第11楽章.透明性の錯覚


 目が覚めるとベッドの中にりんねが居なかった。


 LDKを覗き、廊下に出る。洗面室兼脱衣室のドア隙間から灯りが漏れる。洗濯機隣の壁の折り畳み踏み台に座って、ケータイ電話を開いているりんね。


 りんねの手元のケータイには、怜莉が鳴らした公衆電話の履歴だけ。スクロールしても、昨日から今まで他の着信履歴はなくて、ショートメールも届いていない。


 電話帳の [ 母 ] の連絡先を開くと、メニューの『削除』キーを押すりんね。


 セーラー服の衿、白いスカーフ、2本の三つ編み。中学生。中間考査二日目。りんねは、事実の情報を自身の内部から静かに消していく。


 脱衣所のドアが廊下側から開く。


「……怜莉さん」
「何してるの?」 
「ケータイ確認したかったから。部屋で開いたら画面が明るくて、起こしちゃうと思って」
「……気になる事でもあった?」 


「……昨日、色々あったから電話とかメールとか沢山来ているかもしれないって思ったの。でも何もなかった。……いつも通り、私の居ない所で解決しちゃう。怒られるつもりだったのに、怒る時と怒らない時の違いがわからないの。……いつも私は何も話せない」


「りんね?」 

「私が不幸だとステージが上がるんだよ」

「……ステージって」
「そうでも思わないと生きていけないんだって。大丈夫。連絡先消したから」


 りんねの傍に跪くパジャマ姿の怜莉。


「あのね。怜莉さん。私、怜莉さんにお金だけは返しておきたい。封筒の」
「りんねは返しても大丈夫なの?」


 俯いて長い灰色の髪で顔を見せないりんね。洗面室外にあるベランダ用の摺りガラスのドア。薄っすらと夜明けに白ばむ。


「……ごめんなさい。……本当は後二万……足らない。管理会社に連絡して、また来月迄待ってもらおうと思っていたけど……」


「良いよ。わかった」 


「あのね。もうあの部屋には帰らない。光熱費も基本料金で済むと思うから、此処での生活費も少しずつでも渡せる様に……するから」 


「りんね。また泣いてるの?」


 顔を上げないままのりんねの前髪を撫ぜる怜莉。


「ベッドに戻ろう。未だ四時過ぎだよ。りんね、昨日と今日は朝早くから予定があるって……」


 ふと、りんねはまた『臥待鏡花』を思い出す。


「……ないよ」 


 りんねは顔を上げる。


「りんねには朝の予定なんてないよ」



「怜莉。怜莉ってば」


 桜海が何度も声を掛けるが怜莉は机に肘をついてパソコンの画面を見たまま。


「怜莉ってば!」
「え? 何?」


 職場で桜海に声を掛けられている状況を把握し直す怜莉。


 2007年10月10日。水曜日。午後。


「怜莉って考え事している時、全力で無視するよね?」

「そういう訳じゃ。ただ、考え事しながら話すと情報過多になるし、どっちが話し言葉なのか分からない時あるし、こっちも集中しないと試験の時なんかは他人の思考が入って邪魔……」

「オレには怜莉の考えている事、聞こえないんだけど」
「あ、そっか。無意識に昔の癖が出たんだ……これ」


 改めて気付く怜莉。『無視された』と言われた過去の話や自宅の机に椅子が無い事を急に思い出す。

 そして、パスタが床に散らばった日曜日の夜の記憶は続く。慌てて掴んだりんねの手首。それから不安定なっていく、りんねの印章の形。


「聞いてる?」


 顔を上げて、桜海を見る怜莉。


「梶さん、朝から山口に『虎の絵』の回収に行ったけど、名古屋にもあるって訊いて、そのまま名古屋に行くって連絡が来たの」

「だったら梶さん次第だけど、宿泊出張に切り替える準備もしなきゃ……」


 怜莉の机の直ぐ隣。入り口側の机でデスクトップを操作する怜莉を見る桜海。2台の机が並ぶ事務所。


「虎の絵を渡していた期間は短いんだよね。返却してくれた人が殆ど。後は形見だから持っていたいとか。問題は処分、譲渡、売りに出したってケース。でも追跡回収もだいぶ済んで……聞いてる? 聞いてない!?」


 桜海が椅子のキャスターをカラカラと鳴らして立ち上がる。怜莉は桜海を見るものの、自分の手元に視線を戻す。それから躊躇いがちに桜海に訊ねる。


「……桜海、あのさ。話変わるんだけど、確認したい事があって。印章の形って変化する?」


「しないよ」


 あっさりと返す桜海。


「大昔、テストしたんだって。明治の終わり? 江戸時代? 室町時代?」

「……全然違うんだけど」

「兎に角、昔。『印章』の存在が味で分かる人、音に聴こえる人、匂いで分かる人。様々なんだけど、視覚で分かる人、其れも図形で視える人の話が共通認識として、一番使い勝手が良かったの。で。印章を視認出来て、表現に優れた人達を集めてテストしたんだって」

「初めて聞く話なんだけど」

「そう? でね。十二種類の印章がどう視えているかを絵を描かせた。七割が全く同じ物を描いて、残りの三割に注視して描きなさいって。其の間に知っちゃった人は勿論省いて、結果、残りも全員、同じ物を書いた。印章の形は全部決まっていたの」

「確か、その形じゃないといけない理由があるんだよね? 計算が合わなくなるって」


 怜莉は確認しながらも、未だ何処かしら納得しきれない風に眉間に皺を寄せている。


「んー。難しい事は知らない」


 軽く答える桜海は、立ったまま、更に話を続ける。


「だからさ。正解の形に視えないのなら、こっちのコンディションの問題。でも怜莉だったら絶対に間違えない」


 ばっと勢い良く、桜海の顔を見る怜莉。


「何で言い切れんの?」


 即、訊ねると、桜海も即、軽快に応じる。

「中央に所属する前に散々代表に試されてる。相当酷い目にも遭わされてる。でも視え方に変化はなかったから合格」

「そんな事されたっけ?」

 怜莉はマウスを動かすと、過去四十二年分の中央登録者の名簿、ファイル10を閉じる。


「あとさ。梶さんは相手に直接影響を与えないで空間に影響を与えて視るって方法。早い時期に身に着けてたけど、過敏な人? 繊細な人? 間接的に影響を及ぼす自体になる相手も居るから気を付ける様に、云っているよね? ただし、物凄く稀だって」


「……最初の時は其の話も思い出したんだけど、違う気がして」


「怜莉、今日、ぼんやりしてる? 眠い? 寝てないの?」

 桜海は怜莉の机の傍に行くとパソコンを覗く。


「仕事してない」

「とりあえず休憩」


 パソコンチェアに寄りかかかる背を伸ばす怜莉。


「彼女、あの後、連絡取った? 体調大丈夫そうだった?」


「不安定だったけど……今朝は朝食を食べた後、蟹の動画見ながら、尾崎翠を読んだり、あとプレゼントしたレシピ本も見てくれたし。少しは落ち着いてくれていると思う」

「……お泊り?」

「え? 今日から一緒に住む事にした」
「……ふざけんな!」

「ふざ……? いや、何で怒られてるの、オレ。そもそも桜海こそ、左手の薬指の指輪。既婚者でもないし、彼女も居た事ないのに、何なのか全然説明しないし」


「ちびっこだけだと騒がしいな」


 事務所のドアが開き、其方を見る怜莉と桜海。スーツ姿の梶がビジネスバッグと紙袋を持って立っている。


「あれ?」

 桜海を見る怜莉。桜海も怜莉を見て、首を傾げる。

「桜海に伝言した後、先方が名古屋を出て山口に向かっているって連絡が来たんだ。其れで山口で待って、虎の絵を受け取って戻ってきた」


 キャビネット上の南瓜の手前、開いたスペースに一先ず紙袋だけを置く梶。


「お疲れ様です」と怜莉が労うのに対し、「おかえりなさい」と無邪気さを隠さずに声を掛ける桜海。


「ただいま……って、何で此処に南瓜が置いてあるんだ」


「あ。怜莉、さっきのテストの話ね。


 此処に来た初日にいきなり受けされられて、即答で全問正解したのが梶さん。


 多分、其の条件で合格したの梶さんしかいない」


「いや、何の話だ」


 梶が事務所のドアを閉めようとした時、廊下の先で物音がしたのに全員が気が付く。



「東側の玄関の音? 國村さん?」
「見てくる」
 廊下に出る怜莉。



 東側の引き戸の前。外に誰か居る事を確認して声を掛けると、相手は返事をする。


「あの。塾の生徒で、國村先生が予備の眼鏡を忘れたそうで代わりに受け取りに来て」


 怜莉は不審に思うものの、軍足にサンダルを引っ掛ける。土間に降り、引き戸を開ける。学ランを着た温和しそうな男子中学生。


「……本殿には入れられない事になっているから待ってて」


 怜莉が背を向けて数歩歩き、サンダルを脱ごうとした瞬間。勢いよく突き飛ばされて、本殿の廊下に音を立てて倒れる。遅れて、カランと、短い音が床で響く。


 訳が分からないまま、怜莉は上体を起こす。目の前には、梶に右肩を抑えられ、後ろ手に右手をねじ上げられた中学生が、土間に押し付けられている。


「怜莉、大丈夫か?」
「え? え?」


 怜莉を突き飛ばしたのは梶の方だと判ると同時に、落ちた弾みで床で揺れて光るナイフを見つける。


「え?」


「ええええええ!?」


 物音の後、廊下に飛び出して、状況が把握出来る場所まで来た桜海が一番大きな声を上げる。



「國村さん!」


 本殿東側にある講堂。『東睡』内にある教室前を桜海はドアを勢いよく開く。塾生達の視線は袈裟姿の桜海に向かう。


「授業中ですよ」


 國村は教卓から桜海に云いつつも、教科書を閉じ、ドアの傍に行く。


「何かあったんですか」


「えっと、あの」


 生徒達を気にして、説明の出来ない桜海。國村は廊下に出るとドアを三分の二程、閉める。


 桜海のジェスチャーにもならない手の動き。國村は思案顔を向けると「分かりました」と再び教卓に戻る。



「駐車場の移動が必要になったので、車を動かしてきます。先程迄の説明で問10から12は解けると思うので各自始めてください。後半の授業は夏目先生にお願いします」  


 生徒達の視線は一度、ばらけて、やがて皆静かに指定された問題を解き始める。


 國村は教室を出ていく。


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