第13話.透明性の錯覚
「怜莉。怜莉ってば」
桜海が何度も声を掛けるが怜莉は机に肘をついてパソコンの画面を見たまま。
目が覚めるとベッドの中にりんねが居なかった。
LDKを覗き、廊下に出ると洗面所兼脱衣所のドアの隙間から灯りが漏れている。洗濯機隣の壁の折り畳み踏み台に座って、ケータイ電話を開いているりんね。
怜莉が鳴らした公衆電話の履歴だけ。昨日から今まで、他の着信履歴はなくて、ショートメールも届いていない。
りんねは電話帳の [ 母 ] の連絡先を開くと、メニューから『削除』を選び、キーを押す。
脱衣所のドアが開く。
「怜莉さん」
「何してるの?」
「ケータイ確認したかったから、部屋で開いたら画面が明るくて、起こしちゃうと思って」
「……気になる事でもあった?」
「……昨日、色々あったから電話とかメールとか沢山来ているかもしれないって。でも何もなかった。私の居ない所で解決したんだと思う。いつも私は何も話せない。……怒られるって思ったのに、怒る時と怒らない時の違いがよくわからないの」
「りんね」
「私が不幸だとステージが上がるんだよ」「ステージって」
「そうでも思わないと生きていけないんだって。大丈夫。連絡先消したから」
側に跪くパジャマ姿の怜莉。
「あのね。怜莉さん。私、お金だけは返しておきたい。封筒の」
「りんねは返しても大丈夫なの?」
俯いて長い灰色の髪で顔を見せないりんね。
「……ごめんなさい。……本当は後二万……足らない。管理会社に連絡して、また来月迄待ってもらおうと思っていたけど…」
「良いよ。わかった」
「あのね。もうあの部屋には帰らないし光熱費も基本料金で済むと思うから、此処での生活費も少しずつでも渡せる様に……するから」
「りんね。また泣いてるの?」
顔を上げないままのりんねの髪を撫ぜる怜莉。
「ベッドに戻ろう。未だ四時過ぎだよ。りんね、昨日と今日は朝早くから予定があるって」
ふと、りんねはセーラー服を着た『臥待鏡花』だった自分の姿を思い出す。
「……ないよ」
りんねは顔を上げる。
「りんねには朝の予定なんてないよ」
「怜莉。怜莉ってば」
桜海が何度も声を掛けるが怜莉は机に肘をついてパソコンの画面を見たまま。
「怜莉ってば!」
「え? 何?」
職場で桜海に声を掛けられている状況を把握し直す怜莉。
「怜莉って考え事している時、全力で無視するよね?」
「そういう訳じゃ」
「ただ考え事している人が話していたら情報過多になるし、どっちが話している言葉なのか分からなくなってくるし、こっちも集中しないと試験の時なんかに他人の思考が入ってきたら邪魔で」
「オレには怜莉の考えている事、聞こえないんだけど」
「あ、そっか。無意識に昔の癖が出たんだ……これ……」
改めて気付かされると、怜莉は『無視された』と言われた過去の話が急に幾つか思い出されて、今はもう無い自宅の椅子にも意識が及ぶ。
そしてパスタが床に散らばった日曜日の夜。慌てて掴んだりんねの手首。それから、不安定なっていく、りんねの印章の形。
「聞いてる?」
「あ。うん」
顔を上げて、桜海を見る怜莉。
「梶さん、朝から山口に『虎の絵』の回収に行ったけど、名古屋にもあるって訊いて、そのまま名古屋に行くって午前中に連絡が来たの」
「だったら梶さんの明日の予定次第だけど、宿泊出張に切り替える準備もしておかなきゃ……」
隣に並ぶ机のデスクトップを眺めている桜海。
「虎の絵自体の渡していた期間は短いんだよね。
それで事情を話したら返却しくれた人が殆どで、後は形見として持っていたいとか。問題は本人や家族が処分した、譲渡した、売りに出したってケース。
でも追跡して回収はだいぶ済んで……聞いてる? 聞いてない!?」
「……桜海、あのさ」
「……?」
「あのさ……桜海、話変わるんだけど、確認したい事があって。印章の形って変化する?」
「しないよ」
あっさりと返す桜海。
「大昔、テストしたんだって。明治の終わり? 江戸時代? 室町時代?」
「……全然違うんだけど」
「兎に角、昔。『印章』の存在を味で分かる人、音で聴こえる人、匂いで分かる人、様々なんだけど、視覚で分かる人、それも図形で分かる人の話が共通認識として、一番使い勝手が良かったの。
それで印章を視覚で確認出来て、更に表現に優れた人達を集めてテストしたんだって」
「初めて聞くんだけど」
「そう? でね。十二種類の印章がどう視えているかを絵に描かせた。
そしたら七割が全く同じ物を描いたの。残りの三割にも注視して描きなさいって。
その間に情報を知っちゃった人は勿論省いて、そしたら残りの全員も同じ物を描いた。印章の形は全部決まっているの」
「確か、その形じゃないといけない理由があるんだよね。計算が合わなくなるって」
「んー。難しい事は知らない」
「だからさ。正解の形に見えないのなら、こっちのコンディションの問題だけど、怜莉だったら絶対にない」
「なんで言い切れんの」
「中央に所属する前に散々代表に試されてる。相当酷い目にも遭わされてる。でも視え方に変化はなかったから合格」
「そんな事されたっけ?」
怜莉は過去四十二年分の中央登録者の名簿、ファイル10を閉じる。
「あとさ、梶さんは相手に直接影響を与えないで空間に影響を与えて視るって方法を早い時期に身に着けてたけど、それでも過敏な人? 繊細な人?
そういう人は見られているって気が付いちゃって、間接的に相手に影響を及ぼしてる状態になるから気を付ける様に云っていたよね。
ただし、物凄く稀だって」
「……最初の時はその話も思い出したんだけど、違う気がして」
「怜莉、今日、ぼんやりしてる? 眠い? 寝てないの?」
桜海が怜莉の机に乗り出してパソコンを覗く。
「仕事してない」
「とりあえず休憩」
パソコンチェアに寄りかかかる背を伸ばす怜莉。
「彼女、あの後、連絡取った? 体調大丈夫そうだった?」
「昨日は不安定だったけど、今朝は朝食を食べた後、蟹の動画見ながら、尾崎翠読んでいて、あとプレゼントしたレシピ本も一緒に読んでたから、少しは落ち着いてくれていると思う」
「……お泊り?」
「え? 一緒に住んでる」
「……ふざけんな!」
「ふざ……? いや、何で怒られてるの、オレ。そもそも桜海こそ左手の薬指の指輪、一体何の為にしてるのか全然説明しないし」
「ちびっこだけだと騒がしいな」
事務所のドアが開き、そちらを見る怜莉と桜海。スーツ姿の梶がビジネスバッグと紙袋を持って立っている。
「あれ?」
桜海を見る怜莉。桜海も怜莉を見て首を傾げる。
「桜海に伝言した後で、先方から名古屋を出て山口に向かっているって連絡が来たんだ。それで山口で待って、受け取ってきた」
キャビネット上の南瓜の手前、開いたスペースに一先ず紙袋だけを置く梶。
「お疲れ様です」と怜莉が労うのに対し、「おかえりなさい」と無邪気さを隠さずに声を掛ける桜海。
「ただいま……って、何で此処に南瓜が置いてあるんだ」
「あ。怜莉、さっきのテストの話ね。
此処に来た初日にいきなり受けされられて、即答で全問正解したのが梶さん。
多分、その条件で合格したの梶さんしかいない」
「いや、何の話だ」
梶が事務所のドアを閉めようとした時、廊下の先で物音がしたのに全員が気が付く。
「東側の玄関の音? 國村さん?」
「見てくる」
立ち上がって廊下に出る怜莉。
東側の引き戸の前に誰か居る事を確認して、声を掛けると相手が返事をする。
「あの。塾の生徒で、國村先生が予備の眼鏡を忘れたそうで代わりに受け取りに来て」
怜莉は不審に思うものの、軍足にサンダルを引っ掛ける。土間に降り、引き戸を開ける。学ランを着た温和しそうな男子中学生。
「……本殿には入れられない事になっているから待ってて」
怜莉が背を向けて数歩歩き、サンダルを脱ごうとした瞬間。勢いよく突き飛ばされて、本殿の廊下に音を立てて倒れる。
訳が分からないまま上体を起こすと、梶に右肩を抑えられ、後ろ手に右手をねじ上げられた中学生が土間に押し付けられている。
「怜莉、大丈夫か?」
「え? え?」
突き飛ばしたのは梶だと判ると同時に、落ちた弾みで傍らに揺れるナイフに気が付く。
「え?」
「ええええええ!?」
物音の後、廊下に飛び出し、状況が把握出来る場所まで来た桜海が一番大きな声を上げる。
「國村先生!」
桜海が東睡内の教室、前ドアを勢いよく開く。塾生達の視線は袈裟姿の桜海に向かう。
「授業中ですよ」と國村は教卓から桜海に云いつつも、教科書を閉じ、ドアの側に行く。
「何かあったんですか」
「えっと、あの」
生徒達を気にして、説明の出来ない桜海。國村は廊下に出るとドアを三分のニ程、閉める。
桜海のジェスチャーにもならない手の動き。國村は思案顔を向けると「わかりました」と再び教卓に戻る。
「駐車場の移動が必要になった様で、車を動かしてきます。先程迄の説明で問10から12は解けると思うので各自始めてください。後半の授業は夏目先生にお願いします」
生徒達の視線は一度、ばらけるものの、やがて皆静かに指定された問題を解き始める。
國村は教室を出ていく。
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