第15話.19番目の月


 

 怜莉はケータイを開くと律とのメールのやりとり数件を確認し直す。


「それは…大変でしたね。とにかく怪我がなくて何よりというしか」「個人的には、ですが、僕だったら塾の餅つきに参加させてもらっていたと」「女性向けのパジャマ? 怜莉さんも入りやすい店なら」


「怜莉さん」


 りんねは怜莉が持つルームウェア専門店のショッパーバッグに視線を上げながら、申し訳なさそうな顔で百貨店内の通路を歩く。


「パジャマって高いんだね」


「ルームウェアは帰ってきた時に着替えるんだよね?」と問い掛ける。


「うん。オレがジャージに着替えている感じ。仕事着とパジャマの間」


「うん」


 急に下を向き、足を止める怜莉。


「りんね。あと、この店」



「……こんばんは」ベルをカランカランと鳴らし、ドアを開けると鏡花は茉莉の顔をして、カウンターの中に居るセリを見る。


「茉莉。また間違えてる。『おはようございます』でしょ?」


「えっと……夜なのにおはようございます」「夜なのにおはようございます」


 セリは顔を上げないまま洗い物を続ける。


「茉莉。突き出しの味見して。蛸と大根の煮物と、胡瓜の梅肉和え」


「あ、はい」


「ちゃんとおにぎり持ってきた?」


「はい、あっ」


「何? どうした?」


 カウンターの内側に降りるとキャンバス地のトートバッグを胸元まで持ち上げて、中を覗き込む茉莉。


「……昨日買っておいた半額の塩結びが……潰れてる」


「いやだから、あんた、本入れすぎだって。其処の分館、未だ貸し出してるの?」


 洗い終えた小鉢を金属トレイの上に敷いたタオルに載せ、蛇口を閉めるセリ。


「今週貸し出し終了で、建て壊すみたいで……本館には行けないから」


「本当、人が居る所に行かないよね」
 トートバッグを床に下ろそうとした茉莉に視線を上げたセリが「ちょっと、あんた!」と声を出す。


「え? え?」


「その格好で図書館うろついたの? 最近の若い子はノーブラって、そういう意味じゃないでしょ?

 あれはパッドが入ったキャミソールとかタンクトップとか、ああ、それじゃ店にも出せないよ……ちょっと待ちな」


「え? え?」


 何を云われているのか分からずに混乱している茉莉の側で電話を掛け始めるセリ。


「あ。西岡さん? もう駐車場? ああ、良かった。店開ける前に連れていってほしい所があって」


 茫然としている茉莉と奥のロッカーから自分のバッグと春物のストールを取り出す忙しないセリ。

 そしてカウンターの入り口に立っている茉莉にストールを渡すと「羽織って。出掛けるよ」と声を掛ける。


 後部座席でストールがはだけない様に温和しく座り、時折、車に揺られる茉莉。助手席ではセリが今日のニュースの話をしている。


「茉莉、降りるよ。西岡さん、ごめんね。待っててくれる?」


 衣類量販店の駐車場。セリと一緒に車から降りる。


「サイズがわからない? 全く持っていないってどういう事? ああ、じゃあ、こっちで」


 状況が未だ飲み込めない茉莉を壁際の棚に連れて行くセリ。


「服は5号と7号で良い訳でしょ? となるとSサイズ。でも私より身長高いし? でも私より細くて。え? わからないんだけど? こっちも持ってないの?」


 セリはそう云いながら3枚組のハーフトップを手に取る。


「1480円」


 茉莉は透明包装袋には貼ってあるシールの値段を確認する。


「良いよ、私が払うから。その代わり、お金貯めたら、ちゃんと測ってもらえる様な店で買いなよ? 茉莉は其処の試着室で待ってて」


「セリさん!」


 呼び止められて振り向くセリ。


「私が払います。だって、必要な物なんでしょう。私に必要なものは私が買います」


 重いトートバッグを肩に掛け直し、茉莉はセリの目を見つめる。



 フィッテングルームの中で鏡を見る鏡花。


「茉莉はどんな顔をしていたのだろう」


 鏡花には、茉莉の姿も、りんねの姿も分からない。髪を下ろして化粧をしている以外はいつも何も変わらない。


 カーテンを開けて、試着した下着を整える年配のスタッフ。


「ホックは一番奥が良いと思いますよ」
「あ。はい」


 また元の服に着替えて、店の奥のレジカウンターに向かうりんね。


 隣の雑貨屋に居た怜莉は周りを見ない様にしながら、りんねの側に行くとスタッフの前にクレジットカードを置き、会計が表示されたディスプレイを見る。


「こんなものなの? ちゃんと買った?」


「あ。うん。えっと2セット。セットの方がセールで安くて」


「だったら、もう少し買えば?」


 りんねが返答に困っていると年配のスタッフは「せっかくなら彼氏さんが選んでみたらどうですか。カップルで来られる方も多いんですよ」と怜莉に笑顔を向ける。


 怜莉は思わず固まってしまう。



 赤面して顔を床に向け、百貨店内を歩く怜莉と手を繋いで後ろを歩くりんね。ランジェリーショップのロゴを肘で隠す様にショッパーバッグを持つりんねもまた恥ずかしそうにしている。


 そして急にりんねが足を止める。


「綺麗な青」


 通りかかったディスプレイのトルソーに着せてある鮮やかな青いワンピース。思わず目が行ってしまったりんねの手を引いて、テナントに入る怜莉。


「表の青いワンピースを試着したいんですけど」と近くのスタッフに声を掛ける怜莉。


「れ……怜莉さん。私、目立つ色なんて着た事無いし、ほら、いつも黒と白、ああいう灰色の服で」


 りんねは咄嗟に近くのトルソーに灰白色のニットセットアップを見つけて指を差す。


「じゃあ、こっちの試着もお願いします」


「れ……怜莉さん」


 またフィッテングルームに入るりんね。脱ぎ終えたセットアップを壁のハンガーフックに戻すと青いワンピースに着替える。


「いかがですか?」


「あ、ちょっと待ってください」慌てるりんね。


「凄く似合いますよ。顔立ちはっきりされているし、明るい色は似合いますよ」


「うん。可愛いと思う」


 様子を見に来ていた怜莉に云われ、今度はりんねが顔を赤くする。


「……派手じゃないかな」


「着慣れないだけじゃない? そっちは着てみた?」と壁際のセットアップを見る怜莉。


「……うん」


「サイズはいかがでした?」


「大丈夫でした」


「りんね。これも」怜莉は手に持っていた白いロングダウンをりんねに渡すと、りんねは訳が分からないまま、ワンピースの上から袖を通す。


「少し大きいけど着込んだ時を考えるとこれくらいが良いですよね?」


「そうですね。こちらも似合いますね。今年人気の新作で、デザインも学生から主婦層と幅広い方に好評で普段着にもフォーマルにも合わせやすいですし」


「でしたら、この三点を購入で」


「れ、怜莉さん。こんなにいっぱい……」



「……怜莉さん。こんなにいっぱい買ってもらって、私、どうしたら良いの」
 他の店で買った物を纏めて詰めた大きなショッパーバッグを持って、りんねの手を繋いで歩く怜莉。


「これで良かったの? 怜莉さんがしたかった事って、此れで合っているの?」


「うん。たくさん買い物をしてみたかった」


 財布とケータイしか入らない、茉莉の為に買ったショルダーミニーレターバッグと、怜莉に買ってもらった灰白色のニットセットアップ。


「りんね。お腹すいた? 少し早いけど、もうお店行く?」


 遠慮がちに頷いて、後ろを付いて路地裏に入ると、怜莉は、流木を組み合わせて作った壁に、中が見えない程度の窓のある小さな店の前で立ち止まる。黒いドアにも小窓があり、頭上には『Jeu des erreurs』 という吊り下げアイアン看板がある。


「怜莉さん、ガレットって蕎麦粉のクレープで良いんだよね?」


「うん」


 怜莉はりんねを見てからドアを開けて、予約していた時間と苗字を伝える。


「ラタトゥイユのガレットと、ベーコンときのこのガレットを」


 オーダーが済んだ後もりんねはそわそわと周りを見回している。


「りんねのトートバッグって何でも入ってるけど、そのバッグも入っていたんだ」


 頷くりんね。


「高校卒業してからね。今の部屋に引っ越した時に必要な物は大体買ったし。欲しい物も思い浮かばないし。

 食器とかはさ。律って男友達が居るんだけど、引っ越し祝いにペアで一通りくれて」


「そういえば、お茶碗もコップも皆、お揃い」


「……りんね。律に会ってみる? オレより歳上で小学生の子供が居て」


 慌てて首を振り、下を向くりんねは一瞬鏡花の顔をする。


「緊張する?」


 深く頷くりんねの様子に話を戻す怜莉。


「それで必要な物を考えていたら、りんねのパジャマが無いって」


「パジャマ、怜莉さんの借りていて」


「あれは着ないまま小さくなったのに取っておいていたものだし。ウエストもりんねのサイズに直したし。だからもうりんねのパジャマなんだよ。だけど、一着しかないから」


 りんねは鏡花が春に着ていたピンク色のパジャマを思い出す。

 アップルパイのイラストの下には『My apple pie is half with you』という英文が書かれている子供用のパジャマ。袖も裾も丈も短くて、次第に窮屈になり着られなくなる。


 鏡花の身長は一学期の身体測定の時点で154㎝あり、中学一年生女子の平均よりも高い。


「食べられない日があっても慣れるし、成長もするし」云いながら鏡花は140㎝のパジャマを段ボールの奥に仕舞い込む。


 自分の給料で購入したばかりの校名と苗字の入った、学校指定のトレーニングウェアとエンジ色のジャージをパジャマ代わりにしていた。


「ニット、暖かい?」


 りんねは頷いて「ありがとう」と小さな声で云う。


「ね。怜莉さん。明日で一週間。未だ一週間しか経っていないんだよ。私が怜莉さんの部屋に来てから一週間」


「未だそれぐらいだっけ?」


「いろいろな事があって。私と怜莉さん、一緒にジェットコースターにでも乗っちゃったのかな?」


「ジェットコースターは遊具だから点検さえしていれば安全だよ」


「怜莉さんには必要な物は何もないの? 机に椅子が無いよ?」


 りんねが訊ねると同時に水の入ったグラスの横に薄くスライスされた生姜と玉葱のシンプルなスープのカップが置かれていく。 


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