第13楽章.19番目の月
ケータイを開く怜莉。律のメール数件を確認した後、更に流し読みをする。
「大変でしたね。怪我がなくて何よりというしか」「個人的には、ですが、僕だったら塾の餅つきに参加させてもらっていたと」「女性向けのパジャマ? 怜莉さんも入りやすい店なら」
「怜莉さん」
2007年10月11日。木曜日午後。新月。
りんねは、怜莉が持つショッパーバッグに視線を上げる。申し訳なさそうな顔で隣に並んで、百貨店内の通路を一緒に歩く。
「パジャマって高いんだね」と呟くりんね。
「ルームウェアの方は帰ってきた時に着替えるんだよね?」と更に怜莉に問い掛ける。
「うん。オレが帰宅後にジャージに着替えている感じ。仕事着とパジャマの間」
怜莉の説明に頷くりんね。怜莉は急に足を止めて、下を向く。
「りんね。あと、この店」
りんねは怜莉が立ち止まった辺りのテナントを見回す。ランジェリーショップに気が付くりんね。

怜莉と一度、離れてから、りんねは店に入る。一人になり、見慣れない店に落ち着かず、辺りをチラチラしながら次第に店内の奥迄来てしまう。店員が話し掛けて、フィッテングルームに案内されるりんね。幾つかのやりとりの後、フィッティングルームのカーテンが閉められる。
一人っきりの空間の壁三面にある鏡。鏡にはりんねではなく鏡花が映る。りんねと異なって、身を縮こませる癖を見せる。
2007年6月15日。金曜日。
約4ヶ月前の出来事を丁寧に思い出す鏡花。あの日の夜の鏡花は茉莉だった。
「……こんばんは」
ベルをカランカランと鳴らし、ドアを開ける茉莉。カウンターの中に居るセリを見る。
「茉莉。また間違えてる」
セリの言葉にドキッとする茉莉。
「『おはようございます』でしょ?」
今度はハッとして「えっと」と慌てて、教えられた挨拶を口をする。
「えっと……夜なのにおはようございます」
「夜なのに『おはようございます』」
セリは顔を上げないまま、茉莉に挨拶を返し、洗い物を続ける。
「茉莉。突き出しの味見して。今日は蛸と大根の煮物と、胡瓜の梅肉和え」
「あ、はい」
「ちゃんとおにぎり持ってきた?」
「はい、あっ」
「何? どうした?」
カウンターの内側に降りると、茉莉はキャンバス地のトートバッグを胸元まで持ち上げて、中を覗き込む。
「……昨日買っておいた………半額の塩結びが……潰れてる」
「だから、あんた、本入れすぎだって。其処の分館、未だ貸し出してるの?」
洗い終えた小鉢を金属トレイの上に敷いたタオルに載せ、セリは蛇口を締める。
「今週貸し出し終了で、建て壊すみたいで……本館には行けないから」
「本当、人が多い所に行きたがらないよね」
トートバッグを床に下ろそうとした茉莉に視線を上げたセリが「ちょっと、あんた」と声を出す。
「え? え?」
「その格好で図書館うろついたの? 最近の若い子はノーブラって、そういう意味じゃないでしょ?
あれはパッドが入ったキャミソールとかタンクトップとか、ああ、それじゃ店にも出せないよ……ちょっと待ちな」
「え? え?」
何を云われているのか分からずに混乱している茉莉の側で電話を掛け始めるセリ。
「あ。西岡さん? もう駐車場? ああ、良かった。店開ける前に連れていってほしい所があって」
茫然としている茉莉と、奥のロッカーから自分のバッグと春物のストールを取り出す忙しないセリ。
そしてカウンターの入り口に立っている茉莉にストールを渡すと「羽織って。出掛けるよ」と声を掛ける。
後部座席でストールがはだけない様に温和しく座り、時折、車に揺られる茉莉。助手席では、セリが4月に起きた遠い国の銃乱射事件の話をしている。
「茉莉、降りるよ。西岡さん、ごめんね。待っててくれる?」
衣類量販店の駐車場。セリと一緒に車から降りる茉莉。
「サイズがわからない? 全く持っていないってどういう事? ああ、じゃあ、こっちで」
店内に入ってからセリが話した事も状況も飲み込めない茉莉を壁際の棚に連れて行くセリ。
「服は5号か7号でしょ? となるとSサイズ。でも私より身長高いし? でも私より細くて。え? わからないんだけど? こっちも持ってないの?」
セリはそう云いながら3枚のハーフトップが入った透明包装袋を手に取る。
「……1480円」
値段を確認する茉莉。
「良いよ、私が払うから。其の代わり、お金貯めたら、ちゃんと測ってもらえる様な店で買いなよ? 茉莉は其処の試着室で待ってて」
「セリさん!」
呼び止められて振り向くセリ。
「私が払います。だって、必要な物なのでしょう? 私に必要なものは私が買います」
重いトートバッグを肩に掛け直し、茉莉はセリの目を真っ直ぐに見つめる。

「……茉莉ってどういう顔だったっけ」
鏡に右掌を当てて、ぽつりと口にする鏡花。化粧をしても、鏡花は子供に見える。外に居る店員に声を掛けられて、昔を思い出していた鏡花は慌てて、背筋を伸ばし、りんねの顔をする。
やがてカーテンを開ける店員。りんねが試着した下着を整えて「ホックは一番奥が良いと思いますよ」とアドバイスをする。りんねは躊躇いがちに購入する意志を伝える。
元の服に着替え、下ろした灰色の髪に手櫛を通す。改めて背筋を伸ばし、フィッティングルームを出るりんね。レジカウンターに向かうと、真向かいの雑貨屋から怜莉が出てくる。ランジェリーショップの商品を見ない様にして、りんねの傍に行く。スタッフの前にクレジットカードを置き、会計が表示されたディスプレイを見る。
「こんなに安いの? 幾つか買った?」
「あ。うん。えっと……2セット。セットの方が……セールで安くて」
「だったら、もう少し買えば?」
りんねが返答に困っているとレジに居る店員は怜莉を見て、微笑む。
「せっかくなら彼氏さんが選んでみるのはどうですか? カップルで来られる方も多いんですよ」
笑顔を向けられた怜莉は思わず固まってしまう。

赤面して顔を床に向け、百貨店内を歩く怜莉と、手を繋いで後ろを歩くりんね。ランジェリーショップのロゴを肘で隠す様にショッパーバッグを持つりんねもまた恥ずかしそうにしている。
そして今度はりんねが足を止める。
「綺麗な青」
通りかかったディスプレイのトルソーに着せてある鮮やかな青いワンピース。思わず目が行ってしまったりんねの手を引いて、テナントに入る怜莉。
「表の青いワンピースを試着したいんですけど」と店員に声を掛ける怜莉。
「れ……怜莉さん。私、目立つ色なんて着た事無いし、ほら、いつも黒と白、ああいう灰色の服で」
りんねは咄嗟に近くのトルソーに灰白色のニットのセットアップを見つけて指を差す。
「じゃあ、こっちの試着も」
「れ……怜莉さん」
またフィッテングルームに入るりんね。脱ぎ終えたセットアップを壁のハンガーフックに戻すと青いワンピースに着替える。
「凄く似合いますよ。顔立ちがはっきりされていると、明るい色は似合いますし」
「うん。可愛いと思う」
様子を見に来ていた怜莉に云われ、今度はりんねが顔を赤くする。
「りんね。これも着て」
怜莉は手に持っていた白いロングダウンをりんねに渡す。りんねは訳が分からないまま、ワンピースの上から袖を通す。
「少し大きいけど着込んだ時を考えるとこれくらいが良いですよね?」
「そうですね。こちらも似合いますね。人気の新作で、デザインも学生から主婦層と幅広い方に好評で普段着にもフォーマルにも合わせやすいですし」
「でしたら、この三点を購入で」
「れ、怜莉さん。こんなにいっぱい……」

「……怜莉さん。こんなにいっぱい買ってもらって、私、どうしたら良いの」
買った物を纏めて詰めた大きなショッパーバッグを持つ怜莉。二人は手を繋いで、百貨店の外を歩く。
「これで良かったの? 怜莉さんがしたかった事って、此れで合ってるの?」
「うん。たくさん買い物をしてみたかった」
怜莉の返事に何も云えないりんね。買ってもらったばかりの灰白色のニットのセットアップを着て、今日はミニーレターバッグを肩から掛けている。
「りんね。お腹すいた? 少し早いけど、もうお店行く?」
遠慮がちに頷いて、怜莉の後ろを付いて路地裏に入る。流木を組み合わせた壁。中が見えない窓。頭上には[ Jeu des erreurs ] という吊り下げアイアン看板。小窓がある黒いドアに立つ怜莉。
小さな店の前で「怜莉さん」と訊ねるりんね。「ガレットって蕎麦粉のクレープ? で良いんだよね?」
「うん」
怜莉はりんねの質問に答える。ドアを開けて、予約した時間と苗字を告げる。
「ラタトゥイユのガレットと、ベーコンときのこのガレットを」
オーダーが済んだ後もりんねはそわそわと周りを見回している。
「りんねのトートバッグって何でも入ってるけど、其のバッグも入っていたんだ」
財布とケータイしか入らないバッグを抱えて、頷くりんね。
「高校卒業してからね。今の部屋に引っ越した時に必要な物は大体買ったんだ。食器とかはさ。律って男友達が居るんだけど、お祝いにペアで一通りくれて」
「そういえば、お茶碗もコップも皆、お揃い」
「りんね。律に会ってみる? オレより6歳上で小学生の子供が居て」
慌てて首を振り、りんねは下を向く。一瞬、鏡花の顔になる。
「緊張する?」
深く頷くりんねを見て、話を戻す怜莉。
「其れで、昨日、欲しい物や必要な物を考えていたら、りんねのパジャマが無いって」
「私が怜莉さんのパジャマ、借りたままで」
「あれは着ないまま小さくなったものだから。ウエストもりんねのサイズに直したし。だからもうりんねのパジャマなんだよ。だけど、一着しかないから」
りんねは、ふと、鏡花が春に着ていたピンク色のパジャマを思い出す。
アップルパイのイラストの下には『My apple pie is half with you』という英文が書かれている子供用のパジャマ。袖も裾も丈も短くて、次第に窮屈になり着られなくなる。
鏡花の身長は一学期の身体測定の時は154㎝あり、中学一年生女子の平均よりも高かった。
「食べられない日があっても慣れる。成長もする」そう云いながら鏡花は140㎝のパジャマを段ボールの奥に仕舞い込む。
そして自分の給料で購入したばかりの、校名と苗字の入った、学校指定のトレーニングウェアとエンジ色のジャージをパジャマ代わりにしていた。
「ニット、暖かい? もしかして未だ暑かったかな?」
怜莉の声で、我に返るりんね。首を振って「……暖かいよ。ありがとう」と小さくて柔らかい声で照れながら伝える。そのまま、怜莉を見て、りんねは続ける。
「ね。怜莉さん。明日で一週間。未だ一週間しか経っていないんだよ。私が怜莉さんの部屋に来てから一週間」
「未だそれぐらいだっけ?」
「いろいろな事があって。私と怜莉さん、一緒にジェットコースターにでも乗っちゃったのかな?」
「ジェットコースターは遊具だから点検さえしていれば安全だよ」
素直に訊ねるりんねに穏やかに答える怜莉。
「……点検って誰がしているの? あと、えっと……怜莉さんには必要な物は無いの? 机はあるのに椅子が無いよ?」
りんねが訊ねると同時。水の入ったグラスの横に、薄くスライスされた生姜と玉葱のシンプルなスープのカップが置かれていく。
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