第15楽章.月でひろった卵
夜。暗く黙する庭。事務所窓のブラインドを降ろす梶。
「話せないし、話したくなかったのです」
梶を見ず、國村は云う。入り口傍の机に椅子の背を付け、正面の壁をより遠くの様に見ている。
「オレと修治。所属時期は一カ月違いだけど、修治と『中央』は関わり、長いじゃん?」
國村は梶の背にちらっと視線をやると、緩く腕を組む。
「本殿の東側。私が塾を開いた『東睡』という名の講堂。前任の管理者は私の育ての親。椿瑠という高齢の尼僧。此れだけでも、私が『中央』と浅い関係とは誰も思わないでしょう」
「育ての親の定義って、いまいちわかんないけどさ?」
梶は云うと、ブラックストライプのスーツをジャケットを羽織り、隣の席の椅子を引き出す。
「オレが『中央』に来た理由は見物。覗きに来た途端、代表の部屋に呼ばれて『中央を無かった事にしたい』と云われた訳よ?」
國村の方に椅子を向けて、座る梶。脚を組んで、ふいに宙を眺める。梶は中央を初めて訪ねた日を思い出す。
1999年4月23日。金曜日。
秋になれば24歳になる歳。特に理由もなくて訪れた日。紫鳶に白と黄色の混じるロングスプリングコート。白いシャツにネイビーのストレートシルエット。特に理由も無い服装。
長い二階廊下の前を進む袈裟を着けた案内役。梶を残し、閉じられた襖の奥で何かしらの会話が為された後に、梶は部屋に呼ばれる。
和室には文机。そして一人の年老いた僧侶。
袈裟を着けて、黒い雑面と呼んで良いのかも分からない物で顔を覆っている。梶は許可を得ず、畳の上で適当に足を崩す。
「顔の布。ドゥルガーと関係あるの?」
代表と紹介された目の前の老僧侶に軽い言葉で訊ねる、当時の梶。
「飲みますか」
急に國村に声を掛けられて、梶の回想が止まる。
「東睡の珈琲メーカーで淹れてきました。怜莉くんが教えてくれたデカフェです。ブレンド名はウルサマヨル」
國村は机の上のステンレスボトルを手に取り、梶の手元のマグカップに珈琲を注ぐ。
「ラテン語で北斗七星ねぇ」
マグカップを手に取る梶。
「『中央を無かった事にしたい理由』って、開かずの間と関係ある?」
國村は直ぐに答えず、席に戻り、自分のカップにもボトルを傾ける。
「代表である朔四弦は」と一度、区切る國村。そして話を続ける。
「無住寺院だった此の寺で、長年行方知らずにあった列帖装の『干支の書』を見つけました。初期は独学で学ぼうとし、数年もせず、共に解き明かす者を求め、研究施設として『中央』を開放しました」
梶は國村の話に耳を傾けつつ、珈琲に口を付ける。
「『干支の書』は古典籍研究者の確認通り、確かに平安時代の書物で間違いはない。しかし近代の言葉で書き足された箇所も多く」
温和しく聞いた梶は、つい口を挟む。
「其れさ。いつ何処で誰によって書き足されたのか、なんだよ? 研究生に貸すのは写本。原本の管理も其れなりに。で。其の原本を見たオレや修治は『干支の書』の異常性、もう分かってるじゃん?」
梶の言葉で、國村はカップを机に戻し、ぽつりと呟く。
「平安時代に書かれた文字……数年前に書き足された文字……どちらも。同じ筆による、同じ筆跡」
「つまり『干支の書』の作者である於菟はさ。平安の世から現下も尚」
梶が一瞬黙ると、國村は視線を落とし、冷静に続きを口にする。
「『干支の書』の続きを尚も書き続けている」
二人は目を僅かに合わせると、梶は真っ先に大きな溜め息と頬杖を突いてしまう。
「何故『印章』が12種類なのか。単純に北斗七星の十二直と関係があるのか。と思えば、既に旧説。現在の主流は、新月から満月を経て新月に戻る迄、朔望月を12に分けた数。
29.5×24÷12=59。60進法。十干十二支。いや、1足りないじゃないか」
梶の問いに僅かの空白を見せる國村。梶は珈琲を飲み終えたマグカップの持ち手を指にかけたまま。重力で傾くカップが無防備に揺れる。
「オレもどうせ、直ぐに辞めるって思っていた訳?」
「まともな人は長居をしません」
「オレがまともねぇ」
会話途中で、云い忘れたとばかりに「あ。此の珈琲、美味かった」と空のマグカップに目をやる梶。國村は再び腕を組むも、くすくすと笑う。
「修治。59じゃ1が足らない。知っているんだろう。1が何処にあるのか」
「失礼」
國村は振動するケータイをジャケットの内ポケットから取り出し、電話に出る。梶を背を向けて、立ち上がり、話し終えて、振り向く。
「代表が危篤との事。どうしますか。一緒に病院に行きますか」

「待って。待って。先ずは自分の分で練習するね」
アイボリーのフリース上下のルームウェアを着たりんね。ローテーブルの前で膝立ちし、玉子焼きが破れたオムライスの前でケチャップの容器を手に深呼吸をする。
オムライスにケチャップで兎の顔を慎重に描く。
「上手。上手」
隣で褒める怜莉を見て、少し恥ずかしそうにするりんね。
「……じゃあ、本番」
玉子焼きで綺麗に包まれた、もう一つのオムライス。また一度、深呼吸をして、ケチャップの容器を持ち、兎の顔を描くりんね。
「……あ。どうしよう……ど」
「大丈夫」
「……耳、切れちゃった。どうしよう。……上手く描き足……」
ケチャップの途切れた部分を見て、おろおろしているりんねの前の皿を持ち上げる怜莉。
「ちゃんと兎に見えるよ。ありがとう」
云うと怜莉は自分の目前に置く。
「ごめんなさい」
「ううん。食べようか」
不安げに怜莉の顔を見るりんね。テーブルには怜莉の作った蓮根といんげんの金平、ブロッコリーと人参のスープ。りんねが初めて作った小さなオムライス。
「あ。待って。電話」
立ち上がってケータイを手に取る怜莉と、様子を見ているりんね。
「職場の代表が危篤の連絡があって……病院に行ってくる。先にご飯食べててくれる? どうなるかわからないけど、遅くても朝には帰るから」
怜莉は集中して、りんねを見ずにケータイを操作し、タクシー会社の番号を捜している。
スーツに着替えて、病院に向かう怜莉を見送った後。外側から閉まるドアの内側に一人残るりんね。
居間に戻り、二人分の夕食が載ったテーブルを眺めて、ルームウェアのうさ耳のフードを深く被る。
「……冷蔵庫に入れて……おかないと」
3ドアの冷蔵庫の一番上を開けて、二人分のお皿が入るスペースを作るりんね。昨日、怜莉が持って帰ってくれたお土産のお菓子をひとつ手に取る。
怜莉がふたつ食べて、りんねがひとつ食べて、残りのひとつはりんねの分。『月でひろった卵』と書かれたお菓子。
お菓子を手にしたままドアを閉めるりんね。キッチンの床に急に力無く、ぺたんと座り込んでしまう。
「私、怜莉さんの真似ばかり」
昨日の夜は怜莉が自身を『因幡の白兎』に例えていた。
今日の買い物ではルームウェアが置いてある店に行ったけれども、ルームウェアを知らないりんねは正解が分からない。怜莉の顔を見て「どれにしたら良いの?」と訊ねても怜莉も困っていた。
「これでいいのかな」
逆に訊かれて、怜莉もまた迷っている事しか分からないりんねは値段が比較的安価な物を幾つも取り出し、怜莉に見せる。
そうして買ったばかりのルームウェアを着て、ぼんやりとするりんね。怜莉が自身を『因幡の白兎』に例えて、りんねのルームウェアは兎の着ぐるみ風。
不安になるがまま、膝の上の月で拾った卵を大事そうに指で撫ぜていくりんね。
病院に向かった怜莉が、ドアを閉めた冷えた音、此処から遠ざかる足音は、もう完全に消えてしまった。

「二人ともどうしたの?」
総合病院の時間外・緊急受付傍のエレベータを四階で降りて、渡り廊下に入る前の長椅子。
桜海は其処に座って、ハンバーガーを食べている。他にもハンバーガーの入った紙袋とストローを刺したドリンク容器。
「桜海こそ其処で何してるんだ?」
梶が訊ねると「時間潰し?」と答える桜海。
「今はどういう状況ですか」
今度は國村が冷静に訊ねると、桜海は「なんとも言えない感じ?」と答える。
「一瞬安定したけど、微妙?」
「でしたら、せめて病室のある階の廊下にでも」
國村が云い掛けると桜海は少しばかり戸惑った風に小声で呟く。
「……食べやすい場所がなかったの」
「病室には入れるんですね」
訊かれて、大きく頷く桜海。
「でも長丁場になるかもよ? 國村さんも此処でハンバーガー食べておく?」
紙袋を片手で渡されかけて、國村は一瞬、黙るものの、口元に柔らかく静かな笑みを返す。
「後で頂いてもいいですか。先に病室に顔を出します」
二人のやりとりを静かに窺う梶。國村は隣に立つ梶に話し掛ける。
「梶さん。私はとりあえず自販機で飲み物を買ってきます」
「え? じゃあ、オレ、缶コーヒー」
梶の返事の間。食べ終えたハンバーガーの包み紙を畳む桜海。二人になり、梶はまた桜海に話し掛ける。
「桜海、今日、食べてばかりだな」
「ワンタン麵を食べてから五時間経っているよ?」
梶に訊かれて、ケータイの時計を確認する桜海。梶は桜海の座る長椅子の横にどさっと腰掛けて、足を組む。
「そのうち怜莉も此処を通るだろうし」
「え!?」
梶が云うと、桜海はケータイを勢いよく折り畳み、驚いた声を上げる。
「怜莉も呼んだの!? 今日休みだったのに!?」

「國村先生」
自販機で飲み物を買っていた國村が顔を上げる。
ショートヘアに近いボブカットの愛らしい顔の女性。耳にはルビーの一粒ピアス。黒のワンピースの腕には畳んだ白のロングコート。ブランド物のハンドバッグ。
「松田さんも来たんですか? 娘さんは?」
「千景に任せて来ました。私が夜、居ないのは今日に限った事じゃないし。代表に万が一の事があっても閉鎖の三月迄は隠す約束でしょ? 私は、一応、秘書も兼任してるし」
「でしたら一緒に帰りますか?」
きょとんとする松田。
「怜莉くんには報告だけのつもりでしたが……行くとメールが来ました。流石に集まり過ぎなので」
國村は自販機の取り出し口から缶コーヒーを取り出して、もう一度、缶コーヒーのボタンを押す。

そうして一方の月が無い新月の夜に、怜莉の部屋に残されているりんねは「お留守番」と口にする。
垂れたうさ耳。床に着いた片手の甲にルームウェアの袖先が落ちる。りんねには丁度良くて、鏡花には少しだけ大きい。けれども決して気付いていない。
「自分で考えたの……兎さんなの」
音も無くて、顔を見る者も見せる者も居ない部屋。
座り込んだ状態のりんねは、兎の耳が長いフードを前に引っ張り、より深く顔を覆う。
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