプーンでぎこちなく掬う。


「怜莉さんのオムライスにケチャップで描いた兎。耳が切れちゃって、あわて床屋を思い出しちゃって」


「なんだっけ」


「北原白秋の童謡。蟹の床屋が兎の耳を切っちゃって、穴に逃げるの」


 りんねが片手を鋏の形にして左右に動かす。


「兎が急かしたんだっけ」


「耳を切ったんだもの。怒られても仕方ないの」


 スープカップを持ち上げるりんね。


「私ね。10歳迄の記憶が曖昧で。正確に云うと6歳から7歳は一瞬も掛からずに終わったの」


 食事を続けながら話を訊く怜莉。


「10歳迄は時間を伸ばした様に縦に薄いの。時間は確かに上に進んでいくのに私だけが進めなくて。

目の前に遮断機が下りて、横にしか進めない。

私の螺旋階段には遮断機があって登れないの。一年が経ったら、同じ日に戻る。リングを回っただけの様な感覚。

でも、ちゃんと時間は経っているし、其の間にあった事も本当で、学年も年齢もちゃんと上がる。


なのに、何かが5歳のあの日に戻ってしまうの」


「あの日って……いつ?」


 オムライスの兎を崩さない様に食べる二人。スプーンを持ったまま考えるりんね。


「……おじいちゃんと最後に出掛けた日」


「りんねっておじいちゃん子だったの?」


「別々に暮らしていたけど、多分」


 スプーンを右手に、りんねは続ける。


「それでね。突然、遮断機が無くったと思ったら」


 足を滑らせて。


 非常階段から落ちて校庭の手前で倒れている鏡花。次に思い出すのは蟹のストラップを提げた2本の鍵。古びたマンションのオートロック操作盤。目の前のガラスの自動のドアの先はエレベータ。


 鍵を開けて、中に入って、エレベータに乗って降りて、廊下を歩いて、号数を見て、緑のドアの鍵を回す。


 消毒の匂いのするワンルームの真ん中には段ボールが一箱。今朝から行く筈だった、修学旅行の為に準備したボストンバッグだけが置いてある。


 りんねは『鏡花』だった頃の話をしている事に気が付いて、話を終える。不安になる顔付きから急に思いついた様に「あ」と声に出す。



「……怜莉さん。おじいちゃんに似ているんだ」「え」


 蓮根といんげんの金平を食べていた怜莉が静かになる。


「……りんねのおじいちゃん、髪、長かったの?」


「ううん。容姿とか口調じゃなくて、おじいちゃんそのもの」


 首を傾げる怜莉。


「わかった。怜莉さん、きっと、おじいちゃんの生まれ変わりだ」


「……りんねよりオレの方が歳上なんだけど」「あ」


 そういうと、ますます何の話をしているのか分からなくなって、恥ずかしくなり、フードを被るりんね。兎の耳が前に垂れる。


 怜莉は、りんねに正体に踏み込んでも不自然でない流れの中、敢えてやめる。りんねの視界にはウーパールーパーのぬいぐるみが転がっている。



「桜海、高速入る前に運転代わる」


「別に良いよ。運転好きだし。あ。じゃあ帰りに代わって」


 車の前座席で話す桜海と怜莉。


「今日、会う人は普通の良い人。普通に普通のお寺の住職をしていますって感じで」


「そういう人にも『中央とは何の関係も無い』って書面をもらわないといけないんだよね」


「んー。向こうからしてもお守り? 免罪符? みたいな役割になるし」


「其れは雑に云ったら同じ物」


「そうなの?」


「……代表の体調、安定して良かったよ」


「怜莉だけ気が付いてなかった」


 ハンドルを切り、高速道路側のルートに進む。桜海の襟元には虎の顔の彫り物と参の数字が刻まれたピンバッジ。


「オレだけが気が付いていなかったって何が?」


「病院に居る時、ずっと『安定の印章』を起動してたの」


「……確認していなかった」


「別に『印章』を見られる程度じゃ人は影響を受けないからさ。常に見て歩き回っても構わないんだって。

そもそも視方を教えられても、完全に習得出来るのは年に一人いるかどうか。梶さんみたいにくっきり見えている方がおかしい」


「おかしいって」


「梶さんは印章を見る方向に全振りしちゃってるけどね。『観測』の印章は『推し量った未来視』の使い方が定番? スタンダード? だから」


「それ、よく云うけど、預言者商売している梶さんって怪しい事この上無い様な」


 怜莉の言葉に桜海は楽しそうに笑い、オーディオプレイヤーの再生キーを押して、ETCレーンには入らず、料金所で通行券を貰うと怜莉に渡す。


 「どうしてもややこしい相手を優先しちゃうよね。本当は完全に『中央』と無関係に暮らしている人達優先が良いのに。中央絡みのトラブルで関係者カウントされたら迷惑だし」


「……ごめん」
「う? 八足くんの件?」
「うん」


「國村さんに任せるしかないよ。現状と感情と希望を正しく知っただけじゃ解決しないし」


「謝りに行くべきか悩んだけど」


「怜莉はこれから気を付けていけば良いんじゃないの? 無難で卒ない返答でも、大事な約束を交わした風に受け取る人ってどうしても居るんだし。子供も大人も関係なくさ」


 トラックとの車間距離を開けて、高速を南に走るセダン。


「……うん」

 怜莉は助手席で前屈みに組んでいた腕を解き、軽く背を伸ばす。


「……桜海が送迎の時に出してくれている赤い車。私物だよね? 他にどういう色ある?」


 桜海がゆっくり走る前の軽自動車を追い抜く。車内の沈黙の中、窓越しにひつじ雲が過ぎていく。


「え? 何? 車買うの?」



「梶さん」


 仕事を終えて、事務室に戻ってくるなり、木の縦枠に手を置いて話し掛ける桜海。


「お疲れ。どうした? 何かあったか?」


「仕事は何も問題なかった。ただ」


「何?」


「このままだと怜莉が仕事を辞めるかも」


「は?」


 奥の席でパソコンを動かしていた梶は手を止めて、回転チェアを桜海に向ける。


「……車を買おうとしている」
「怜莉が車ねぇ」


「それで此のままだと車を買ったら、髪も切って、結婚して、そしたら普通の職場を探して、一軒家も買って、犬も飼って、中央も辞めちゃって」


 桜海の後ろに立っていた怜莉が「なんで、そんな話に」と冷静に突っ込みを入れる。


「車を買う予定はないし。そもそも犬の話なんてしていないんだけど……」


 桜海の横を困り顔で通り抜ける怜莉。


「報告書の作成、オレがするから」と桜海に声を掛ける。


「……半分はふざけて云っているけど」


 桜海が二人の方を見る。机の上の三冊に分けてまとめられた『卯の巻』の写本を取り出して、リュックにしまう怜莉。


「閉鎖後も此処に残るから必要な勉強をするって云ってるじゃん」


 梶が椅子を回して、前を向きながら「何の揉め事だよ」と隣の席に座る怜莉に訊ねる。


「久々にレンタカーを借りる予定があるから、最近の車の事情を訊いただけだよ」


「怜莉が座ると僕の座る所がない。此処にもう机一台、入らないかな」


 部屋に入る桜海が六畳の事務所を見回す。


「其の話なんだけど、二階にある桜海の個室。物置化著しいし、年末か閉鎖後。あの部屋をオレが使おうと思って」


「え? 何で? 梶さんだけで?」「梶さんが二階に行ったら、やりとりの不自由が増えそうなのに?」


 怜莉と桜海はお互いを見合わせると、訳が分からないとばかりに奥で作業を続ける梶を見る。


 合間に梶は手元でそっと『2001年 出来事』の検索履歴を削除する。


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