第10楽章.地球照
「今日の午後。治療院に行ったんだ。そしたら、お客さんに『花ちゃんの彼氏?』って訊かれて」
理由にならない説明をする怜莉。
「怜莉さん」
りんねの声に反応して額が汗ばんでいく怜莉。同時に手首を掴む指がふいに緩む。
「どうしたの? 背中とか肩とか何処か痛くなったの?」
「え?」
予想外の返答に「そうじゃなくて」と云い掛けた辺り。
(……水野花)と聞こえない筈の声が響く。
怜莉が目を開けると、りんねは血の気の引いた顔を下に向けて、指先を細かく震わせている。怜莉が自分の物と思っていた心臓の音は次第に大きくなり、りんねから伝わってくる。
何より、聴こえてくるりんねの『口に出していない声』。
(……どうしよう……どうしたら……どうし……髪色……染められ……履歴書……水野花……水野花だったら……知られても大丈……)
圧迫される空気感。怜莉は状況に混乱した末、一度、諦めるかの様に、りんねの背後にある印章を空間に曝露する。
二重円の内側に三本線のアスタリスク。正しい形の『秘匿』の印章。しかし、二重円の曲線の間にひとつずつ文字が現れ出し [ Mizuno Hana ] と並ぶと、文字列の前に打ち込まれる
[ RINNE ]
次いで[ = ]
[ RINNE = Mizuno Hana ] と表示される。
(……水野花の履歴書……住所……書いている時に間違え……学歴も職歴も書ける物がな……空欄……趣味……特技……読書……特技は書いてな)
「りんね!」
咄嗟に大声を出す怜莉。驚くりんねの思考が止まる。
怜莉の能力の『影響』を受けている訳でも、怜莉が『影響』を与えている訳でもない。りんねが『印章の情報』を動かす間、りんねの心中が、怜莉の前に表沙汰になった事に気が付いてしまう。
怜莉の大声の理由がわからないりんねは身を縮こませて、肩を震わせている。怜莉もりんねの手首を握る手に汗を滲ませる。
「心配しないで。何処も痛くないから」と怜莉は会話の続きを丁寧に優しく返す。
二人静かになると、やがて、りんねの印章は一文字ずつ現れる [ SECRET ] の文字に固定される。
「あ。あのね。怜莉さん。真屋先生と会ったの?」
「うん」
「あのね。……ごめんなさい。水野花っていうの。『りんね』と『水野花』は一緒なの」
「……うん」
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。怒って……」
「怒ってない。オレの方こそ職場に行って、ごめん。……りんねの話は……真屋先生は誰かの話を訊かれても、答える人じゃないでしょう」
「……うん」
偶然、りんねの職場に行ってしまったと思われたままでいたい怜莉と、怜莉が『臥待鏡花』に辿り着けない状況にだけは安堵していたいりんね。
「……怜莉さん。私は、どうしたらいいの? 此処に居て良いの? 私は水野花なの? それとも……『りんね』なの?」
「……どっちでもいいよ」
怜莉は、泣きそうになるりんねの手首から手を離すと、テーブル下に転がったウーパールーパーのぬいぐるみを抱え上げ、りんねの前に突き出す。
「りんね、ウーパールーパーを蟹と間違えたけど、ウーパールーパーでも」
ぬいぐるみを半回転させて、蟹に見える状態にする怜莉。
「蟹でも。同じでしょう。大事にしてくれているのは同じものでしょ?」
小さく、こくんと頷くりんね。
「でもね。怜莉さん」
りんねは自分の両掌の間の怜莉の部屋の鍵をぎゅっと包み込む。
「私は『りんね』が好い」
蟹のぬいぐるみをソファに置く怜莉。
「怜莉さんは『りんね』を迎えに来てくれたんでしょ? 『りんね』に鍵をくれたんでしょう。『りんね』は此処に居て良いって……今もそう思って」
「うん。此処に居てほしい」
勢いで、続けて好意を口に出しかけた時、怜莉の動きは一瞬、止まってしまう。代わりにただ一言、伝える。
「……また夜の店を捜さないでほしいって思ってる、りんねが夜働いている間、一人で帰りを待っている状況になるのは正直……しんどい」
「……? 怜莉さん。もしかして、お化け怖い?」
「いや、そういう話じゃないと思うよ!?」
怜莉の突っ込みにビクッとなるりんね。

白い塗装が剥がれた、片方しか鋏のない蟹のストラップ。其の先に下がる自室の鍵二本を外すりんね。化粧ポーチ内側奥のポケットに鍵を仕舞う。
そして怜莉の部屋とマンションの共有玄関の鍵をストラップの先に付け替える。
「此の蟹はね。私なの」
りんねの言葉に不思議そうな顔をする怜莉。
「はずれなの。昔、クリスマス会でね。プレゼントが見える状態で並べてあって、じゃんけんで勝った人から選んでいいの」
りんねは小学四年生の時に公民館の一室で催された子供会の行事を思い出している。
「誰かがね。『蟹の鋏が片方ない』って騒ぎ出して、皆、騒がしくなって。
だからもう、じゃんけんを始めてしまって、最後に負けた人が蟹なら仕方ないって。
そしたら、私が最初に勝っちゃって、だから蟹を選んだの。はずれが無くなれば後はスムーズになるし、困る人も居なくなると思ったの。なのに、おかしな空気になってしまって」
「……見せて」
怜莉が片掌をりんねに向け、鍵のついた蟹のストラップを受け取る。
「あー。やっぱりシオマネキだ」
「死を……招き?」
「死、じゃなくて潮ね。潮の満ち引きの潮」
話を上手く理解出来ずに反応しきれないりんね。
「どうして誰も気付かなかったんだろう? 皆、酔っ払ってた?」
返答にも困って狼狽えかけるりんねにくっついて、蟹を見せる怜莉。
「反対側にもちゃんと鋏があるよ。凄く分かりにくいけど」
「……本当だ。全然気が付かなかった」
「片方の鋏だけが大きいんだ。砂浜で大きい鋏を振るの。其の姿が海の潮を招いているみたいだから『シオマネキ』。鋏を振っている所が凄く可愛いんだよ」
「……見てみたい」
感情を抑えられず、何処かしら泣きそうなまま、りんねは明るさのある表情を見せる。
「動画あると思うよ」
立ち上がる怜莉。テレビボード横の机に置いてある縦置きスタンドからノートパソコンを引き出すと、ローテーブルに持ってくる。
「怜莉さん。やっぱりあれ机だよね? 何で椅子が無いの?」
「え? 何でだろう。あ、動画あったよ」
再生した動画には鋏を振るシオマネキが映る。
「……可愛い。たくさん居る。一匹でも可愛い。一生懸命、鋏、振ってる」
興奮気味に静かにはしゃぐりんね。
「求愛行動だからね」
きょとんとして考えている様子のりんねに恥ずかしくなってしまう怜莉は「……とりあえず夕食にしよう」とレジ袋に視線を移し、厚焼き玉子のサンドイッチを取り出す。
「シオマネキね、水族館にも居ると思う。今度行ってみる?」
「行ってみたい」
顔を上げるりんねは、りんねのまま、ずっと子供の様にきらきらとした顔をしている。
確かに其処に居るのは、りんねであり、水野花でもあるのだけれども、怜莉は自身が『彼女の本当の名前』で呼べない事を今更知ってしまった。

「椅子を持って出て行った元カノですか」
「訳が分からないでしょう!?」
翌日。
2007年10月10日。水曜日。
寺院の外見をした研究施設『中央』の本殿。正面を入って東側に伸びる長い廊下の脇にある事務所。デスクトップパソコンで検索を続ける怜莉と、窓際の椅子に座り、湯呑みを持って、くすくすと笑う國村。
「怜莉くん。昨日、私は此処の庭で焚火をしました」
「え。國村先生が? 掃除は研究生の仕事じゃ? 其れに落ち葉はゴミ袋に……あと焚火台って壊れてませんでしたか?」
「組み直して使いました。焚火の許可も得ています」
「其処までして?」
「まあ、古風な事に『恋文』と書かれた手紙を貰いまして」
手を止めて、慌てる怜莉。
「先生の所の無料塾の生徒ですか!? 駄目ですよ!? 中学生は!? 小学生も!」
「そういうものではありません」
國村は空になった湯呑を机に置く。
「怜莉くんは記憶と知識でカバー出来る面も大きい。十分じゃないでしょうか」
「……何の話ですか?」
「梶さんのいつも過保護の付き合いです。梶さんは半分人間じゃない様な人なのに、穏やかに暮らそうとして、死に急ぐ選択ばかりしたがる」
國村は壁際の天板がタイルのキャビネットの前に立つと、電気ケトルのスイッチを押す。
「飲みますか?」
國村は怜莉のマグカップにドリップパックをセットする。
「怜莉くんは二年か四年で仕事を辞めると思っていました」
「え? どうして?」
「橘議員の一人息子ですし、メインで養育されている叔父夫妻に子供は居ない。政治家一族が高卒を認めたのも『中央』が全国の僧侶が集まる研究施設というレアコネクションの場故」
怜莉はタブを閉じて、國村の方を振り返る。
「それで今日は何の仕事を?」
「来年のカレンダーを選んでいて。梶さんが鼠が苦手だから決まらなくて」
國村は少し笑うと「一巡して来年は子の年ですか」と云う。
「でしたら今日は今一度、基礎を確認しておきましょう」
國村はカップに珈琲が落ちきるとパックを外し、怜莉のマウスパッド斜め上に置く。
「ありがとうございます」
「怜莉くんが所属したのは代表が閉鎖を正式決定した二年後。初回登録を停止し、内部の荒れていた頃」
マグカップを持つ怜莉。
「初回一年間はスケジュールのある在籍ですが、二回目以降は一度でも顔を出せば良い。回数の多さだけを利とする者は閉鎖を認めず。そういう時期に『曝露』の印章を持った怜莉くんを所属させたものだから、内部は更に荒れました」
気まずい顔をしながら背を向けて珈琲に口を付ける怜莉。國村は湯呑に煎茶の粉末を落として湯を注ぐ。
「所属した頃は他人の心中は聴こえなくなっていました」
「ええ。印章は『する』『させる』の使い方。影響力を他人に向けるか、自分に向けるか。どちらだとしても無効化しなければ、監査の職には就けません」
國村は云いながら湯呑を持ち上げ、お茶を飲む。
「信仰心がルーツに戻す。信仰心のない学びは片道切符。怜莉くんも学んだ寅の巻迄は至極当然の内容。先は自身の宗派でも学べるだろうと元の場所へと戻る」
怜莉は湯呑を片手にキャビネットに寄りかかる國村を見上げる。
「此の『干支を模した書』は『中央』にしかない書物。最後の亥の巻で十六次元以降に辿り着く。怜莉くん。此処に残ると決めるのなら寅の巻の先を学んでください。但し、決めた後の」
首を上げたままの怜莉。
「帰りの切符はありません」
答えを返さず、言葉の意味を探る様に一切の動作を止めた怜莉に、静かに伝える國村。
「あなたは既に巻き込まれています。それでも、あなたは私とは違う」
國村は話を続ける。
「帰りたい場所がありますか。あなたの帰りを待ってくれる人はいますか」
そのまま。訊ねたまま。國村も視線を上げない。
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