第17楽章.リングワンダリング



 膝に『蟹』のぬいぐるみを載せて、怜莉に借りた深夜特急を読んでいるりんね。鍵を回す音に顔を上げる。


「ただいま」


 怜莉がドアを開けるタイミングで玄関に飛び込んでくるりんね。


「お……おかえりなさいませ」
「……ませ?」

 怜莉はリュックを上り口に置いて笑う。


「職場の人、大丈夫だった?」


「うん。家族も居たし、着いた時には容態も安定していたし」


 其れでも、りんねは怜莉の右側に行ったり、左側に行ったり、落ち着かない様子で、正しい立ち位置を把握しかねて細かく動き回る。怜莉は靴を脱いで、廊下に上がる。


「りんね、子供みたい」


 云われて、立ち止まるりんね。慌てて、ルームウェアの兎の耳の付いたフードを被る。


「……間違え」


 怜莉はフードの中のりんねの顔を覗き込む。りんねが顔を真っ赤にして「……てませんでした」と呟く。


 居間に入ると、アウターとスーツのジャケット、そしてネクタイをポールハンガーに掛ける怜莉。シンクで手を洗いながら、隣の卓上型食洗器にも目をやる。


「夕食食べた?」


 怜莉から少し離れた場所に立っているりんねは首を横に振る。


「怜莉さんと一緒に食べようと思って」


 とたとたとキッチン迄来ると「冷蔵庫に入れたの」と一番上のドアを開ける。皿がそのまま入れてある事に気付いた怜莉は「ラップの場所、わからなかった?」とりんねに問い掛ける。しかし直ぐに「絵を描いた後だと難しいよね」と怜莉はフォローを入れ、オムライスの皿を二つ取り出す。


 失敗に恥ずかしくなるりんね。


「オレはこのままで良いけど、りんねは温める?」
「ううん。私も同じ……」


 云いいかけて、気不味そうな顔で「冷たい方が良い」と云い直すりんね。キッチンの引き出しからスプーン、箸、細長いカトラリーレストを取り出す。


 ローテーブルでお皿を並べる怜莉と、頼まれて、スープの入ったカップをレンジ内に並べ、温め直すりんね。


 再び整った食卓。怜莉はりんねのフードを外し、型崩れしたりんねの髪を撫ぜる様に整える。


「ごめんね。りんねには今日、仕事を休んでもらったのに、オレが夜に仕事に行っちゃって」


 りんねは「今日ね」とぽつりと云う。


「一日凄く楽しかったから。一日の終わりが悲しかったらどういう気持になれば良いのかもわからなくて。だからせめて、怜莉さんの職場の人が元気になってくれたら良いって……考えて」


 返事を思い付けない怜莉。


「いただきます」


 やがて二人は手を合わせて、怜莉はオムライスを口に入れる。りんねは「美味しい?」と訊ねる。


「うん。美味しい」


 ほっとして、りんねもスプーンでぎこちなくオムライスを掬う。


「怜莉さんのオムライスにケチャップで描いた兎。耳が切れちゃったから……」


 りんねは云い終えて、スプーンを口に運び、こくんと飲み込む。


「『あわて床屋』を思い出しちゃったの」


「なんだっけ?」


 訊ねながら、スープカップを手に取る怜莉。


「北原白秋の童謡。蟹の床屋が兎の耳を切っちゃって、穴に逃げるの」


 りんねが片手を鋏の形にして左右に動かす。


「兎が蟹を急かしたんだっけ」


 頷くりんねは「でも」と云う。


「耳を切ったんだもの。怒られても仕方ないの」


 りんねもスープカップを持ち上げる。


「私ね。10歳迄の記憶が曖昧でね。正確に云うと6歳から7歳は一瞬も掛からずに終わったの」


 食事を続けながら、りんねの話を訊く怜莉。


「10歳迄は時間を伸ばした様に縦に薄いの。時間は確かに上に進んでいくのに私だけが進めなくて。

 目の前に遮断機が下りて、横にしか進めない。

 私の螺旋階段には遮断機があって、ある位置から上は登れないの。一年経ったら、同じ日に戻る。一周、回っただけの様な感覚。

 でも、ちゃんと時間は経っているし、其の間にあった事も本当で、学年も年齢もちゃんと上がるの。


 なのに、何かが5歳のあの日に戻ってしまうの」


「あの日って、いつ?」


 怜莉はオムライスの兎を残す様に周りから丁寧に食べて、りんねもまた真似をして食べる。そして、りんねは、怜莉の問いにスプーンを持ったまま考える。


「……5歳の時。おじいちゃんと最後に出掛けた日」


「りんねって、おじいちゃん子だったの?」


「別々に暮らしていたけど、多分。それでね」


 りんねは、言い足らないとばかりに、急いで、話を続ける。


「突然、遮断機が無くったと思ったら」


 足を滑らせて。


 非常階段から落ちて。


 校庭の手前に倒れている鏡花。蟹のストラップに提げた2本の鍵。古びたマンションのオートロック操作盤。目の前のガラスの自動のドアの先。エレベータ。


 鍵を開けて、中に入って、エレベータに乗って降りて。


 廊下を歩いて、号数を見て。


 緑のドアの鍵を回して。


 消毒の匂いのするワンルームの真ん中には一箱の段ボール。今朝から行く筈だった、修学旅行の為に準備したボストンバッグを持ったまま、空っぽの部屋を眺める鏡花。


「りんね?」


 怜莉の声でハッと我に返るりんね。


 りんねは『鏡花』だった頃の話をして、其のまま『鏡花』だった頃の話を、怜莉にしようとしていた事に気が付く。急に汗が出て、不安が分かる顔付きになるものの、りんねは唐突に「あ」と目が覚める様な声を出す。



「……怜莉さん。おじいちゃんに似ているんだ」

「え」


 蓮根といんげんの金平を食べていた怜莉が静かになる。


「……りんねのおじいちゃん、髪、長かったの?」


「ううん。容姿とか口調じゃなくて、おじいちゃんそのもの」


 反応に困って、首を傾げる怜莉。


「わかった。怜莉さん、きっと、おじいちゃんの生まれ変わりだ」


「……計算、合わなくない?」

「あれ?」


 云うと、混乱して、恥ずかしくなり、フードを被ってしまうりんね。兎の耳が前に垂れる。


 怜莉は、りんねに、本当の年齢を聞き出す為の誘導的な質問が頭の中に浮びそうになり、しかし静かに止める。りんねが黙り込んでしまった事を素直に受け入れて、怜莉は会話を終える。怜莉の視界。足元には、ウーパールーパーのぬいぐるみが転がっている。



「桜海、高速入る前に運転代わる」


「別に良いよ。運転好きだし。あ。じゃあ、帰りに代わって」


 車の前座席で話す桜海と怜莉。


 2007年10月12日。金曜日。


「今日、会う人は普通の良い人。普通に普通のお寺の住職をしていますって感じで」


 ハンドルを回しながら説明をする桜海。


「其ういう人とも『中央とは何の関係も無い』って書面をお互い交換しないといけないんだよね」


 溜息を吐く怜莉。


「んー。向こうからしてもお守り? 免罪符? みたいな役割になるし」


「其れは雑に云ったら同じ物」


「そうなの?」


 前方に入ってきたバイクを気にして、車間距離を空ける桜海。


「……代表の体調、安定して良かったよ」


 ぽつりと云う怜莉を桜海は見ない。


「怜莉だけ、気が付いてなかった」


 車は高速道路側のルートに進む。桜海の襟元のピンバッジには虎の顔の彫り物と参の数字が刻まれている。


「オレだけが気が付いていなかった? 何?」


「病院に居る時、ずっと『安定の印章』を起動してたの」


「……確認していなかった」


 怜莉は生真面目な顔をしていて腕を組む。


「別に『印章』を見られた程度じゃ人は影響を受けないからさ。常に見て回っても構わないんだって。

 怜莉は勝手にルールに縛られ過ぎ。正論も自分に向け過ぎ。

 そもそも視方を教えられても、完全に習得出来るのは年に一人いるかどうか。梶さんみたいにくっきり見えている方がおかしい」


「おかしいって」


 思わず桜海に突っ込みを入れてしまう怜莉。


「梶さんは印章を視る方向に全振りしちゃってるけどね。


『観測』の印章は『推し量った未来視』の使い方が定番? スタンダード? だから」


「其れ、よく云うけど、梶さんが預言者商売を始めるなんて云い出したら、怪しい印象、此の上無い様な」


 怜莉の言葉に桜海は楽しそうに笑いながら、片手でオーディオプレイヤーの再生キーを押す。ETCレーンに入らず、料金所で通行券を貰うと怜莉に手渡す。


 「完全に『中央』と無関係に暮らしている人達に、無関係を確認しに行くって矛盾してるよね? でも中央絡みでトラブル起きてさ。関係者にカウントされたら迷惑掛けるし」


「……ごめん」


 突然に謝る怜莉に「う?」と反応する桜海。


「八足くんの件?」
「うん」


「國村さんに任せるしかないよ。現状と感情と希望を正しく知っただけじゃ解決しないし」


「謝りに行くべきか悩んだけど」


「怜莉はこれから気を付けていけば良いんじゃないの? 無難で卒ない返答でも、大事な約束を交わした風に受け取る人ってどうしても居るんだし。子供も大人も関係なくさ」


 桜海は軽い口調で、隣の怜莉に語り掛ける。セダンを高速を南に走らせる。


「……そうだね」

 怜莉は助手席で前屈みに組んでいた腕を解き、軽く背を伸ばす。


「……桜海が送迎の時に出してくれる赤い車。私物だよね? 他にどういう色ある?」


 桜海は、ゆっくりと走る、前の軽自動車を追い抜く。車内の沈黙の中、窓越しにひつじ雲が過ぎていく。


「え? 何? 車買うの?」



「梶さん」


 仕事を終えて、事務室に戻ってくるなり、木のドア縦枠に手を置いて話し掛ける桜海。


「お疲れ。どうした? 何かあったか?」


「仕事は何も問題なかった。ただ」


「何?」


「このままだと怜莉が仕事を辞めるかも」


「は?」


 奥の席でパソコンを動かしていた梶は手を止めて、回転チェアを桜海に向ける。


「怜莉が、車を買おうとしている……」
「怜莉が車ねぇ」


「其れで此のままだと、車を買って、髪も切って、結婚して、そしたら普通の職場を探して、一軒家も買って、犬も飼って、中央も辞めちゃって」


 桜海の後ろに立っていた怜莉が「なんで、そんな話に」と冷静に突っ込みを入れる。


「車を買う予定はないし。そもそも犬の話なんてしていないんだけど……」


 桜海の横を困り顔で通り抜ける怜莉。そして「報告書の作成、オレがするから」と桜海に声を掛ける。


「……半分はふざけて云っているけど」


 桜海が、梶と怜莉、二人を見る。手前の机の上に、三冊に分けてまとめられた『卯の巻』の写本と置かれたメモ用紙を持ち上げて、リュックにしまう怜莉。


「閉鎖後も此処に残るから必要な勉強をするって云ってるじゃん」


 梶が椅子を回して戻し、前を向きながら「何の揉め事だよ」と隣の席に座ろうとする怜莉に訊ねる。


「久々にレンタカーを借りる予定があるから、最近の車の事情を訊いただけだよ」


「怜莉が座ると僕の座る所がない。此処にもう机一台、入らないかな?」


 部屋に入る桜海が六畳の事務所を見回す。


「其の話なんだけど、二階にある桜海の個室。物置化著しいし、年末か閉鎖後。あの部屋をオレが使おうと思って」


「え? 何で? 梶さんだけで?」「梶さんが二階に行ったら、やりとりの不自由が増えそうなのに?」

 怜莉と桜海はお互いを見合わせると、訳が分からないとばかりに奥で作業を続ける梶を見る。

「そもそもオレ、二階の立入禁止にされてるんだけど……」

 云って困った顔をする怜莉。

「えっ! そうなの?」

 其れに素直に驚く桜海。


 合間に梶は手元でそっと『2001年 出来事』の検索履歴を削除する。


押してね▶

わんわん数: 2080