第12話.地球照


 

「今日の午後。治療院に行ったんだ。そしたら、お客さんに『花ちゃんの彼氏?』って訊かれて」


 説明にならない理由を話す怜莉。


「怜莉さん」


 りんねの声に心臓の跳ねる音。同時に言い表せない罪悪感に襲われ、手首を掴む指がふと緩む。


「どうしたの? 背中とか肩とか何処か痛くなったの?」「え?」


 予想外の返答に「そうじゃなくて」と云い掛けた辺り。(……水野花)と聞こえない筈の声が聴こえる。


 怜莉が目を開けると、りんねが血の気の引いた顔を下に向け、指先が細かく震えている。自分の物と思っていた心臓の音が次第に大きくなり、りんねから伝わってくる。


 何より、聴えてくるりんねの『口に出していない言葉』。


(……どうしよう……どうしたら……どうして……髪色……染められ……履歴書……水野花……水野花だったら……知られても……)


 怜莉は戸惑った末、りんねの背後にある印章を空間に曝露する。


 二重円の内側に三本線のアスタリスク。そして二重円の曲線の間にひとつずつ現れる [ Mizuno Hana ] の文字。文字列の前に打ち込まれる様に現れる
[ RINNE ]



 次いで[ = ] [ RINNE = Mizuno Hana ] の表示。



(……水野花の履歴書……住所……書いている時に緊張して間違えたまま……学歴も職歴も書ける物がなかったから空欄……趣味と特技……読書……特技は書いてな


「りんね!」


 咄嗟に大声を出す怜莉。これ以上を聴いてはいけないと思う怜莉の思惑通りに、驚くりんねの思考が止まる。


 怜莉の能力の『影響』を受けている訳でも、怜莉が『影響』を与えている訳でもない。りんねが『印章の情報』を動かす間、りんねの心中が怜莉の前に表沙汰になっている事に気が付いてしまう。


 そして怜莉の大声に困惑するりんね。怜莉もりんねの手首を握る自分の手に汗を滲ませる。


「心配しないで。何処も痛くないから」と今は会話の続きを返す。


 二人静かになると、やがて、りんねの印章は一文字ずつ [ SECRET ] の文字を表示し始め、固定される。


「あ。あのね。怜莉さん。真屋先生と会ったの?」
「うん」


「あのね。……ごめんなさい。水野花っていうの。『りんね』と『水野花』は一緒なの」


「……うん」
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。怒って……」


「怒ってない。オレの方こそ職場に行って、ごめん。……りんねの話は……真屋先生は誰かの話を訊かれても答える人じゃないでしょう」


「……うん」


 偶然、りんねの職場に行ってしまったと思われたままでいたい怜莉と、怜莉が『臥待鏡花』に辿り着けない状況にだけは安堵していたいりんね。


「……怜莉さん。私は、どうしたらいいの。此処に居て良いの? 私は水野花なの? それとも……りんねなの」泣きそうになるりんね。


「……どっちでもいいよ」


 怜莉は手首から手を離すと、りんねが寝室から持ってきてテーブル下に転がったウーパールーパーのぬいぐるみを抱え上げ、りんねの前に突き出す。


「りんね、ウーパールーパーを蟹と間違えたけど、ウーパールーパーでも」ぬいぐるみを半回転させて、蟹に見える状態にする怜莉。


「蟹でも。同じでしょう。大事にしてくれているのは同じものでしょう」「……うん」


 頷いて、両掌の間の鍵をぎゅっと包み込むりんね。


「でもね。怜莉さん。私は『りんね』が好い」


 蟹のぬいぐるみをソファに置く怜莉。


「怜莉さんは『りんね』を迎えに来てくれたんでしょう。『りんね』に鍵をくれたんでしょう。『りんね』は此処に居て良いって……今もそう思って」


「うん。此処に居てほしい」


 其の伝える勢いで、好意を口に出しかけた時、怜莉の思考は一瞬、止まってしまう。代わりに云えたのは「ただ」の一言。


「……源氏名で働く仕事は嫌だと思う。りんねが夜働く様になって、一人で帰りを待っている状況は正直……しんどい」


「……怜莉さん。もしかして、お化け怖い?」

「いや、そういう話じゃないと思うよ!?」


 怜莉の突っ込みにビクッとなるりんね。



 りんねは、白い塗装が剥がれた片方しか鋏のない蟹のストラップの先の二本の鍵を外し、化粧ポーチ内側奥の狭いポケットに仕舞い込む。

 そして怜莉の部屋と、マンションの共有玄関の鍵をストラップに付け変える。


「此の蟹はね。私なの」 


 不思議そうな顔をする怜莉。


「はずれなの。昔、クリスマス会でね。プレゼントが見える状態で並べてあって、じゃんけんで勝った人から選んでいいの」


 りんねは小学生四年生の時に公民館の一室で催された子供会の行事を思い出している。


「誰かがね。『蟹の鋏が片方ない』って騒ぎ出して、皆、騒がしくなって。


 だからもう、じゃんけんを始めてしまって、最後に負けた人が蟹なら仕方ないって。


 そしたら、私が最初に勝っちゃって、だから蟹を選んだの。はずれが無くなれば後はスムーズになるし、困る人も居なくなると思ったの。なのに、おかしな空気になってしまって」


「……見せて」


 怜莉が片掌をりんねに向け、鍵のついた蟹のストラップを受け取る。


「あー。やっぱりシオマネキだ」


「死を……招き?」


「死じゃなくて潮ね。潮の満ち引きの潮」


 話を上手く理解出来ずに反応しきれないりんね。


「どうして誰も気付かなかったんだろう? 皆、酔っ払ってた?」


 返答にも困って狼狽えかけるりんねにくっついて、蟹を見せる怜莉。


「反対側にもちゃんと鋏があるよ。凄く分かりにくいけど」


「……本当だ。全然気が付かなかった」


「片方の鋏だけが大きいんだ。砂浜で大きい鋏を振るの。其の姿が海の潮を招いているみたいだから『シオマネキ』。鋏を振っている所が凄く可愛いんだよ」


「……見てみたい」感情を抑えられず、表情が何処かしら泣きそうなのに明るさもあるりんね。


「動画あると思うよ」


怜莉は立ち上がって、テレビボードの横の机にある縦置きスタンドからノートパソコンをローテーブルに持ってくる。


「怜莉さん。やっぱりあれ机だよね? なんで椅子が無いの?」


「え? 何でだろう。あ、動画あったよ」


 再生した動画には鋏を振るシオマネキ。


「……可愛い。たくさん居る。一匹でも可愛い。一生懸命に鋏、振ってる」


 興奮気味に静かにはしゃぐりんね。


「求愛行動だからね」


 きょとんとして「……求愛行動」と考えている様子のりんねに恥ずかしくなってしまう怜莉は「……とりあえず夕食にしよう」とレジ袋に視線を移し、厚焼き玉子のサンドイッチを取り出す。


「シオマネキね、水族館に居ると思う。今度行ってみる?」


「行ってみたい」


 顔を上げるりんねは、りんねのままずっと子供の様にきらきらとした顔をしている。


 確かに其処に居るのは、りんねであり、水野花でもあるのだけれども、怜莉は自身が『彼女の本当の名前』で呼べない事を今更知ってしまった。



「椅子を持って出て行った元カノですか」


「訳が分からないでしょう!?」


 寺院である『中央』の本殿。入口を入って東側に伸びる長い廊下の先にある事務所。デスクトップパソコンで検索を続ける怜莉と、窓際の椅子に座り、湯呑みを持って、くすくすと笑う國村と二人。


「怜莉くん。昨日、私は此処の庭で焚火をしました」


「え。國村先生が? 掃除は研究生の仕事じゃ? 其れに落ち葉はゴミ袋に……あと焚火台は壊れてませんでしたか?」


「組み直して使いました。焚火の許可も得ています」


「其処までして燃やしたい物でも?」


「まあ、古風な事に『恋文』と書かれた手紙を貰いまして」


「先生の所の無料塾の生徒ですか!? 駄目ですよ!? 中学生は!? 小学生も!」 


「そういうものではありません」國村は空になった湯呑を机に置く。


「怜莉くんは記憶と知識でカバー出来る面も大きい。十分じゃないでしょうか」


「……何の話でしょうか?」


「梶さんのいつも過保護の付き合いです」


 國村は壁際の天板がタイルのキャビネットの前に立つと、電気ケトルのスイッチを押す。


「何か飲みますか?」「あ。じゃあ、珈琲を」


 國村は怜莉のマグカップにドリップパックをセットする。


「怜莉くんは二年か四年で仕事を辞めると思っていました」


「え? どうして?」


「橘議員の一人息子ですし、メインで養育されている叔父夫妻に子供は居ない。政治家一族が高卒を認めたのも『中央』が宗教法人ではなく、研究機関に近い故」


 怜莉はタブを閉じて、國村の方を振り返る。


「それで今日は何の仕事を?」「来年のカレンダーを選んでいて。梶さんが鼠が苦手だから決まらなくて」


 國村は少し笑うと「一巡して来年は子の年ですか」と云う。


「でしたら今日は今一度、基礎を確認しておきましょう」


 國村はカップに珈琲が落ちきるとパックを外し、怜莉のマウスパッド斜め上に置く。


「ありがとうございます」


「怜莉くんが所属したのは代表が閉鎖を正式決定した二年後。初回登録を停止し、内部の荒れていた頃」


 マグカップを持つ怜莉。


「初回一年間はスケジュールのある在籍ですが、二回目以降は一度でも顔を出せば良い。回数の多さだけを利とする者は閉鎖を認められず。其処に『曝露』の印章を持った怜莉くんを所属させたものだから、内部は更に荒れました」


 気まずい顔をしながら背を向けて珈琲に口を付ける。國村は湯呑に煎茶の粉末を落として湯を注ぐ。


「所属した頃は他人の心中は聴こえなくなっていました」


「ええ。印章は『する』『させる』の使い方。影響力を他人に向けるか、自分に向けるか。どちらだとしても無効化しなければ、監査の職には就けません」 


 湯呑を持ち上げ、お茶を飲む國村。


「信仰心がルーツに戻す。信仰心のない学びは片道切符。怜莉くんも学んだ寅の巻迄は至極当然の内容。先は自身の宗派でも学べると気付いては元の場所へと戻る」


 怜莉は湯呑を片手にキャビネットに寄りかかる國村を見上げる。


「此の『干支を模した書』は『中央』にしかない書物。最後の亥の巻で十六次元以降に辿り着く。怜莉くん。此処に残ると決めるのなら寅の巻の先を学んでください。但し、決めた後の」


 首をあげたままの怜莉。


「帰りの切符はありません」


 答えを返さず、言葉の意味だけを窺う怜莉に静かに伝える國村。


「あなたは既に巻き込まれています。それでも、あなたは私とは違う」


 國村は話を続ける。


「帰りたい場所がありますか。あなたの帰りを待ってくれる人はいますか」


 そのまま。訊ねたまま。國村も視線を上げない。


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