第17話.月でひろった卵
夜に暗く静かになる庭。事務所窓のブラインドを降ろす梶。
「話せないし、話したくなかったのです」
入り口近くの机の椅子を部屋側に向けて、國村は湯呑を持つ。
「所属こそ一カ月違いだが、修治は『中央』との関わりは前からだろ?」
「私に東睡の管理を任せたのは前任の椿瑠院でした。椿に瑠璃の瑠でツルさん。私の育ての親です」
「オレが此処に来た理由はただの見物」
梶はブラックストライプのスーツをジャケットを脱ぐ。隣の椅子を引き出すと部屋側を向いて座る。
「覗きに来た途端、代表の部屋に通された。で、『中央』を無かった事にしたい、と藪から棒に云われた訳よ」
國村は湯呑を傾ける。
梶は中央を初めて訪ねた日を思い出す。秋になれば24歳になる歳。紫鳶に白と黄色の混じるロングスプリングコート。白いシャツにネイビーのストレートシルエット。
「物怖じされないのですか」
長い廊下を歩きながら前を歩く袈裟を着けた案内役が訊ねる。
「よくある事だからね」
襖を開けて先に中で何かしらの会話が為された後に、梶は呼ばれ、部屋に入る。
「後で迎えに来ます」
見渡す和室には文机しかなく、そして一人の年老いた僧侶。
袈裟を着けて、黒い、雑面と呼んで良いのかも分からない物で表情を覆っている。
梶は閉められた襖に寄りかかって、許可を得ずに適当に膝を崩す。
「顔の布。ドゥルガーと関係あんの?」
襖に寄りかかったまま、代表に言葉を返し、面倒そうに答える当時の梶。
梶の話を訊きながら、くすくすと笑う國村。
「物怖じ以前の問題ですね」
机の上のステンレスボトルを手に取る國村。
「飲みますか。東睡の珈琲メーカーで淹れてきました」
マウスの前のマグカップに珈琲を注ぐ。
「此の前、怜莉くんが教えてくれたデカフェです。ブレンド名はウルサマヨル」
「ラテン語で北斗七星ねぇ。折角の登録者制度。名簿もある。聖職者は全員聖人と思いたいところだが、修治の云う通り、問題があっての結論なら、現状の把握、管理、必要があれば監視」
マグカップを受け取る梶。
「無かった事にしたい理由って、開かずの間と関係があるんだろう」
「……代表が無住寺院だった此の場所で『干支の書』を見つけたのが41の時。独学では学びきれず、共に解き明かしてくれる者を求め、『中央』を作った」
「平安時代の書物なら最低でも市の文化財になってもおかしくはない。なのに近代の言葉で書き足された箇所も多い。同じ筆で同じ筆跡。つまり『干支の書』の作者である於菟は」
「平安の世から現下もなお生き続けている」
溜息を吐いて、梶は珈琲を飲む。
「何故『印章』が12種類なのか。単純に北斗七星の十二直と関係があるのか
と思えば、其れは既に旧説。現在の主流は、新月から満月を経て新月に戻る迄、朔望月を12に分けた数。
29.5×24÷12=59。60進法。十干十二支。いや、1足りないじゃないか」
マグカップを机に置くと國村に見る梶。
「オレもどうせ、直ぐに辞めるって思っていた訳?」
「まともな人は長居をしません」
「オレがまともねぇ。……此の珈琲、美味いな」
「本当。貴方は」
國村は呆れ顔で腕を組む。「修治」
「59じゃ1が足らない。知っているんだろう。1が何処にあるのか」
「失礼」
國村は振動するケータイをジャケットの内ポケットから取り出し、電話に出る。立ち上がって、ドアの前で話し、切ると梶の前に立つ。
「代表が危篤とのこと。どうしますか」
梶は國村の顔を見る。
「一緒に病院に行きますか」
「待って。待って。先ずは自分の分で練習するね」
アイボリーのフリース上下のルームウェアを着たりんね。ローテーブルの前で膝立ちし、玉子焼きが破れたオムライスの前でケチャップの容器を手に深呼吸をする。
オムライスにケチャップで兎の顔を描く。
「上手。上手」
隣で褒める怜莉を見て、少し恥ずかしそうにするりんね。
「……じゃあ、本番」
玉子焼きで綺麗に包まれたオムライスの皿。もう一度、深呼吸をして、ケチャップの容器を持って、兎の顔。
「……あ。どうしよう……ど」
「大丈夫」
「……耳、切れちゃった。どうしよう。……上手く描き足……」
ケチャップの途切れた部分を見て、おろおろしているりんねの前の皿を持ち上げ、自分の前に置くと「ちゃんと兎に見えるよ。ありがとう」と声を掛ける。
「ごめんなさい」
「ううん。食べようか」
不安げに怜莉の顔を見る。テーブルには怜莉の作った蓮根といんげんの金平、ブロッコリーと人参のスープ。りんねが初めて作った小さなオムライス。
「あ。待って。電話」
立ち上がってケータイを手に取る怜莉と、様子を見ているりんね。
「職場の代表が危篤の連絡があって……病院に行ってくる。先にご飯食べててくれる? どうなるかわからないけど、遅くても朝には帰るから」
温和しくりんねは頷く。
スーツに着替えた怜莉を見送った後。りんねは二人分の夕食が載ったテーブルを居間の入り口から眺めて、ルームウェアのうさ耳のフードを被る。
「冷蔵庫に入れておかないと」
3ドアの冷蔵庫の一番上を開けて、二人分のお皿が入るスペースを確保すると、昨日、怜莉が持って帰ってくれたお土産のお菓子を手に取る。
怜莉がふたつ食べて、りんねがひとつ食べて、残りのひとつはりんねの分。『月でひろった卵』と書かれたお菓子。
手に取ると、ドアを閉めて、キッチンの床に座り込む。
「私、怜莉さんの真似ばかり」
怜莉が自身を兎に例えたから、りんねのルームウェアは兎の着ぐるみ風。
「しっかりしなきゃ……自分でちゃんと考えなきゃ……」
垂れたうさ耳。床に着いた片手の甲にルームウェアの袖先が落ちる。りんねには丁度良くて、鏡花には少しだけ大きい。けれども決して気付いていない。
「……でも私……ちゃんと考えたから……兎さんが良かったの……」
「二人ともどうしたの?」
総合病院の時間外・緊急受付の傍のエレベータを四階で降りて、渡り廊下に入る前の長椅子。
桜海は其処に座って、ハンバーガーを食べている。他にもハンバーガーの入った紙袋とストローを刺したドリンク容器。
「桜海こそ其処で何してるんだ」
「時間潰し?」
「は? どういう状況なんだ?」
梶が訊ねると桜海は考えながら「なんとも言えない感じ?」と返す。
「一瞬安定したけど、微妙?」
「せめて病室のある階の廊下に居るとか」
「座る所がなかったの」
「病室には入れましたか?」
國村も声を掛けると桜海は「うん」と答え「長丁場になるかもよ? 國村さんもハンバーガー食べる?」と紙袋を片手で渡す。
「後で頂いてもいいですか? 先に病室に顔を出します」
國村は苦笑しながら「梶さん。自販機で飲み物を買ってきます。何にしますか」と声を掛ける。
ハンバーガーの包み紙を畳む桜海。
「まあ、特室で応接セットもあるとはいえ……」
「でしょ?」
「てか、今日、食べてばかりだな」
「ワンタン麵を食べてから五時間経っているよ?」
長椅子の反対端に座る梶。
「怜莉も此処を通るだろうし」
「え? 怜莉も呼んだの? 今日休みだったのに?」
「國村先生」
自販機で飲み物を買っていた國村が顔を上げる。
ショートヘアに近いボブカットの愛らしい顔の女性。耳にはルビーの一粒ピアス。黒のワンピースの腕には畳んだ白のロングコート。ブランド物のハンドバッグ。
「松田さん。莉恋ちゃん、娘さんは?」
「千景に任せて来ました。私が夜、家に居ないのは今日に限った事じゃないし。それに代表に万が一の事があっても閉鎖の三月迄は隠さなきゃならないでしょ? 私は、一応、秘書も兼任してるし」
「でしたら一緒に帰りますか?」
きょとんとする松田。
「怜莉くんには報告だけのつもりでしたが……流石に集まり過ぎなので」
國村は自販機の取り出し口から缶コーヒーを取り出して、もう一度、缶コーヒーのボタンを押す。
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