第9話.Horn effect
古いマンションの玄関ドアを引いた勢いで走り込んできたりんね。自立したオートロック操作盤の前。
肩で息を整えながらも一息も吐かずに鍵を回す。自動ドアを抜け、エレベータへと急ぐ。
五分も経たず、エレベータから降りてきた、セーラー服を着た鏡花。二つに結んだ髪を揺らし、息を切らす。
鏡花は管理人室の角に立っていた男性に通学バッグをぶつけそうになる。
「ごめんなさい」
マンションから出て歩道を走っていく鏡花。男性はケータイを耳に当てたまま、入り口のガラスドアを閉める。
「いや、子供とぶつかりかけてさ。中学生だよ。さっきも急いでいた女性が居たけど、綺麗な子だったな」
男性はバッグからポスティング用のダイレクトメールの束を取り出す。
「そうそう。髪、シルバーグレーに染めててさ。珍しいよね。いやいや、まさか。中学生の話じゃないって」
保健室の引き戸を開けずに立ち止まった鏡花は深呼吸をしてから、ノックをする。
「失礼します。一年の臥待です」
頭を下げて保健室に入る。
「時間だから早く空いている席に座って」
鏡花が医療用パーテーションの向こうに行くと、二十人程が温和しく前を向いて、机に座っている。一番後ろ手前の席に着くと、フックにバッグを掛け、ペンケースと下敷きを取り出す。
空席を挟んで並ぶ奥側には茶色の髪を下ろして、セーラー服も着崩した女子生徒。頬杖を突いて、鏡花をじっと見、鏡花も視線を感じ、更に緊張して強張った顔になる。
「臥待さんの分。チャイムが鳴るまで触ったら駄目」
養護教諭が机に裏返した数枚の紙を置く。
[ 一年社会 ]と鉛筆で書かれたテスト用紙が置かれ、直ぐに一限間目のチャイムが鳴り始める。
やがて終了のチャイムと同時にシャーペンの芯を指先で戻す鏡花。五分の休憩中は時計の進む音を聴いて、二時間目の始まりを居心地悪く待っている。
やがて配られた [ 一年英語(予備) ]のテスト用紙を解き始めて十五分が経った頃。鏡花の足元に消しゴムが転がってきて、踵のない上靴にぶつかる。
目線を落とした鏡花が顔を上げる。奥側の席で茶色の髪の女子生徒が何かを投げた後の手の形を此方に向けているのを見てしまう。
瞬間。
「先生! 臥待さんがカンニングしています!」
宙に浮かせていた手をそのまま高く上げて、大きな声を出す女子生徒。保健室を二つに分けるパーテーションを超えて、声が響く。
生徒指導室の会議用の長いテーブル。鏡花の通学バッグが空になる迄、逆さまにされ続ける。外も内も構わず、ポケットの全てに手を入れられる。
「教科書だけ?」
「あと、この筆箱ですね」
若い生徒指導の男性教師がペンケースの中身をテーブルに並べていく。
立ち尽くしている鏡花をテーブル越しに生徒指導の女性教師が無言で眺める。俯いていく鏡花。
「臥待さん。貴方、一学期の中間も期末も保健室で受けたみたいだけど、どの教科も平均点より上。これがどういう意味か、説明しなさい」
「……説明」
口籠りながらも一言だけを発する。
「ゴールデンウィーク明けから教室でも保健室でも勉強していない。こういうのを矛盾って言うの。わかる? 先生達がおかしいと思う理由、貴方でもわかるでしょう?」
隅の離れた場所で男性教師二人が話している。
「家庭環境は?」「担任の古賀先生の話だと、母親は毎回電話に出るそう。様子や体調も細かく報告されているけど、肝心の本人は電話に出たがらないから申し訳なさそうだと」「髪は?」「地毛証明書は五月の提出」「あれが地毛ねぇ。何処の民族だよ」
二人は鏡花を見るが、鏡花は視線を床に落として、微動だにしない。
「どうしてテストだけ受けに来るの? 何がしたいの?」
ますます俯こうとする鏡花に「答えなさい!」と言葉が叩きつけられる。
答えようとしても、口が震えて動くばかりで、声は少しも付いてこない。
「……こ」
上手く空気を吸えなくなって、視野は現を離し、不鮮明に遠くなる。
「……高校、には行こう、と」
「貴方の行ける高校なんてありません!」
女性教師が強く怒鳴りつける。鏡花が一瞬だけ僅かに反応を示す。
「学校に来ない子の通知表に『3』は付けないの。人数が決まっているの。でも、臥待さんの通知表には『3』が二つある。これはね、貴方のテストの点が良いから特別サービスなの。わかる?」
生徒指導室に別の教師が引き戸を開け、若い生活指導の男性教師が対応をする。
「学校に毎日来て勉強をしてテストで30点の生徒と、学校に来ない90点の生徒。中学校の先生達はどちらに高校に行ってほしいと思う? どっちの生徒の為なら高校の先生に『よろしくお願いします』って頭を下げようと思う?」
近くに戻ってきた生徒指導の男性教師から採点された解答用紙を受け取る女性教師はあからさまな溜息を吐き「社会も英語も点数はあげられません」とテーブルの上に用紙を勢いで投げつける。
「おかしいでしょう? こんな点数になる訳ないでしょう!」とヒステリックに叫ぶ。
「もう一度云います。貴方の様な、怠け癖のついた人間の行く高校はありません! 空いてもいない席に座ろうとして図々しい!」
鏡花は必死に五感を押し潰して、此の場を耐えきろうとしている。
「花ちゃん」
「ごめんなさい。ごめんな……」
花は治療院の応接室のテーブルに珈琲カップを置けずに落としてしまう。
零れて拡がっていく珈琲にも対処が出来ず、両手で頭を抱え込んで、その場に崩れ落ちると涙目で過呼吸発作を起こす。
「花ちゃん、良いのよ。大丈夫よ。いつも上手く行く方が難しいんだから」
常連客の女性は座り込んだ花の後ろに回ると背中を擦る。
「どうしました?」
真屋が応接室に入ってきて、状況を確認する。
「河野さん、ちょっと花ちゃん、休ませてきます。服や鞄は大丈夫でした?」
「私は良いのよ。机も拭いておくから」
真屋は花を抱えて、診療室のパソコンデスクの椅子に座らせると手を握って
「花ちゃん。大丈夫だから。僕が云う様にゆっくり息を吐いて。ゆっくりだよ。そうそう。上手、上手、ゆっくり、ゆっくりね」
と続ける。
「今日で4回目。今日も急病で来られなくなったって云ったら、どうする? 自宅に行っちゃう?」
運転をしながら桜海が怜莉に話し掛ける。
「なんていうか、朝から急に不安になって」
「え? じゃあ、やっぱり自宅に突っ込んだ方が良い?」
「え? 待って。オレの具合の話」
「え? 具合悪い?」
桜海が左折して車をコンビニエンスストアの駐車場に止める。
「家に突っ込むって云った? 車で? 物理的に?」
「うん。自業自得じゃん?」
「……違う様な。『自分の関わる企業、団体等の一切、中央とは関係ありません』って書類にサインを貰うだけでしょ?」
「それを書かないで逃げ回ってる訳じゃん。絶対こっちが諦めるの待ってるよね」
チャコールグレーのスーツを着た怜莉は腕を組んで、袈裟を着けている桜海を見る。
「桜海はスーツは」
「背が低いから買うのも着るのも嫌って何回云えば」
「そうじゃなくて」
桜海が車窓の先に何かを見つけて、目で追っているのに怜莉が気付く。
「……怜莉の好きな人。職場、此の近くなの?」
遠くの歩道をなるべく壁側に寄る様にふらついて歩いている髪を一つに結ったりんね。キャンバス地のトートバッグを肩に掛けている。
「具合悪そう? 怜莉、行ってあげたら?」
「……仕事。止めないと桜海、本当に相手の家に突っ込みかねないし」
「やだなあ。怜莉みたいに真面目じゃないだけで、仕事はちゃんとするよ?」
桜海は怜莉を見て、指輪のある左掌を差し出す。
「おやつ代。コンビニで何か買うから」
怜莉は怪訝な顔をしながらも財布から五百円玉を取り出し、桜海の掌に置いて、車から降りる。
「梶さんには僕から連絡しておくね。怜莉は、仕事より恋愛を取りましたって」
怪訝を通り越して呆れた顔をする怜莉は「ああもう、任せた」とドアを閉めて、歩道に向かう。
「怜莉? 方向逆じゃない?」
桜海は五百円玉を握り締め、車内でさっきまでりんねが歩いていた歩道の先を見る。
右を見ても左を見ても真新しい建物が並ぶ振興住宅街の中を歩いて、立ち止まる。
隣の家と境のフェンスの側に、インターホンと郵便受けと表札が一体になった機能門柱。表札プレートには[ 真屋治療院 ]と書かれている。
怜莉は悩む素振りを見せてから、二台の車の間を通り、引き戸の前に立つ。
突然、戸が開いて、高齢の女性二人が怜莉を見上げる。
「……花ちゃんの彼氏? 噂の?」
「えっ」
女性は隣にいる、河野という女性を見る。
「花ちゃんと同じシャンプーの香り」
「河野さん、相変わらず匂いに敏感ね? あらあら、背が高くて長髪で美形でスーツが似合うって、花ちゃんもずいぶん贅沢するわね」
田中という女性は怜莉の顔をじっと見つめる。
二人の注目を浴びる怜莉は左手の曲げた中指を口に当て
「……花ちゃん?」と静かに口にする。
戸が開いたままの玄関から顔を出した真屋が「河野さん、田中さん」と声を掛ける。
「最近の男の子は照れ屋らしいですから」
女性二人はお互い顔を見合わせると
「花ちゃんを迎えに来たんでしょう。具合悪いのに、一人で帰っちゃったのよ」と云い、
もう一人が「楽しい時期かもしれないけど、無理が利かない時もあるんだから気を付けなさいね?」
と注意する。
「先生、それじゃ3時半に予約の変更、お願いね」
二人は挨拶を交わし、それぞれの県外ナンバーの車に乗り込んでいく。
怜莉は『花』という名前と、顔色が悪く足元が覚束ず、それでも進もうとしていた、さっき迄のりんねの姿、そして彼女の持つ [ SECRET ] の印章、梶が云った「りんねも本名と思えない。歳だって19歳ではない筈」との言葉。知り合って以降の知る限りのりんね。
どれもを全て同時に思い出している。
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