第14話.砂の上の足跡
國村と桜海は東睡の建物を無言のまま出ると、本殿との間の庭を歩き始める。
「えっと! 怜莉が刺されかけて!」
先を急ぎながら、桜海がやっと説明を始める。
隣に並んで歩き、冷静に「何処で……誰にですか」と返す國村。
「本殿! さっき、塾の生徒だっていう中学生が東口玄関から入ってきて!」
「……生徒」
「怜莉が応対したんだけど、えっと、それで、ナイフで刺されかけて」
「怜莉くんの怪我は」
「大丈夫」
「どんな生徒でしたか」
「学ランに苗字が刺繍してあって……はっそく? 漢数字の八に手足の足?」
「それはヤタリと読みます。彼は今は?」
「梶さんが取り押さえて、もう本殿入っちゃったから。あと、ナイフは没収して事務所の南瓜に刺してきた!」
「本殿では騒ぎに?」
「集まってきたけど『塾生が間違えて入ってきた』って。だから解散してもらって」
桜海が急に立ち止まる。
「待って。……5回深呼吸する」
それから焦りを落ち着かせると本殿の東口の鍵を開ける。
応接室。向かい合わせのソファ。上座で俯いた八足、真向かいに梶。窓際の木机に怜莉が腕を組んで立ったまま寄りかかる。
「八足くん」
顔を上げない八足。國村は怜莉を見ると、怜莉は視線を合わせ、陰りのある笑顔で軽く頷く。桜海は辺りを見回して、八足の後ろ、ソファ越しの位置に立つ。
「席変わる?」
「いいえ。隣に」
梶の隣に國村は座り、もう一度「八足くん」と静かに声を掛ける。
「誰でも良かったんですか?」
「……初めから橘さんを刺すつもりでした」
微かに反応する怜莉。
「……去年、年末年始も塾に来て良いって言われて。他の先生と一緒に臼と杵を借りに行ったら、橘さんと」
八足は後ろを振り向いて、桜海が「朔」と名乗る。
「朔 桜海」
「……橘さんと朔さんが応対してくれた時、
年末年始の予定を先生達と話して、朔さんは東京の祖父母の家に行くって言ってたけど、
橘さん、30日が誕生日で仕事もないのに休まないって言うから、
オレは休むべきだって話したら、橘さん、休むって言ったのに……誕生日なのに仕事に来て……」
「それが理由ですか」
八足が頷いた後、桜海と梶は無言のまま、怜莉に視線を向ける。
視線を向けられた怜莉は「……覚えてる」と静かに返す。
「……休もうと思ったんだ。でも朝になって、やりたい事も無いし、趣味も無いし、遊んでくれる様な友達も居ないから」
「……言い訳しかしないんですね」
自分の足元に顔を向け、ぽつりと呟く八足。
「……嘘と言い訳だけなんですね」
「……ごめん」
其れ以外に返す言葉が無くなる怜莉。
「怜莉くん。梶さん。一旦、私と退室してもらっていいですか。桜海くんは此処で」
「え?」
國村の言葉に声を出す桜海。
ドアを閉めると、國村は怜莉に、そして梶に頭を下げる。
「怪我はなかったですか?」
「大丈夫。怜莉はオレが突き飛ばしたから何処か打ったかもしれないけど」
「僕も大丈夫です。それより」
怜莉は國村の顔を見る。
「あの……申し訳ありませんでした。軽い気持で休むと云ったのは確かです」
謝る怜莉の顔を覗く梶。
「お願いして良いでしょうか。彼を否定しないであげてください。
否定したら彼は間違えます。どう間違うのかはわかりません。
でも否定されたら、彼は間違ってしまいます」
國村の言葉に顔を見合わせる梶と怜莉。
「後程、改めて事務所に謝罪に伺います」
「修治さ。修治の所の生徒だとしても、本殿でのトラブルはオレの責任な訳よ。だから一人で背負い込むのやめない?」
梶が國村に声を掛ける。
応接室に残された桜海はソファを挟んで背中越しの姿勢で腕を組み、時折、下を向いたままの八足の様子をちらちらと窺う。
「……ハンティングナイフだったね。ナイフ集めてるの?」
反応しない八足。
「ツイストダガーとかおすすめだけど」
「ツイ……?」
桜海の方を振り返って少し視線を上げる八足。
「オレ、集めてたよ。死んだ方が良い人もがいるからね。でも、辞めたの」
「……どうしてですか?」
「……ひとりにしたくない人が居る。それだけ」
また下を向く八足が急に汗を掻いて、徐々に深刻な顔付きになっていく様子を僅かに振り向いた桜海だけが見ている。
事務所に戻った桜海は入り口の前で木製キャビネットの上に載った南瓜を抱え、胡坐をかいて其の場に座り込む。
「……抜けないように刺したら抜けなくなった」
そう云いながら南瓜から何とかナイフを抜こうと苦戦している桜海。
「桜海。なんで南瓜があるんだ」
「ジャックオーランタンを作ろうと思って、今朝持ってきたの」
梶は自分の分の珈琲を入れると桜海が騒動前に座っていたデスクチェアに腰掛ける。「ジャックオーランタンねぇ」
「なんかね。衝動的ではないけど、ちゃんと計画してもなかった感じ?」
「桜海、何か話した?」
手前側のデスクにリュックを置きながら怜莉が話し掛ける。
「話したよ。オレもそういう時期あって辞めたって。あーもう本当に抜けない……」
南瓜を無造作に床に置く桜海。
「怜莉。オレも思い出したんだけど。東睡の先生達と蔵に来た子だったよね。八足一砂くん。其の時は中学二年生。
でね。親から弟を不登校の子達が集まる場所には連れて行ったらいけないって云われたの悩んでたの。でも両親は年末仕事で、自分が塾に行ったら弟だけの留守番になるって」
桜海を見る怜莉。
「八足くんの感情の開閉器は『弟』だと思う。國村さんにも伝えておいて。気付いているとは思うけど」
「……開閉器」「……スイッチ」
「いや分かるけど……ごめん。桜海。今日、早退させてもらうから」
「送っていく?」
「良い。バスで帰る」
「じゃあさ。折角だから明日も休んだら? 怜莉がサボっていた仕事、引き継いでおくから。それで今日一日、自分のしてみたい事を考えてみてさ。明日一日掛けてやってみたら?」
梶は珈琲を啜りながら、二人の会話を温和しく聞いている。
「桜海。退かないと怜莉が出られないけど」
「あ。そっか。ああ。もう未だ落ち着いてないのかな」
「……いや。普段と変わらない」
「梶さん、酷い……」
床にナイフの刺さったままの南瓜を置いて、立ち上がる桜海。
「桜海、序にキャビネットの上の土産。怜莉の分、取り分けてやって」
「ただいま」
玄関で照明のスイッチを押すりんね。昨日今日と使わなかった傘をアンブレララックに仕舞う時、怜莉の仕事用の靴が揃えて置いてあるのに気が付く。
開いたままの居間との間のドアの向こう。ローソファの背凭れにスーツのジャケットが乱雑に掛けてある。
「……怜莉さん?」
居間に入るとバッグを床に置いて、姿勢を低くし、ローソファに横たわる怜莉の様子を窺う。背凭れに向けた顔を腕で覆い、ネクタイも緩めずに眠っている怜莉。
りんねはローテーブルの隙間に入り、膝をついて、背中に声を掛ける。
「怜莉さん」
僅かに動きはあった様にも見える。
りんねが考え始めて長く立つ頃。怜莉はふっと目を覚まし、左肘をついて気配のある方向に振り返る。ソファの前、フローリングに正座を崩して、りんねが座り込んでいる。
「りんね」
開いたままのカーテン。照明だけは点けた部屋。時計の長針が落ち、七時を過ぎる。
「ずっと其処に居たの?」
怜莉が左手を伸ばし、りんねの頬に触れる。りんねは「良かった」と答える。
「目が覚めなかったらどうしようって」
「りんね。いつから居るの?」
「帰ってきてから。怜莉さん。やっぱり具合悪い? 私、真屋先生に連絡しようか悩んで」
「大丈夫だよ。考え事をしていたら、寝てしまって」
りんねは心配そうな顔をする。
「此れで良かったのかなって。正しいと思って選んだのに、昔だったら誰かを傷付けてしまう前にわかる事も多かったのにって。もし傷付けたとしても直ぐにわかった筈って。
自分も他人も嫌な思いをして……だから何をしたかったんだろうって。
だけど、りんねの考えている事は結局わからないと思うし」
「私?」
少しだけ前のめりになって、怜莉の顔をみつめるりんね。
「うん。あのね、りんね」
「うん」
「今日、刺されかけた」
りんねの表情と、怜莉の側に傾けている身体の動きが急に止まる。
「誰に……どうして……」
「職場で知り合った人。オレが嘘を吐いたから」
りんねの表情は未だ動かないまま。そして空気を含む様に声を出すりんね。
「怜莉さん。怜莉さん、あのね。私は嘘を吐いたら殺されてしまっても、それはもう仕方がないと思うの」
怜莉も動きを止める。
「でもね。でも。怜莉さんが死んじゃったら、私はどうしたらいいの」
りんねを見る怜莉。
「そうだね。オレが死んだら、りんねがお腹を空かせちゃうね」
「怜莉さん」
「その時はオレを食べても良いよ」
「怜莉さん、私は虎じゃないよ」
「虎? 兎じゃなくて?」
そう返した瞬間。りんねは唐突に、崩れる様に床に頭を押しつけて声を上げ、泣き出してしまう。
「りんね」
怜莉は突然の事態に茫然と焦りながらも起き上がり両手を差し出し、りんねを抱え込もうとする。りんねはその場に突っ伏したまま、大声でひたすら泣き続ける。
「どうして。どうして、そんな事を云うの」
「……りんね」
時計の針は間もなく8時に向かう。
抱き上げられて、怜莉に雪崩れ込み、未だ微か泣き続けるりんね。怜莉は灰色の髪を撫ぜる。
「……ごめんなさ」
しゃくりあげて、上手く云えないりんね。
「なんでりんねが謝るの」そういう風に伝え、途惑いがちに怜莉が「ごめん」と口にする。
「……私の事、嫌いになっ」
「え?」きょとんとしてしまう怜莉。
「……怜莉さ……お願……一人にしな……」
また声を出して泣きそうになるりんねを更に抱き寄せる。「……うん」
「りんね。もし明日、りんねも仕事も休めるのなら、一緒に買い物に行こう? 電車に乗って、少し遠くで」
りんねは泣き腫らした赤い目で怜莉に視線を向ける。
「りんねのパジャマと部屋着を買いたいんだ」
そして、ちょうど8時になる時計。
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