第16話.眠り姫の有罪判決
「まりかちゃん。煙草」
本殿の真裏。北側の壁。ツインテールの茶色の髪に、黒いタートルネックシャツ。紫の厚みのあるニットを重ね、黒いミニスカートを履いている。白いハイカットの大きなスニーカー。
煙草を手に、声を掛けた桜海に視線を上げる。
「あたし、21歳。桜海くんの六つ上」
「じゃなくて。此処は禁煙。あともうすぐ誕生日だから五つ上……」
「代表に許可貰ったから」
「代表に?」
まりかは法衣を着た桜海を見て、反対の方向に煙を吐く。弾いた指で灰を落とす。
「桜海くん。どうして高校辞めちゃったの?」
「え?」
桜海は寂しげに言葉を口にするまりかの顔を見る。
「桜海くんはどうして此処に戻ってきたの?」
「まりかちゃん?」
桜海は何かを答えようとする。先程迄何もなかった二人の間にふいに雪が散り始めて、桜海だけが空を向く。雪の交じった風が一度だけ吹くと同時に、まりかのツインテールが宙に浮く。それでもまりかは顔を上げない。
「桜海くん」
まりかに視線を移す桜海。
「あたしが死んだら……悲しい?」
キーボードに乗せた桜海の手が止まる。
「……ワンタン麺」
「は?」
隣で作業していた梶が怪訝な顔をして桜海を見る。
「今すぐにワンタン麺を食べないと」様子を窺う梶。
「……死ぬ」
「いや、昼食べてから仕事に来たんだろ? こっちは朝から食べてないってのに」
「だったら一緒に食べに行こうよ? 其処の駿来軒」
「……はあ。まあ、良いけど」
梶は肘を突いて、打ち込んでいた文章の保存する。
「いらっし……何だあんたらか」
「上客に失礼だ」と梶を見て云う桜海に「常連客の間違いだろう」と梶が突っ込む。
ラーメン屋の主人は読んでいた新聞を畳み、真ん中のテーブル席から立ち上がる。
「チャーシュー麺大盛と半炒飯ね」
セルフサービスの水を汲んだプラスチックのコップ二つをテーブルに置く梶。作務衣コートを脱いで椅子に掛けてから座る。
「ワンタン麺」桜海も注文を告げると「お冷ありがとう」と席に着いた梶に云う。
「お昼にね。八足くんの両親が経営している山奥のレストランに行ってきたの。道が混んでいたのもあって、一時間ちょっと」
梶は首を傾げながら「修治に頼まれたのか?」と訊ねる。
「ううん。勝手に気になっただけ。山小屋みたいな店でテラス席もあって凄く景色が綺麗だったの」
「肝心の料理は?」
「普通」
「桜海が普通っていうなら、それなりに美味いって事ね」
梶がコップの水を飲む。
「何処の誰かは云わないで話をしたんだけど。
あの辺りって小中学校一校だけで、習い事の出来る教室や塾がある里には車で片道二十分。バスは一時間に一本。
それから山の人達は子供に習い事は可哀相って云うんだって」
「やたら込み入った話して来たな」
「ランチタイムに男性の一人客は珍しいって。あと東京育ちって云ったらね。息子が二人居て、二人とも東京の大学に行ってほしいって話になって」
「チャーシュー麺大盛とワンタン麺」
ラーメン屋の主人は麺鉢を置くと「あと半炒飯」と次いで持ってきた器も適当にテーブルに乗せる。三時過ぎの店には梶と桜海、客は二人しかいない。
「東京?」
「頭の良い大学も収入の良い会社もたくさんあるからって」
「でね。店のある山に住んだら子供の可能性を潰しちゃうし、里だって田舎のうちだから、住む家は少しでも都会にしたんだってさ」
蓮華でスープとワンタンを掬う桜海。麺を啜る梶。
「なんで、店をこっちに出さないんだ?」
「売りが景色と現地調達の山の幸だもん。こっちで店を出したら三年持たないと思う」
「三割」
店の主人が麺を啜っている二人の前に五つ餃子の載った半月型のタレ付皿を置く。
「店を出して一年で潰れる店は三割」
「餃子、頼んでないけど?」
チャーシューを持ち上げながら梶は主人の顔を見る。
「新作の柑橘餃子。試食させてやるよ」
梶が皿の仕切りに醤油とラー油を落として餃子に付け、桜海はそのまま口に入れる。
「どうだ?」
「「微妙」」
それぞれ餃子を食べ終えてから同時に答える二人。
「だから、あんたら舌肥え過ぎて嫌なんだよ」
「ワンタン麺は美味しいよ?」
「チャーシュー麺も炒飯も美味しいけど?」
箸を器に戻して、麺を食べ終える桜海。店の主人は厨房に引っ込むとリモコンをテレビに向けて、電源を入れる。
「梶さん。あのね。國村さんに訊いたけど、八足くんの志望校、夜間の定時制」
梶がスープを飲むと持ち上げていた麺鉢を下ろす。
「誰が折れるべきか。もう見えている話だな」
「という話を桜海としてたんだけど」
「ええ。私も報告を受けました」
「修治は既に把握済なんだろ? やっぱり親の希望は全日制な訳?」
「ですね。彼の本来の希望も造形科」
國村が『開かずの間』と呼ばれている二階にある書庫の鍵を回し、梶がドアを開いて、中を覗く。
「相変わらず入り口付近の棚に投げ置けるだけ投げ置いて」
「入りますよ」
部屋に入ると梶は手前の棚に積まれた本を大量に抱え「いつも通り一番奥は、がら空きだろうな」と國村に云い、國村も本を抱える。
実際にがら空きだった一番奥の棚に本を並べていく二人。
「本当は順にしたいのですが、そうすると何日かかるか」
「元に戻す気もなく直ぐに出ていくし、捜す時ぐらいは苦労しても良いと思うけどね」
梶は、苦笑している國村が手元にある最後の本を棚に仕舞い終えると「とりあえず全部奥に持ってくるか」と声を掛ける。
「待ってください。先に倒れている本を起こしておきましょう」
「手分けして、と云いたいところだけども、一畳も離れると声も聴こえなくなるし、本当、不便極まりない。
出る時も入る時も必ず二人同時。一人が耐えられなくなったら、相手は何ともなくとも一緒に出るしかない」
梶も奥の棚で疎らに倒れている本を集めると、詰め寄せて並べる國村の元に持っていく。
「結局、長時間過ごせるのは此の組み合わせだけ」
「時折、慣性の法則を無視した印章の持ち主が居ますが、彼らならば問題ないとの仮説はありました。しかし答えは出ないまま。
私個人の見解は、梶さんの『観測』の印章がある意味、此の世界に歓迎されているのだと思っています」
「……なんでよ?」
「人間にカウントされていないのでは。要は火水風地と同等の存在。……あるいは」
解せない顔をする梶。
「本来、空間への曝露は禁じ手なんです。人以外に影響を与える事になります。
しかし怜莉くんは例外だった。
此れもまた梶さんと怜莉くんを誤認識した世界が許可をしている」
「修治の話も突飛がないんだよな。要は人畜無害の見物客は無視されるって解釈にもなる。まあ、何でも良いけどね」
国村は適当に収める梶に、仕方なさそうに口許だけを緩ませる。
「開かずの間っていう癖に必要になる本ばかり。それでも『中央』自体が閉鎖になって誰も居なくなれば」
國村は其の言葉で表情を変えると傍らの本を手にし、隣を片付けている梶に「無理でしょう」とぽつりと告げる。
「此の部屋に一番入りたくないのは、修治、お前だろう」
「書庫の管理も私の役目ですから」
近くの本だけを並び終えた梶は空いた棚を眺め、腕を組み、窓の無い壁に寄りかかる。
「鍵を開ける時、毎回、手が震えてるんだよ。ドアだってオレが開ける様にした」
「どうして、そういう事は見ているのでしょうね」
國村は背を向けて、ふと話始める。
「正式に所属して三年目に入る年。五年前。鍵を開けて、ドアを開けて。中には入らなくて良いと云われました。当時、鍵は一つだけ。
此の部屋には一人で入ってはいけない。此の部屋には宇宙を模しかけた物が封じてある。故に書庫に偽装している」
初めて聞く話に、國村の背中を見る梶。
「一人で入った者は黒い鳥になるという。しかし閉められたドアは開けなければ知りようもない」
2002年3月。
鍵を回し、ドアを開いた國村は暗い部屋の中を宙に浮く人影に気が付く。揺れるツインテール。首を吊っている女性。彼女が誰かもわかるまでに時間もかからず。
桜海が姉の様に慕っていた幼馴染。
眞稲まりか。22歳。
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