【小説】ラストモーメント⑥【短編連載】



 息切れはしているものの、落ち着いてきた様子のトーコと、
 泣きそうになっている維生(いお)。


「手と顔、洗いますか」


 俯いて頷くトーコの正面に跪き、ボトルを傾け、差し出される両掌に水をかける。


 トーコは濡れたままの顔を、やっと上げて、維生と初めて目が合う。


 背後で汚れた受話器が揺れる。




 助手席。
 維生のマウンテンパーカを羽織り、濡れたタオルで髪を拭うトーコ。
 運転席から心配そうに窺う維生。


「……維生くん、入学式は?」



 トーコの第一声に維生は呆気に取られる。


「いつの……話してるんですか? もう二年生になりましたよ?」


「え?」


 ダッシュボートの上に時計を見つけ、日付を確認するトーコ。


「5月13日……」とトーコは呟く。「えっと……2023年?」 


「トーコさん、巻き込まれた時に岩とか木とかで頭を打ったり」


「ううん。少し混乱したみたい」


「念の為、病院に」首を振るトーコ。



 


「着きました」

 維生が玄関前に横付けして、道路に車を停める。



「実家には連絡してるから何も心配しないで。被災した友達を連れてくるって、状況も伝えてるし」


 トーコは裸足で車から降りる。維生も荷物を持って助手席側から降り、玄関のチャイムを押して中に入る。「ただいま」


 維生の母はバスタオルを抱え「おかえりなさい」と駆け込んでくる。


 そして玄関で維生の後ろに立っているトーコを見て驚き、トーコは慌てて目を逸らしてしまう。
 開いたパーカーを両手で寄せ、汚れた顔と、服を少しでも隠そうとする。


 トーコの視線を落とす足爪先には土が入り込んでいる。



 
「零緒(れお)! ハンナちゃん! 維生が女の子連れてきた!」


 母は大声をあげて慌ててリビングに戻る。


「あーそっち」維生は片手で頭を抱え、振り返りトーコを見る。


「……言ってなかった」



 浴室前の脱衣所。
 母がタオルと部屋着を渡し、ドライヤを鏡の前にセットする。


「気にせず湯船にも入って。傷や打撲がないかも確認してね? いくらでも手当出来るから」


 トーコが深々と頭を下げる。
「いいのいいの。部屋着はハンナちゃん、維生の兄の奥さんが使ってって」


 
 リビングの大きな座卓に並んで座り、テレビを見ている零緒とハンナ。


「震度と被害って比例しないのかな」とハンナが言う。「6弱の生成より他所の方が道路陥没とかしてる」


 そこに戻ってきて座り込む母。
「どうしよ。女の子だって思わなかった。ちゃんと好感度あげておかないと」


 カウンターを隔てたキッチン奥の勝手口のドアを維生が外から開ける。家に上がり、リビングの座卓の前に進むと母が「何してるの?」と訊ねる。


「車、庭に停めて、腕も洗って……」


「だったらトーコちゃんと一緒にお風呂入ってきなさいよ!?」


「は?」


 母の言葉に思わず大声になる維生。


 零緒が「こいつら、勝手に盛り上がってたよ?」と母とハンナの顔を見る。


「いやあの……状況わかってる……?」


 維生は空いた席に座り、部屋を見渡す。


「物倒れたりしなかったの?」


「適当に置いてた物が落ちた程度? 町内の防災指導お願いしてるし、そもそもお父さんがしっかりしてるし」と母が言い、目の前のハンナも頷く。


「私達のとこの部屋も、店もお義父さんが耐震対策してくれたし、何も問題なかったよ」と話す。


「ただ、ね? レオ?」「作ってたケーキが……ね?」「置いてきたケーキも、ね?」


「ええ……持って来なかったの」


「それどころじゃなかったんだよ?」と話す零緒。  


「どっち……結局、こっちは大丈夫だったの?」


 維生が改めて訊くと零緒はテレビの方を見て「火事が二軒と怪我人が数人。停電は夕方には復旧。県境のトンネルの壁が落ちたけど救助は終わってる。4程度の余震が数回。酷いのは糸扁(いとひら)地区の山側。夜で捜索打ち切ってる」


「あ」
 維生が急に声をあげる。


「警察にトーコさんの事、連絡してない」 


「いまのうちして来いよ」
 零緒に促され、渡されたスマホを片手に部屋の隅に行く。


「零緒。トーコちゃん、おうどんなら食べられるかな」母が訊ねると「オレ手伝うよ」と零緒もキッチンに向かう。


 維生が戻ってくると、座卓にはハンナだけが残っている。


「なんて言われた?」


「明日の午前中に訊きに来るって」


「トーコちゃんには言わない方がいいね。ぐっすり眠れなくなっちゃう」 


「あ……そっか」


 維生は軽く息を吐くと、そのまま少しぼんやりとする。


「ハンナさんの家族は?」「カナダじゃニュースになってなかったよ?」




「お風呂ありがとうございました」
 トーコはキッチンにいる母と零緒に頭を下げる。


 奥でミキサーボトルを傾けている零緒に目が行くトーコ。


「えっと兄の零緒で今は先輩夫婦の店で妻のハンナとケーキ作りの仕事を……って維生から訊いてるよね? とりあえずミルクセーキ作ったけど……飲む?」



 トーコは一瞬黙り込み、そしてストローの刺さった冷えたグラスを微笑みながら受け取る。


「ありがとう」


「口の中は切ったりしてない? 無理しなくてもいいし遠慮もしないで」


 リビングでうどんを啜るトーコを見て、維生も口にする。「美味しい」


 ハンナにも部屋着のお礼を言うと「お義父さんにジャージねだったらね、適当に白いワンピにされて。トーコちゃんは似合うね」とハンナがはしゃぐ。


「零緒とハンナちゃんも来てくれたし、維生もトーコちゃんも居てくれて、ほんと良かった」と母が言うと「私こそ」とトーコが返す。



「何故此処にいるのかもわからなくて」「どうして此処にいるだろうって」



 場がしんと静まり返る。



「……維生くんのお父さんは?」


「レスキュー隊だから非常時は仕事で」


 「レスキュー隊? もしかして山糸扁(やまいとひら)に」


「ううん。ニュースでお義父さん見つけたけど、トンネルから車出してた。反対側だよ」
 ハンナが明るく気遣った後、「え……トーコちゃん、家族は……」と青ざめる。


 
 トーコは下を向き、静かに首を振る。


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